12 お出かけの約束
仕事に戻るという千尋と別れて、蓮は詩音の病室へと戻った。カフェに寄ったことは触れず、遅くなったのは少し探すのに手間取ったからだ告げると、詩音は疑うことなくうなずいた。
「これ、すごい美味しかったー。蓮くんの分は、冷蔵庫に入れておいたけど……溶けてないかな」
そう言いながら冷蔵庫を開けた詩音は、カップを取り出して眉尻を下げた。クリームが溶け、分離したドリンクは、買った時とは別物のようだ。
「俺が遅くなったせいだし、味に変わりはないだろうから」
そう言って詩音の手から受け取ったドリンクを飲んでみせるけれど、彼女は唇を尖らせて首を振った。
「だってめちゃくちゃ溶けてるもん」
「じゃあさ、今度一緒に行こ……」
言いかけて、蓮は思わず口をつぐむ。院内は、入院患者を示すバンドを手首に必ず着けることを条件に、自由に歩き回ることが許されている詩音だけど、病院の外へ行くことはあまり許されていないらしい。
以前、外出先でかつての知り合いに声をかけられたのに、相手の記憶を失っていた詩音はまるで不審者を見るような態度で接してしまったことがあったらしく、詩音自身もあまり院外には出たがらないのだと雛子が言っていた。
また失言だと自分を殴りたくなる気分になった蓮をよそに、詩音はぱあっと顔を輝かせた。
「いいの!? 行く! 行ってみたい! 蓮くんと一緒なら、きっと許可も降りるよ」
目をきらきらさせて興奮した様子の詩音を見て、蓮はそっと肩の力を抜く。
「うん。先生の許可が出たらね」
「何が何でも説得してみせるから!」
鼻息荒くうなずいた詩音は、ちょっと待っててと部屋を出て行き、あっという間に主治医の金居から外出許可をもぎ取ってきた。
「先生ってば院外に出てていないっていうから、電話してもらっちゃった。超急ぎの要件です! って言って」
ふふんと勝ち誇ったような表情でドヤる詩音を見て、穏やかな金居が苦笑を浮かべつつ許可を出す様子を想像して、蓮もくすくすと笑う。
「じゃあ、いつにしようか」
「そうだね、えっとねぇ」
わくわくとした表情で、詩音が手帳を開く。
お互いの予定をすり合わせて外出日を4日後に決めたところで、蓮はふとそこに記された文字に目を止める。
そこには、『お母さんの誕生日』と、詩音の字で書かれていた。
「詩音ちゃん、この日……」
「あぁ、うん。お母さんの誕生日、なんだって」
まるで見知らぬ芸能人の誕生日だと告げるように言って、詩音は小さく笑う。
「そっか、言ってなかったっけ。私、両親の記憶はもうないんだ。顔も思い出せない。仕事が忙しかったらしくて、小さい頃から全然一緒に過ごしたことなかったみたいでさ。あっという間に忘れちゃった」
生後間もない頃からベビーシッターに育てられたこと、家族で食卓を囲んだことなんて数えるほどしかないこと、参観日などの行事はいつも一人だったこと。
今はもう覚えていないけれど、全部雛子が教えてくれたと詩音は笑う。
「まぁ何というかお金で解決っていうのかな。衣食住は充分すぎるくらいに与えられてたみたいだし」
ここの部屋代も払ってくれてるしね、と笑いながら、詩音は手帳の文字を指先でなぞった。
「でもほら、やっぱり私を産んでくれた人じゃない? 誕生日くらいは一応覚えておこうかなって。日頃の感謝……って言うのか分かんないけどさ、花でも送ろうかなぁ」
「じゃあ、出かけた時に買いに行こうよ。一緒に」
蓮の言葉に、詩音は驚いたような表情で顔を上げた。
「そっか、買いに行くのいいね。お花屋さんも久しぶりだし、楽しみが増えたな」
雛子にでも頼んでネット注文してもらうつもりだった、と詩音は照れくさそうに笑う。
余計なお世話かもしれないけれど、千尋が喜んでくれるといいなと思いながら、蓮も笑ってうなずいた。