16 誰かのために奏でる音
どこかぎこちない、上の空な会話をしながら売店でアイスを買って、蓮たちは中庭へと向かった。詩音に気づかれまいと必死に明るく振る舞う雛子を見ていると、詩音と二人きりにすることに不安があって、蓮も帰る時間を遅らせることにしたのだ。
外は暑いけれど木陰に入ればいくらかはましで、三人はベンチに座って溶け始めたアイスを慌てて口に運ぶ。
「すごい、あっという間に溶けてきた」
どんどん液体化していくアイスに悲鳴をあげながら、詩音が笑う。いつもと変わらないその楽しそうな表情を見て、雛子が辛そうに一瞬眉を顰めた。このまま泣き出すのではと焦った時、こちらに向かってくる人影を見て蓮は思わず立ち上がった。
「相馬先生」
「あれ、悠太」
同時に気づいた詩音も、立ち上がって手を振る。
「なんでまた、この暑いのに外でアイスなんて食べてるの」
近づいてきた相馬は、蓮たちの手にある溶けかけのアイスを見て苦笑を浮かべた。今日は仕事ではないのか、白衣ではなくラフな服装をしている。
「暑いからこそ、冷たいアイスが美味しいの!」
そう言って胸を張った詩音が、くすくすと笑いながら相馬の腕を引いた。
「あのね、悠太。私、蓮くんを送ってくるからさ、ヒナと一緒にお部屋戻っててくれる?」
「え、詩音?」
驚いたように目を見開く雛子の手を引いて立ち上がらせると、詩音はそのまま相馬の方へと押し出した。
「行こう、蓮くん」
悪戯っぽい表情で笑いながら、詩音が蓮の手をとる。一瞬躊躇ったものの、不安定な雛子を相馬がきっと支えてくれるだろうと考えて、蓮もうなずいた。
「ヒナをよろしくね!」
明るくそう言って歩き出した詩音に手を引かれて、蓮は慌てて相馬と雛子に頭を下げて歩き出した。
「ごめんね、蓮くんも巻き込んじゃって。ちょっとヒナにお節介しちゃった」
病院前のバス停へと向かいながら、詩音が蓮の顔をのぞき込む。
「いや、別に。ヒナちゃんが相馬先生のこと好きなのは見てて分かるし」
「ふふ、二人、うまくいくかなぁ。悠太もね、ヒナのことずっと可愛がってくれてるから、いい感じだと思うんだよね」
くすくすと笑いながら、詩音は機嫌良さそうに蓮と繋いだ手を前後に振る。何の躊躇いもなく繋がれた手に、蓮は内心動揺しっぱなしだ。
二人の関係の進展もだけど、詩音には涙を見せまいと必死で笑顔を浮かべていた雛子が、相馬の前で泣けるといいなと蓮は思った。
バス停に着いて、詩音はそっと握っていた手を離した。
出発時刻が迫り、バスがエンジンをかけ始める。
「レッスン、頑張ってね」
エンジン音に負けないようにか、耳元に唇を寄せて囁かれて、蓮の鼓動が跳ねた。全身にどっと汗をかいたような気がして、手を離していて良かったと思う。
「うん、ありがと。また明日」
「待ってるね。……私、蓮くんのことは、忘れないから。きっと明日も覚えてるからね」
少し震えたその言葉に蓮は思わず口を開きかけるけれど、離れていく詩音に声は届かない。
笑顔で手を振る詩音に、バスの中から手を振り返しながら、蓮はもしかしたら彼女は金居の記憶を失ったことも理解しているのかもしれないと思った。
◇
バスの窓の向こうに遠ざかっていく詩音の小さな背中を見つめながら、蓮は重いため息をついた。
詩音がまだ覚えていられる人は、あとどれほどいるのだろう。
蓮と雛子、それから相馬。
両親の記憶を失い、今日また主治医の金居の記憶も失った詩音の頭の中には、まだ誰かいるのだろうか。
詩音の世界に、誰もいなくなる日はそう遠くないのかもしれない。
知らない人を見るような目で金居を見ていた詩音の表情が脳裏に浮かんで、蓮は思わず激しく首を振った。
もし、詩音にあんな目で見られたら。
誰? と問われたら。
その時、蓮は金居のように穏やかに接することなんて、きっとできない。
強く噛みしめた唇から、微かに血の味がした。
◇
重苦しい気持ちでレッスンに向かったものの、気持ちは音に出る。
「――もう、いいわ」
弾いている最中に止められて、蓮は黙って鍵盤から手を離した。指摘されるまでもなく、腑抜けた音なのは分かっている。
「どうしたの、蓮。本番は来週なのよ。音だって濁ってしまってるし、ミスも酷いわ」
ため息をついて蓮の顔をのぞき込んだのは、師の本間だ。彼女には、幼稚園の頃からずっと師事している。
母親の音大時代の先輩だという本間は、ピアノの先生のイメージそのままの上品な人だ。決して声は荒げないけれど、厳しくも細やかな指導のおかげで蓮のピアノは上達した。
だけど、頂点に立てない蓮は中途半端だと、いつ見限られるだろうと不安が尽きない。
「このところ、ずっと心ここにあらずといった感じだけど、何をそんなに悩んでいるの」
「すみません」
詩音のことを話せるはずもなく、蓮はうつむいてぎゅっと手を握りしめる。頭の上から、本間のため息が降ってきた。
「賞をとることに必死になりすぎたかしら。もっとのびのびと、楽しく弾くことを意識した方がいいのかもしれないわね」
「え……」
蓮は思わず顔を上げる。彼女は、何がなんでも賞を目指せと言うのかと思っていたから。
そんな心の内が表情にも出ていたのだろうか。本間は小さく苦笑した。
「賞をとることが全てじゃないわ。だけど、将来の可能性を広げるのに賞をとることが大事なのも確かだもの。蓮には、賞をとれるだけの実力があるから言うのよ」
「それは……、分かってます」
この先ピアノの腕で食べていこうと思ったら、受賞歴は無いよりあった方がいいに決まっている。だけど、蓮の実力ではピアノで食べていくことが難しいであろうことも、分かるのだ。世の中にはもっとすごい天才がたくさんいるから。それこそ、十にも満たない年で蓮よりもよっぽど難しい曲を弾きこなす子だって、両手では足りないほど存在している。
「少し賞を目指すことは忘れて、弾きたいように弾いてみれば? 例えば、誰かに向けて弾くとか」
「誰かに……」
その言葉に脳裏を過ぎるのは、詩音しかいない。
「あら、その顔。誰か思い当たる人がいるのかしら」
「……っ」
揶揄うような本間の言葉に微かに赤面しつつ、詩音のことを想って弾けば、この音は変わるだろうかと蓮はぼんやり考えていた。