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17 私のことを覚えていて

 バスに乗った蓮を見送って、詩音はゆっくりと病室へ向かう。

 もしかしたら雛子と悠太がいい雰囲気になっているかもしれないから、時間稼ぎのためにいつもより遠回りをして中庭を通っていくことにした。


「……蓮くんに会ったの、ここだったな」

 中庭のベンチを見つめて、詩音はつぶやく。

 記憶を失っていくばかりの中で、詩音が忘れることなく覚えていられた人。

 優しくて、ちょっとはにかんだ笑顔が可愛くて、だけど詩音よりもずっと大きな手は、やっぱり男の子なんだなと思う。

 あの指先が紡ぐ音は、詩音をいつだって魅了する。

 どんどん誰かの記憶と思い出を失って、誰もいなくなっていく詩音の世界を照らす、きらきらとした音。

 彼の弾くピアノを聴いていると、何も怖くないという気持ちになれる。


――まるで、蓮くんの音に包み込まれてるような気がする……なんてことは、絶対に言えないけど。


 ほのかな恋心を抱いていることだって、彼には決して告げられない。

 詩音は、いつ彼の記憶を失うかも分からないのだから。


――だけど、もしも好きだって告白したら。そうしたら蓮くんは、私のことをずっと覚えていてくれるかな。


 詩音が想いを告げれば、それは蓮を縛りつける呪いになる。

 想いは叶わなくとも、優しい彼はきっと詩音の気持ちを笑って受け止めてくれる。

 そうして、蓮の心のどこかに詩音の存在を刻み込みたい。

 自分はいつか蓮のことも綺麗さっぱり忘れてしまうのに、なんて自分本位な願いだろうと思うけれど。


 足を止めた詩音の気配に驚いたのか、庭木に止まっていた蝉が耳障りな音を響かせて飛び立っていく。

 ぼんやりとそれを見送って、詩音は唇を歪めた。

「……なんて、そんな重荷を背負わせるわけにはいかないよねぇ。ただでさえ、負担かけてるのに」

 誰に聞かせるでもなく明るい声でそう言って、詩音はふうっと息を吐いた。

 蓮にはこれから輝かしい未来が待っているはずで、詩音が引き止めていいはずがない。

 あの笑顔も、優しい声も、きらきらした音も、いつか違う誰かのものになるのだ。

 分かっていても、胸が痛む。

彼のそばに自分ではない誰かが寄り添うことなんて、考えたくもない。

 でも、どんなに苦しくても、蓮のことを忘れてしまうよりはずっとましだ。


「ずっと、このままでいたいなぁ」

 ほとんど吐息のような声で、詩音はつぶやいた。

 時間が止まればいいのにと、何度願ったことだろう。

 蓮も、雛子も、そして悠太も。皆、詩音に会う時にはとても緊張した顔をしている。

 自分のことをまだ覚えているのだろうかと探るような視線に、いつもいたたまれない気持ちになる。

 そして、先程病室を訪ねてきた医師は、恐らく詩音が記憶を失った相手。

 金居と名乗ったあの男性医師の顔に見覚えはないし、全くの初対面だと思うけれど、蓮や雛子の顔が微かにこわばったことから、彼が親しい相手であったことは想像できる。

 きっとあの医師のことも、詩音は傷つけたのだろう。

 詩音が医師のことを忘れていることに気づかないよう、普段通りに振る舞ってくれる二人の優しさに感謝しながら、同時に申し訳なくてたまらなくなる。

 いつか、あの二人のことも忘れてしまうのだから、本当は距離を置くべきなのだと思う。

 会わなければ詩音は彼らの記憶を失ったところで気づかないし、『あなたは誰?』なんて酷い言葉をかけずにすむ。

 だけど、大好きな人に会える喜びを、共に笑い合えるこの貴重な時間を、どうしても詩音は手放すことができなかった。

 近い将来、二人を深く傷つけることが分かっているのに、それでも会いに来てくれる彼らの優しさに、詩音は甘え続けている。

 手のひらからこぼれ落ちていくような、詩音の記憶。

 もう、残っているのはあとわずか。



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