19 告白
夏の日暮れは遅いけれど、19時半を過ぎるとやはり薄暗くなってくる。
夕闇を行き交う人の中に詩音の姿がないか探しながら、蓮はあてもなく歩き続けた。
今日、詩音が着ていたのは鮮やかな青のワンピース。まるで夏の空を切り取ったようなその色を探して、蓮はあちこちに視線を走らせる。
時折、何か連絡が入っていないかと携帯電話を確認するものの、新しい情報はない。雛子と相馬も、蓮とは別の場所で詩音を探しているようだが、この場所にもいなかった、と連絡が入るのみ。
付き合いの浅い蓮は、詩音が入院する前の生活を知らない。詩音が行きそうな場所なんてひとつも浮かばなくて、闇雲に走り回るだけの自分が情けなくなる。
ため息をついてもう一度携帯電話を確認しようとした蓮の指が、するりと滑って写真フォルダを開いた。
「……っ」
画面にあらわれたのは、満面の笑みでこちらを見つめる蓮と詩音。以前に二人で出かけた時に撮ったものだ。本当は待ち受けにしたかったのだけど、妙に照れてしまって写真フォルダに大事にしまい込んでいる。
「そうだ、ここ……」
蓮は携帯電話をポケットに押し込むと方向を変えて走り出した。
二人で行った、コーヒーショップ。もしくは花屋。
蓮が思い浮かぶ詩音の行きそうな場所なんて、その二つしかない。
全速力で走ってたどり着いたコーヒーショップに詩音の姿はなく、蓮は息を整えながら向かいの花屋に目をやる。
すでに閉店して暗い店の前には誰の姿もなくて、やはり違ったかとため息をついた時、視界の隅に鮮やかな青がちらりと映った。
「詩音、ちゃん」
ハッと振り返った先、歩道橋の上に青いワンピースを着た小さな姿が見える。顔までは見えないけれど、夜の闇に溶けそうな黒髪も、細く華奢な姿も、間違いない。
恐らく蓮のことには気づいていないであろう詩音は、眼下を駆け抜ける車のライトに吸い寄せられるように手すりから身を乗り出した。
「待っ……!」
その瞬間、蓮は無我夢中で駆け出した。
相当な距離があったはずなのに、気がつけば歩道橋の階段を二段飛ばしで駆け上がっている。
「詩音ちゃん……っ!」
目の前に迫った青いワンピースの裾が、風に踊るように浮き上がったような気がして一気に血の気が引く。
必死に手を伸ばし、細い腕を掴んだ瞬間、詩音の小さな悲鳴が聞こえた気がした。
「蓮、くん?」
驚いたような声がすぐ近くで聞こえて、腕の中にしっかりと詩音を抱き込んでいることに気づいた蓮は、慌てて身体を離す。
「ごめん……、あの、俺」
「探しに来てくれたの? 見つかっちゃったな」
少し残念そうに笑う詩音は、やはりわざと姿を消したのだろう。
「ごめんね、何かモヤモヤして勝手に出てきちゃった」
そうつぶやいて、詩音は手にしたコーヒーショップの紙袋を掲げてみせた。
「この前蓮くんと飲んだやつ、もう販売期間終わってた。新しい限定のを買ってみたけど、一人だと美味しくないね」
「あ……、うん」
曖昧な相槌を打つ蓮を見て、詩音はくすりと笑う。
「……飛び降りるかと、思った?」
心の内を言い当てられて、蓮は思わず言葉に詰まる。詩音は小さく笑って下の道路を見つめた。
「それもいいかなって、思ったけどね。でも、色々と迷惑かけそうだからやめたの」
痛そうだし、とつぶやいて、詩音は手すりをそっと撫でる。
「だけどもう、消えちゃいたいなとは思う。皆のこと忘れる前に、私が消えてしまえば、これ以上誰も忘れないじゃない」
震える声で小さく叫ぶように言って、詩音は手すりを握りしめる。彼女が今にも手すりを乗り越えてしまいそうな気がして、蓮は上からその手を強く握った。
「嫌だよ。もう誰のことも忘れたくないの。蓮くんのことも、ずっと覚えていたいの」
涙混じりで吐き出した詩音が、ぶつかるように抱きついてくる。そのまま二人は、歩道橋の真ん中でずるずるとしゃがみ込んだ。
「だって、今ならまだ蓮くんのこと覚えたまま終わらせられる。その方が、ずっといいよ」
「そんなことない。そんなことないよ」
胸元で何度もしゃくりあげる詩音をなだめるように、ゆっくりと背中を撫でながら、蓮は何度もつぶやく。
「自分で終わらせたりなんてしないで。たとえ詩音ちゃんが忘れたとしても、俺は覚えてる。詩音ちゃんのこと、ずっと覚えてるから」
絹糸のような黒髪をそっとかき分けて、耳元で蓮は囁いた。詩音は何も言わないけれど、ぴくりと震えた身体が話を聞いていることを教えてくれる。
しばらく黙ってうつむいていた詩音は、小さく鼻をすすると蓮のシャツをぎゅうっと握りしめて、ゆっくりと顔を上げた。まだ涙の残る赤い目が、不安定に歪みながら蓮を見つめる。
「……でも、忘れちゃうんだよ。こんなに大好きな蓮くんのこと忘れて、あなた誰? って言うんだよ、きっと」
堪えきれずに溢れた涙が白い頬をすべり落ち、ワンピースに落ちた。
大好きだと告げてもらったはずなのに、蓮の心は嬉しさより苦しさで満たされる。彼女のこの想いすら、いつか消えてしまうというのか。
「好きなの、蓮くんのこと。最初に会った時から……ううん、きっとコンクールで蓮くんのピアノを聴いた時から、好きだったの」
ぽろぽろと涙をこぼしながら告げられた想いに、蓮はぐっと小さく唸る。
「っ俺、俺も……詩音ちゃんのことが好きだ。最初に会った時からずっと。笑顔が可愛くて、明るくて、それに俺のピアノを褒めてくれたこともすごく嬉しくて。大好きな詩音ちゃんのために弾いたら、もっといい音が出せるような気だってするんだ」
緊張で喉がからからだ。少しつっかえてしまったが、蓮も必死に想いを伝える。
その言葉を受け止めた詩音は、少し驚いたようにぽかんと口を開けたあと、涙の滲んだ目で嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、すごく嬉しい。……両想いだ。蓮くんも私のこと好きだって言ってくれるなんて、思ってもみなかった」
「俺も、まさか詩音ちゃんが好きになってくれるなんて……信じられないくらい」
「ふふ、嘘じゃないよ。本当に、大好きなの。……蓮くんが大好き」
噛みしめるように、とびっきりの笑顔で想いを口にしてくれた詩音だったが、その表情は徐々に崩れて泣き顔に変わる。
涙を見せないようにしたいのか、詩音はうつむいてぎゅっと拳を握りしめる。
はぁっと小さなため息と同時に涙の雫がワンピースに転がっていった。
「こんなの好きなのに。今、すごく幸せなのに。この気持ち、忘れたく……ないのになぁ」
涙声でつぶやいて、詩音は蓮に強く抱きついた。まるで離れたくないというように、その手は微かに震えている。
華奢なその身体を抱きしめながら、蓮はうなずくことしかできなかった。
「ね、蓮くん」
しばらく黙って蓮の胸に頬を寄せていた詩音は、ひとつしゃくり上げたあと、少し鼻声で呼びかける。
小さく首をかしげた蓮に向かって、詩音はまだ涙の残る目を細めて笑った。
「キス、しよ」
「え……っ」
「初めて大好きな人と両想いになれた記念に。蓮くんとの思い出、残したいんだもん」
「それ、は」
「あ、私はキスとか初めてだけど、蓮くんは違うか」
「いや、俺も初めてだけどっ!」
思わず食い気味に言うと、詩音は声をあげて笑った。
そして、周囲を見回すとくすりと笑った。
「ほら、今なら誰もいないし。両想いになったらキス、は定番でしょ」
すっと伸ばされた手が、蓮の頬に触れる。日が暮れても外は蒸し暑いのに、詩音の手はひんやりとしている。
ゆっくりと目を閉じた詩音の顔が綺麗で、一瞬見惚れつつも蓮はそっと自らの顔を彼女に近づけた。
触れ合った唇は驚くほどに柔らかくて、どこかいい匂いがした。
緊張のあまり頬が震えるのを感じて、蓮はそっと詩音から離れると口元を覆った。
そうしていないと、にやけた顔を彼女に晒してしまう。
「えへへ、ファーストキスの思い出、もらっちゃった」
詩音も照れたように笑ってそんなことを言う。
だけど、すぐにうつむいてため息をついた。
「あーあ、覚えていたいな、蓮くんのこと。忘れちゃうなんて、嫌だな。こんなに大好きって気持ちが身体中にあふれてるのに、それがなくなっちゃうのが怖いよ。なんでこんな病気になっちゃったのかなぁ」
必死に明るく振る舞おうとする詩音が痛々しくて、蓮は黙って首を横に振ることしかできない。
想いが通じ合って幸せなはずなのに、二人の未来には別れしかない。近い将来、詩音は蓮のことを存在ごと忘れてしまう。どんなに願っても、それを止める術は、ないのだから。
「先に謝っておくね、蓮くん。ごめんね。本当は、この気持ちも伝えるべきじゃなかったよね。だけど、好きなの。黙っていられなかったの」
さっき見せた笑みは、もう消えてしまった。詩音はふたたび涙をこぼし始める。
彼女の心は、もう限界に近いのだろう。
蓮は、もう一度詩音を抱き寄せた。
「謝らないで、詩音ちゃん。俺のことを好きになってくれて、それを教えてくれて、嬉しかったから」
「どうか、私が蓮くんのことを忘れても……嫌いにならないで」
しゃくりあげながら伝えられた言葉に、蓮は唇を噛む。
そして、冷たい詩音の手を両手で握りしめた。
「嫌いになんて、ならない。ずっと好きだから」
「私、蓮くんのことも忘れちゃうのに? きっと、あなた誰って言ってしまうのに?」
涙声で言い募る詩音に、蓮は笑ってうなずくと、震えている彼女の身体を安心させるように抱きしめた。
「それでもいい。毎日、俺と出会って。はじめましてって挨拶して、それから仲良くなろう。大好きだって、何度でも伝えるよ」
「ピアノも聴かせてくれる?」
まだ涙声で、願うように詩音は囁く。
「もちろん」
強くうなずいた蓮を見て、詩音の顔にわずかに笑みが浮かんだ。
「蓮くんの音なら、忘れないと思う。誰が弾いてくれたかは忘れちゃうかもしれないけど、きらきらした光みたいな蓮くんの音は、きっとずっと覚えてる」
「うん。俺のピアノは、詩音ちゃんのために弾くから」
その言葉に、詩音は小さく声をあげて笑った。
「蓮くんのピアノをひとりじめしちゃうなんて、贅沢で素敵」
ようやく戻った笑顔を引き止めるように手を握り、蓮は詩音をじっと見つめる。
「明後日さ、聴きにきてよ。俺、頑張るから」
「コンクール?」
「そう。詩音ちゃんが泣いちゃうくらい、きらきらした音で弾くって約束する」
蓮は、そう言って小指を差し出した。詩音は驚いたように一瞬目を見開いたあと小さくうなずき、おずおずと細い指を絡めた。
「うん。楽しみにしてる。絶対に忘れないから」
その言葉がどれほど頼りない約束か、お互い分かっているけれど、二人は黙って強く小指を絡ませた。
そして指を繋いだまま、約束を誓うようにもう一度だけキスをした。