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15 消えゆく記憶

 詩音と久しぶりに触れ合った日以降、千尋は母親として詩音のもとを訪れているらしい。詩音は蓮には何も言わないけれど、ちらりと見えた手帳には『お母さん』といくつか書かれた文字が、少しずつ増えているようだった。



 夏休みを迎えて、蓮は毎日のように詩音のもとを訪ねている。雛子も部活帰りに顔を出すことが多く、三人で過ごすことが増えた。

 療法室でピアノを弾いたあと、詩音の病室でとりとめのない世間話をするのがいつもの流れ。時折、相馬が様子を見に来ると雛子がそわそわと落ち着きをなくすので、蓮と詩音はこっそり目を合わせて笑い、彼女のほのかな恋を応援している。

 詩音に会う前に緊張するのは変わらないけれど、いつだって彼女は輝くような笑顔を浮かべて蓮を迎えてくれるから、こんな日々が続いていくのだと勝手に思い込んでいた。

 そんな穏やかな日常は、突然崩れる。



 いつものように、蓮と雛子と詩音は過ごしていた。

 大量の夏休みの課題をお互い持ち寄って解いていると、まるで詩音の病気なんてはじめからなかったかのように錯覚してしまいそうになる。

 だけどここは病院だし、詩音の手首には入院患者の証であるバンドが巻かれている。


「あーもう、英語キライ。本当意味分かんない」

 分厚い問題集と格闘していた雛子が、うんざりした様子でペンを放り投げる。

「蓮は、何でそんなスラスラ解けるの? ちょっとムカつくんだけど」

「何でって言われても……。でもヒナちゃんは数学得意だろ。俺は全然だし」 

「皆、得意科目バラバラだね。私は数学も英語も苦手だもん」

 古文の問題を解いていた詩音も、疲れたようにペンを置いた。高校を休学中なので、やる意味あるかなぁとつぶやきつつも、二人に付き合って詩音も課題を少しずつこなしているのだ。

「もーだめ。休憩しよ。詩音、売店にアイス買いに行こうよ」

 完全に集中力が途切れたらしい雛子が、財布を持って立ち上がる。

「いいよ。蓮くんは、どうする? このあとピアノのレッスンがあるんでしょ?」

「んー、そうだな、もう少ししたらバスの時間だし、一緒に行ってそのまま帰ろうかな」

 時計を見上げつつ蓮が答えると、詩音はうなずいた。

 その時ノックの音が響き、詩音が返答する前にドアが開いた。以前詩音が言っていたように、そんな訪問の仕方をするのは主治医の金居しかいない。

「こんにちは」

 予想通り、穏やかな笑みを浮かべた金居が顔をのぞかせた。売店に行くのは、彼の診察のあとかなと思いつつ詩音の顔を見た蓮は、小さく息をのんだ。


「……誰?」

 少し強張った表情で、不安気に胸の前で手を握りしめる詩音。

 その様子に気づいた金居は、一瞬ハッとしたように目を見開いたものの、すぐに穏やかな表情を取り戻した。

「こんにちは、詩音さん。医師の金居です。少しお話したかったんだけど、お友達が来てるみたいだし、また出直しますね」

「金居、先生」

 当惑したような表情で首をかしげる詩音は、やはり金居のことを覚えていないようだ。

「ごめんね、来客中に。また来ます」

 にこりと笑い、金居は部屋を出て行く。黙って見送る雛子と蓮には、彼が微かに苦い笑みを浮かべているのが見えた。


「ヒナ、行こっか」

 何事もなかったかのように財布を持つ詩音を見て、雛子が慌ててうなずく。

「う、うん。今日は暑いから、さっぱりしたシャーベットとか食べたい気分だよね。詩音、何食べる?」

「そうだなぁ。フルーツ系もいいけど、甘いバニラも捨てがたいねぇ。さっぱりっていうなら、チョコミントもいいなぁ」

 少しうわずったような雛子の声に気づかず、詩音はニコニコと楽しそうにあれこれと候補を挙げていく。彼女だけが何も変わらない日常を生きていることに、蓮は言葉を失う。

 ふと雛子と目が合った瞬間、その表情が歪んだ。それでも雛子は、何度も瞬きを繰り返して泣くのを堪えているようだ。

 

 あんなに懐いていた金居の記憶すら失うなんて。つい一昨日にも、課題に苦労していたところを優しく教えてくれたのに。

 だけど、金居の記憶を失ったことを詩音に気づかせるわけにはいかない。蓮と雛子は一瞬視線を絡ませて、普段通りに振る舞うことをお互い確認しあった。


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