14 おかあさん
詩音の母親へのプレゼントを買ったあと、二人は病院へと戻ることにした。本当はもっといろんな場所に行きたいけれど、あまり外を出歩かない詩音の体力を考えると、そろそろ休まないと疲れてしまうだろうから。
「喜んでくれるといいな」
抱えた紙袋を見ながら、詩音が小さくつぶやく。
あまり病院には顔を出さないらしいから、従兄の相馬が渡してくれるのだという。
代理の人をよこすくらい忙しいみたい、と言う少し寂しそうな横顔を見て、きっとそれが母親の千尋であろうことを想像するものの、蓮には何も言えない。
「きっと、喜んでくれるよ」
それだけ言うと、詩音もこくりとうなずいた。
手を繋いで歩いていると前方から見覚えのある人影が見えて、蓮は思わず足を止める。
「悠太!」
同時に気づいたらしい詩音が駆け出すから、手を繋いだままの蓮も一緒に走ることになる。
「外出してるって聞いたから、様子を見にきたんだ。蓮くんと一緒だったんだね」
にっこりと笑った相馬の視線は、繋がれた手に注がれている。ここで突然手を離すのも変だし、そもそも詩音がしっかりと握りしめているから振り解くわけにもいかず、蓮は気まずい思いで小さく頭を下げた。
「そうなの! すごい楽しかったよー。ね、蓮くん」
「う、うん」
笑顔のはずの相馬の視線が冷たいような気がして、背筋を汗が流れ落ちる。
「良かったね、詩音」
「またどこか行きたいなぁ。今度は、もっと遠くまで行きたい!」
「そうだね、金居先生の許可が出たらね。蓮くんも、ありがとう」
穏やかに笑いながら、相馬は詩音の頭を撫でた。ちらりと蓮に向けた視線も少し和らいでいて、詩音が笑顔になるのなら蓮の存在も許すと言われているような気がする。
「見て、お花買ったの」
花を見せるために繋いでいた手が離れていく。そのことにほっとする気持ちと、まだ手を繋いでいたかったという残念な気持ちが半分ずつ。
なんとなく手に残ったぬくもりを逃したくなくて、蓮はそっと手を握りしめた。
詩音が紙袋から取り出してみせたのは、ガラスのケースに入ったプリザーブドフラワー。すぐに枯れてしまう花よりも長持ちする方がいいだろうからと相談して、詩音自ら選んだものだ。
「綺麗だね。きっと喜ぶよ」
「だといいなぁ」
送っておくねと言って、相馬が紙袋を取り上げようとした時、詩音が躊躇いがちに口を開いた。
「あの、さ。お母さんに会って、直接渡すのとかって……できるかな」
「そりゃできる、けど。思い出したわけ……じゃないよね」
戸惑ったような相馬の言葉に、詩音はうなずく。
「思い出してはないけど……、母親の顔も忘れちゃった娘に会うのなんて、やっぱり嫌かな」
「そんなこと……っ」
「そんなことないよ、詩音」
思わず声をあげてしまった蓮の言葉に、相馬の声が重なる。
「きっと、すごく喜ぶと思う。僕から連絡するから、来てもらおうか」
詩音の決意が揺るがないようにと考えてか、相馬はその場で千尋にメッセージを送り始める。しばらく携帯電話の画面を見つめていた彼は、何度か画面をタップしたあと笑顔で顔を上げた。
「今から行きますって。病室で待ってよう」
「うん」
うなずいた詩音は笑顔を浮かべているものの、その横顔は少し緊張を漂わせている。相馬もいることだし、今日はもう帰ろうかと迷っていると、詩音がふと蓮の方を見た。
「蓮くんも、一緒にいてくれる?」
「いいけど……、俺がいてもいいのかな」
家族の対面に、親族でもない蓮が同席するのもどうなのだろうと思ってしまう。今は、従兄である相馬がいるから余計に。
だけど、詩音はゆっくりと首を振った。
「一緒にいてもらえたら心強いから。それに、お花を選ぶのにもたくさん相談に乗ってくれたでしょう?」
返答に困った蓮は、助けを求めるように相馬の顔を見た。目が合うと相馬は、小さくため息をついて笑う。
「詩音がそう望むのなら、一緒にいてくれると嬉しい」
きっと相馬は、詩音の気持ちを一番に考えてそう言っているのだろう。詩音が望むなら、それで彼女が笑うのなら、相馬は蓮の同席を止めないということだ。
だから蓮は、黙ってうなずいた。
病室に戻ってしばらくすると、相馬が詩音の母親が到着したようだと告げて部屋を出て行った。
蓮は、そわそわと落ち着かない様子の詩音を見つめる。
「詩音ちゃん、座ったら?」
「うん、そうなんだけど、なんか落ち着かないんだもん」
そう言って詩音はうろうろと部屋の中を歩き回る。
やがて足音と人の気配と共にドアがノックされ、詩音がびくりと身体を震わせた。
ゆっくりと部屋に入ってきたのはやはり千尋で、酷く緊張しているように見える。『母親の代理人』として会うことはあっても、母親として会うのは久しぶりだからだろうか。
「詩音、この人がお母さん」
相馬の言葉に、詩音はぺこりと頭を下げた。
「お誕生日、おめでとう。……あの、何も覚えてない娘で、ごめんなさい」
やはり、つい先日『母親の代理人』として会ったことも、詩音は覚えていないらしい。
娘の口から覚えていないとはっきり言われても、千尋の表情は変わらない。部屋に入ってきた時から、ずっと穏やかな微笑みのままだ。
「ありがとう、綺麗なお花ね。大切にするわ」
差し出された花を受け取って、千尋は柔らかく笑った。やはり二人並ぶとよく似ている。
「そのお花ね、ここにいる蓮くんと一緒に選んだの。私の大切なお友達なの」
「そうなの。詩音と仲良くしてくれているのね。どうもありがとう」
お互い初対面を装って、蓮と千尋は会釈を交わす。
「あの、……お母さん」
酷く自信なさげな声で詩音がつぶやくから、部屋にいる全員の視線が彼女に集まる。それに萎縮したように身体を縮めながら、詩音は躊躇いがちに口を開いたり閉じたりを繰り返した。
「なあに?」
千尋が穏やかな声で首をかしげると、詩音は意を決したように顔を上げた。
「あのね、手を……握ってもいい?」
「えぇ、もちろん」
戸惑いつつも笑顔で差し出した千尋の右手に、詩音は恐る恐るといった様子で手を伸ばす。
最初は軽く、そして確かめるように何度かぎゅうっと握りしめたあと、詩音は儚い笑みを浮かべて手を離した。
「ありがとうございます。記憶はなくても、手を繋いだ時の感覚なら覚えてるかなって思ったけど……、だめだった」
「……きっとそれは、私のせいね。仕事の忙しさを理由に、あなたと手を繋いで歩いたことなんてほとんどなかったから。今更だけど、ごめんなさい、詩音」
ため息混じりに千尋がつぶやく。微かに震えた語尾に、詩音は気づいただろうか。
「お母さんと私がどんな関係だったのかはもう覚えてないけど、私を産んでくれたことには感謝してるの。こんな病気になっちゃったけど、それでも私は毎日が楽しいし、蓮くんとも出会えたから」
ちらりと蓮の方を見て、詩音は笑う。そしてまた千尋の方に向き直った。
「きっと明日にはまた忘れちゃうけど……、また会いに来てくれる?」
その言葉に、千尋は小さく息をのんだ。
「いいの?」
確認するような震える声に、詩音はこくりとうなずいた。
「お母さんが嫌じゃなければ、だけど」
「嫌なんてこと……」
勢いよく否定の言葉を発しかけた千尋は、途中で口をつぐむと自嘲めいた笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、あなたの病気を受け入れられなくて、仕事を理由に顔を出していなかったことは事実だもの。だけどこれからは、もっとちゃんと会いに来るわ」
「うん、待ってる。……ごめんね、明日にはきっと忘れてるけど、お母さんに会いたいって思う気持ちは嘘じゃないんだよ。だから、また会いに来てね」
詩音は、微笑んで千尋に小指を差し出した。
ゆっくりと絡められた指を見て、詩音は数回上下に振ると手を下ろした。
◇
仕事に戻るという千尋を相馬が送って行き、病室には蓮と詩音の二人きりになる。
「疲れた?」
ふうっとため息をついてソファに身体を預けたのを見てたずねると、詩音は小さく笑った。
「ん、少しだけね。でも、お出かけはすごく楽しかったよ」
「それなら良かった。今度はどこに行こうか」
蓮の言葉に、詩音は思わずといった様子でソファから身体を起こす。
「また、どこか行けるの?」
「先生の許可が出たら、だけど。先に予定合わせとこう。また今度……なんて曖昧な約束は詩音ちゃん、好きじゃないだろ」
手帳を開くように促すと、詩音は嬉しそうにうなずいた。
「俺が空いてるのは、この日とこの日かな……」
カレンダーを指差すと、詩音がそこに青いペンで丸をつける。
「どっちかで外出許可もらえるように、先生に頼むね!」
『蓮くんとお出かけ(仮)』と記入して、詩音は嬉しそうにその文字を指でなぞった。
「そういえば、覚えててくれたんだね」
ペンを片付けながら、詩音がつぶやく。何のことか分からず首をかしげた蓮を見て、詩音は手帳を撫でた。
「また今度、なんて約束が好きじゃないこと」
「あぁ、うん」
うなずいた蓮の方に顔を向けて、詩音は笑みを浮かべる。だけどその視線はどこか遠くを見つめているように見える。
「お母さんとはね、怖くて約束できなかった。また来てくれるか……分かんないし。蓮くんやヒナとは約束できるのにな。やっぱり、ほとんど見捨てられてるような状態に、傷ついてたのかもね、私」
「そんなこと……」
千尋が何度も詩音のもとを訪れていることを、蓮は知っている。詩音の手帳にも、ところどころに『ちひろさんって人が来た』と書いてあるのも見たのだけど、それを伝えても詩音が信じるかどうか分からない。
結局、何も言えずに黙った蓮に気づかない様子で、詩音は手帳を閉じる。
「まぁ、何というか吹っ切れたような気はする。誕生日プレゼント渡せたし、思い残すことはないかな」
すっきりとしたと笑う詩音の表情は明るいけれど、どこか諦めのようなものを感じさせて、蓮は何を言えばいいのか分からなかった。