1 夏の日の出会い
「――うん、診察の結果、特に問題ないって。……うん、大丈夫。ピアノも弾けるって。――そうだね、頑張る。うん、それじゃあ」
見えてもいないのにぺこりと頭を下げて、蓮は通話を終えた。
相手は母親だけど、どうしてもそっけない話し方になってしまう。思春期ということもあるけれど、蓮にとって彼女は、親というよりもピアノの先生なのだ。今も活躍する現役ピアニストの母は、蓮にも同じ道を歩んでもらいたがっている。
はぁっと大きなため息をひとつ落とすと、蓮はベンチに腰を下ろして右手を太陽に透かした。初夏の強い日差しが、手のひらに突き刺さるような気がする。
「何の問題もない……だって。ドクターストップになれば、棄権できるかなぁって思った俺が、甘かった」
体育の授業で傷めたと思っていた右手は、何度か握ったり広げたりしてみても違和感なく動く。大学病院での診察結果に間違いがあるわけもないだろうし、実際痛みは何もないのだから、いい加減現実を受け入れるべきだろう。
診察は終わったのだし、今からでも学校に行くべきだと分かっているのに、何となくやる気が起きない。蓮は病院の中庭にあるベンチから動くことができないまま、ぼんやりと座り続けていた。
小さな子供の座る車椅子を押す看護師の姿や、リハビリ中なのかスタッフと一緒に杖をついてゆっくりと歩く老人の姿を見るともなしに眺めながら、蓮は深いため息をつく。
「逃げたって、ピアノから離れられるはずないのにな」
母親の職業柄、蓮は音楽に囲まれて育ってきた。物心つく前から鍵盤に触り、見よう見まねで音を奏でた蓮を、母親は天才だと喜んだという。
親の指導が良かったのか、それとも血筋か。
蓮は幼い頃から数々のコンクールで入賞を果たしてきたし、高校生になった今だって音大目指して日々練習を重ねている。
だけど所詮それなり、なのだ。上には上がいるし、いつだって蓮は一番になれない。どうしても越えられない壁があるのだ。親の血筋なんて、天才の前では何の意味もない。
それなのに、どこに行っても『あの佐倉薫子の息子』と囁かれるし、期待を裏切らない演奏をしなければならないというプレッシャーは凄まじい。
音楽で食べていきたいのなら、実績を。ひとつでも上の賞を獲れ。
三か月後に迫ったコンクールに向けて、母親からは無言の圧力を感じる。彼女は蓮を信頼できるピアノ講師に託して自らは口出しをしてこないが、それでも入賞を期待されていることは嫌でも分かる。
だけどもし、賞を獲れなかったら。そうしたら蓮の奏でる音楽に、価値はないのだろうか。
純粋に音を奏でる喜びだけを感じていた日々が懐かしく思えるほどに、周囲の期待は蓮の心をすり潰していく。
だから、負けないようにと必死に努力を重ねてきた。自分の環境が恵まれていることは分かっていたし、同時に自分が決して天才ではないことも理解していたから。
もっといい音が、もっと心に響く表現ができるはずなのに、届かない。天から降り注ぐ光のような美しい音は、どうやったら出せるのだろう。
必死に努力する蓮の上を、天才たちは軽やかに飛び越えていく。
天才は、最初の一音から違う。圧倒的な表現力と、力強く時に繊細な響き。周囲の空気すら変えるほどに惹きつけられる。一瞬にして、あぁ敵わないと打ちのめされるのだ。
弾くことは好きなのに、自分の理想と実力が嚙み合わなくて、焦りばかりが募る。
そんな日々に疲れて、だけどピアノから離れることなんてできない。
だって、蓮はピアノを愛しているから。幼い頃から常にそばにあったピアノは、もはや蓮の一部と言える。街中で音楽を聴けば、頭の中には楽譜が浮かぶし、指だって勝手に動く。
どんなに疲れていても、熱を出した日ですら、蓮はピアノに向かった。
こんな些細な怪我で、弾くのをやめることなんて、できるはずがない。
「……怪我で棄権なら仕方ない……なんて、言い訳する暇あるなら練習しろってな」
自嘲気味につぶやいて、蓮は目の前で指先をぱらぱらと動かしてみる。
練習しなければ、弾けるようにはならない。天才ではない蓮は、努力を重ねることしかできないのだから。
なんとなく動かしていた指が頭の中に流れ出したメロディを辿り始め、蓮は右手を太腿の上で踊るように走らせる。こうしていたら、頭の中では理想的な音が鳴らせるのに。
「すご……、魔法みたい」
不意にそばで聞こえた声に、蓮はハッとして手を止めた。
「あ、ごめんなさい。目にも止まらぬ速さで指が動くから、びっくりして声かけちゃった」
目の前に見たことのない顔があって、蓮は思わず無言で観察してしまう。
顎のラインですっきりと切り揃えられた黒髪に、きらきらと好奇心に輝く猫のような瞳。
初めて見る顔だけど、かなりの美少女だ。恐らくは蓮と同世代であろう彼女は、平日の午前中だというのに白いワンピースに小さなポシェットだけという身軽な格好をしている。誰かの見舞いに来たのだろうか。
「ねぇ、ピアノ弾けるの?」
少女は、小さく首をかしげた。絹糸のような髪がさらりと揺れるのに、思わず目を奪われる。
「あ、うん。一応……」
無邪気に話しかけてくる美少女に若干気後れしつつうなずくと、彼女はわぁっと歓声をあげて輝くような笑顔を浮かべた。
「やっぱり! すごいなぁ、ねぇねぇ、もう一度指動かしてみせて」
「いや、さっきのは無意識っていうか……、人に見せるもんじゃないし」
慌てて首を振る蓮を見て、少女はそっと蓮の手に触れた。ひんやりとした細い指先の感触に、思わず小さく息をのむ。女子と手が触れ合うなんて、小学校以来だ。
蓮の動揺など知らない彼女は、上目遣いで微笑んだ。至近距離でそんな表情を見せられたら、異性に免疫のない蓮はあっという間に真っ赤になってしまう。
「だって、魔法みたいだったの。鍵盤もないのに、指先からきらきらした音が流れ出しているように見えたよ」
「……きらきらした、音」
少女の言葉は、蓮の心の深いところに突き刺さった。彼女には、蓮の理想の音が聴こえたのだろうか。
戸惑う蓮に気づかない彼女は、にこにこと笑いながら顔をのぞき込んできた。
「ね、実際に弾いてみせてよ」
「えっ」
握った手をぐいっと引っ張られて、蓮は思わずベンチから立ち上がる。
「や、弾くったって、ピアノなんかどこにも」
「大丈夫、来て!」
少女は蓮の手を引いたまま、軽やかに駆け出す。
「待っ……」
止める間もなく、蓮も少女に引っ張られるようにして走り出した。