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11 母親

「えっと、あのこれ……、その、詩音さんの部屋に忘れてて……」

 しどろもどろになりながら、蓮はパスケースを差し出す。

「あ……、わざわざ追いかけてくれたのね。ありがとう」

 涙を拭って、彼女はパスケースを受け取る。やはり詩音によく似たその顔を見て、蓮は何を言えばいいのか分からなくなる。


「詩音の……、お友達、かしら」

 まだ少し鼻声で彼女がたずねられて、蓮はうなずいた。

「佐倉 蓮といいます。先月くらいに詩音さんと偶然仲良くなって、その……、時々こうしてお見舞いに」

「そう、あなたが『蓮くん』。悠太くんから聞いてたのよ。詩音と仲良くしてくれてありがとう」

 穏やかに微笑みかけられて、蓮は小さく会釈を返すことしかできない。

 こうして詩音の母親にも自分の存在が知られていることに少し気恥ずかしい思いと、相馬が蓮のことを話題にしてくれていたことに対する嬉しい気持ちとが入り混じる。


「ねぇ、今少しだけ時間あるかしら。詩音の話、聞かせてくれない?」

「え……」

 さっきまで泣いていたはずなのに、彼女はにっこりと笑っている。そして、まるで逃がさないとでもいうように蓮の腕を掴んだ。

「ほら、このお礼もしなきゃならないし。ね、少しだけ!」

 パスケースを掲げてそう宣言すると、彼女は蓮の腕を引いて歩き出した。詩音と初めて出会った時のことを思い出して、蓮は親子だなと思わず苦笑する。

「じゃあ、少しだけ」

 そう言って、蓮は彼女のあとについていくことにした。


 ◇


 詩音の母親に連れられて行ったのは、病院の敷地内にあるカフェ。診察の待ち時間を過ごす人や面会者と話す人たちで、店内はそこそこ賑わっている。

 奥のソファに座った蓮に、詩音の母親はメニューを差し出す。

「何でも好きなのをどうぞ。成長期の男の子って、たくさん食べるんでしょう?」

 そこまで空腹でなかった蓮はアイスティーを頼んだものの、何故か妙に不満そうにされたので、追加でケーキを頼んだ。


 

「あぁそうだ。今更だけど、詩音の母親です」

 テーブルの上に置かれたチョコレートケーキを勧めながら、彼女がぺこりと頭を下げる。

「顔……、そっくりですよね、詩音さんと」

 思わずつぶやくと、やはり詩音にそっくりな笑顔が返ってくる。

「そうねぇ。もともと私似だとは思ってたんだけど、ここまで似るとは思わなかったわ。まぁ、あの子はそんな私の顔を見ても何も思い出さないみたいだけど」

 諦めたような笑みを浮かべて、彼女はつぶやく。予想はしていたけれど、詩音はすでに母親の記憶を失っているのだということを突きつけられて、胸が苦しくなる。

 苦い表情を浮かべた蓮を見て、気にしないでと彼女は笑った。

「自業自得なのよ。仕事にかまけて、詩音のことを放っておいた私たち親のせいだわ。夫なんて、詩音の病気が受け入れられなかったみたいで逃げてしまったくらいよ。自分が放ったらかしにしたくせにね」

 ため息をつきつつ、詩音の母親がそっと左手を撫でる。何もはまっていない薬指に、かつてそこにあった指輪を探すかのような動きだった。

 苗字が変われば詩音を動揺させるだろうと籍はいれたままだが、もうほとんど離婚しているようなものだという。

 何を言えばいいのか分からなくて、蓮は黙々とケーキを口に運ぶ。甘いはずのチョコレートケーキが、随分と苦く感じた。

「ごめんね、変な話を聞かせてしまったわ。それでも、今更だけど、少しでも顔が見たくてこうして時々会いに来ちゃうの」

 あの子の前では我慢してるけど、帰りはいつも泣いちゃうとつぶやき、目を伏せてコーヒーを一口飲んだあと、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「今の私は、あの子にとっては母親じゃないの。身の回りのことや金銭関係のことを、母親から依頼された人……って立ち位置なのよ。だから私のこと、お母さんって呼ばないでね。私はただの、千尋さんって決めてるの」

 きっと毎回、詩音に会うたびにそう説明しているのだろう。彼女――千尋の口調に淀みはない。

 

「本当はね、蓮くんのことだって直接詩音から聞いてみたかったけど、それはもう望めないことだから」

 ため息をついたあと、千尋は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「蓮くんは、ピアノがとっても上手なんでしょう? 詩音のために弾いてくれてるって聞いたわ」

 詩音のために、とあらためて言葉にされると照れるけれど、蓮はうなずいた。本番を来月に控えて、本当は寝る時間も惜しんで練習をしなければならないところなのだけど、蓮は時間を見つけては詩音のもとに通っている。

 以前よりもコンクールに対する情熱が薄れていることもあるし、彼女のそばで弾くと蓮の理想の音に近づけるような気がするから。コンクールの結果よりも今は詩音のそばにいたい。


「詩音も、昔はピアノを習ってたんだけどね。なかなかレッスンに付き添えなくて、辞めたいって言われちゃって」

 まわりは親が付き添っているのに一人だけ付き添いのない状況に、詩音は耐えられなかったのだと思うと千尋はぽつりとつぶやいた。

「付き添ってくれる人を雇ったこともあるんだけど、そういうことじゃなかったのよね。あの子は親についてきて欲しかったのに。……ずっと、そんな簡単なことに気づかなかったの」

 うつむいた千尋は、浮かんだ涙を拭うと笑みを浮かべた。

「ごめんね、なんか蓮くんの前だとあれこれ喋っちゃう。きっと詩音にとってあなたは、とても大切な人だわ。会ったばかりの人のことをずっと忘れずにいるなんて、蓮くんが初めてなんだもの」

 そう言って居住まいを正した千尋は、まっすぐに蓮を見つめた。

「詩音をよろしくね。……酷なことを言うようだけど、もう私はあの子のそばにいる資格すら失っているから、あなたに託すしかないの」

 真剣な表情で見つめられて、蓮ははっきりとうなずく。

「たとえ詩音さんが俺のことを忘れても、それでもそばにいたいと、そう思ってます。俺は、詩音さんのことが……好きだから」

 一瞬躊躇い、それでも口に出した想いは、あらためて蓮の心の中にも染み渡っていく。

 いつから、なんて分からない。

もしかしたら、最初から。

 あの輝くような笑顔を向けられた瞬間に、蓮は恋に落ちていたのかもしれない。

 過酷な運命に流されそうになりながら、それでも笑顔で前を向こうとする強さが、蓮は眩しくてたまらない。

 守る、なんておこがましいけれど、蓮にできることなんてほとんどないけれど、それでもそばにいたいから。詩音には、笑っていて欲しいから。


「ありがとう」

 千尋が本当に嬉しそうに、噛みしめるようにつぶやくから、うっかり告白めいたことをしてしまった恥ずかしさを押し殺して、蓮は小さくうなずいた。


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