表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/28

10 いつも、笑っていたい

「忘れたくないの……、蓮くんのことも、他の人のことも、誰も忘れたくないのに」

 蓮の胸に顔を埋めて、詩音は泣きじゃくる。きっと蓮が、山科のことを忘れたことを気づかせてしまったからだ。だけど、それを詩音に謝ることすらできなくて、蓮はただ黙って詩音を抱きしめることしかできなかった。


 どれほどそうしていただろうか。

 一度大きくしゃくりあげたあと、詩音はゆっくりと顔を上げた。

 まだ目尻に涙を溜めたまま、赤くなった鼻をこすって小さく笑う。

「えへへ、ごめん。ちょっと取り乱しちゃった」

 もう平気、と笑って詩音は蓮の腕の中から出た。

「だめだなぁ、もう泣かないって決めたのに。弱い自分が嫌になっちゃう」

 笑った拍子にこぼれ落ちた涙をぐいっと拭って、気合いを入れるように頬を叩いた。

「ずっとね、笑ってたいの。泣いたら何だか認めた気になっちゃうでしょ。病気なんて知らないって言えるくらい、いつも笑顔でいたいなって思ってるんだけど……、まだまだだね」

 ふうっと大きなため息を落としたあと、詩音は蓮のシャツの胸元を指差した。

「ごめん、蓮くんの服にめっちゃ涙染み込ませちゃった」

 しっとりと濡れた胸元に触れて、蓮は平気だと笑って首を振る。

「いつも笑顔の詩音ちゃんも好きだけどさ、本当に泣きたい時は俺がそばにいるから。我慢して溜め込まないで」

 ちょっとカッコつけすぎかなと思いつつもそう言えば、詩音が照れくさそうに笑った。

「泣きたくなったら、蓮くんを呼ぶね。うん、そうしたら蓮くんのこと、もっと忘れないような気がする。手帳にも書いとこうかな」

 約束、と言って小指を差し出され、蓮はそのほっそりとした指に自分の指を絡めた。



 その後も、詩音はいつも明るい笑顔を浮かべていた。きっと次は誰の記憶を失うのかと、怖くてたまらないはずなのに。

 山科も、今では淡々と業務をこなしている。時々詩音が彼女に話しかけるたびに蓮は胸が騒ぐけれど、山科は全く表情を変えずに毎回初対面の看護師として詩音と接している。自分はまだまだだなぁと、蓮はそのたびにこっそりため息をついている。


 毎回、詩音に会う前は覚えていてくれるだろうかと緊張するけれど、今のところいつも笑顔で迎えられている。山科の記憶を失って以来は、蓮を含め相馬や雛子といった身近な人物を忘れてはいないようだけど、彼女の頭の中は分からない。もしかしたら今日も、詩音は誰かの記憶を失っているのかもしれない。


 

 その日、蓮は近くのコーヒーショップの季節限定ドリンクをテイクアウトしてから病院へと向かった。

 何気ない会話の中で、先日発売となった季節限定のドリンクが美味しいのだという話になり、詩音が飲んでみたいと言ったのだ。

 特に買っていくと約束をしたわけではないけれど、きっと詩音は喜んでくれるだろう。あの笑顔が自分に向けられることを想像して、蓮は緩みそうになった口元を慌てて引き締めた。

 クリームたっぷりのフローズンドリンクは、この暑さではあっという間に溶けてしまう。院内で走るわけにはいかないので、最大限に早足で蓮は詩音のもとへと向かった。


 今日も詩音は蓮のことを覚えていてくれるだろうか。

 ドアをノックする前に、騒ぐ心を落ち着かせるように深呼吸して、震える手を握りしめてから軽くドアを叩く。

「あ、蓮くん!」

 ゆっくりと開けたドアの向こうに詩音の顔が見えて、その表情が明るく輝く。

 一気に身体の力が抜けそうになるのを堪えて、蓮は笑みを浮かべた。

「詩音ちゃん、これ」

 ドリンクの入った紙袋を差し出そうとした時、詩音のそばの人影に気づく。

 そこにいたのは、スーツ姿の女性。いかにも仕事のできそうなその後ろ姿がゆっくりと振り返った瞬間、蓮は思わず息をのんだ。

 柔らかそうな栗色の髪を綺麗に纏めたその人は、詩音が年を取ったらきっとこうなるであろうと思えるほどに彼女と似ていた。蓮の母親とそう変わらないであろうその人は、詩音の母親だろうか。

  

「詩音さん、お友達が来られたみたいですし、私はこれで」

 蓮が口を開く前に、その女性はにっこり笑って鞄を持つ。

「あ、はい。ありがとうございます」

 詩音も、ベッドの上からぺこりと頭を下げた。

 親子の会話とは思えない他人行儀なやりとりに、何か事情があることを察知した蓮は、黙って女性に会釈する。詩音の前では、余計な口をきかないと決めたのだ。ちょっとした一言が、詩音を傷つけてしまうと知ったから。


 女性が部屋を出ていき、蓮は紙袋を詩音に差し出した。

「これは?」

「この前話してた新作のドリンク。詩音ちゃん、飲んでみたいって言ってたから買ってきた」

「わぁ! すごい嬉しい〜。なかなか外出許可降りないから、諦めてたの。ありがとう、蓮くん!」

 予想通り弾けるような笑顔を向けられて、蓮は照れ隠しに少し視線を逸らしつつうなずく。

 ふと、椅子のそばに白いものが落ちていることに気づいた蓮は、身体を屈めてそれを拾い上げた。

「……これ」

 それは、小さなレザーのパスケースだった。開いた内側には免許証が入っていて、先程の女性のものであることが分かる。そこに記された名前は『尾形 千尋』とあり、やはり詩音の親族であることは間違いないようだ。

 詩音には名前が目に入らないように、蓮はさりげなく手に持ったパスケースの角度を変える。

「さっきの人のかな? ここの入院費とかのお金の管理をしてくれてる人らしいんだけど」

 本当にそう思っているような詩音の口調に胸が痛むのを隠して、蓮は笑顔でパスケースを掲げた。

「今からならまだ追いつけるかもしれないから、ちょっと届けてくる」

「うん、大事なものだもんね。ごめんね、蓮くん。お願いしてもいいかな」 

「うん。溶けちゃうからさ、それ飲んでて。あとで感想聞かせて!」

 ドリンクを指差してそう告げ、手を振って蓮は詩音の部屋を出た。


 

 エレベーターホールにはすでに誰もいなくて、追いつけないかもしれないと思いつつ、蓮はやってきたエレベーターに乗り込む。

 1階に着いたところで、見覚えのあるスーツの後ろ姿を見つけた蓮は、間に合ったことに笑みを浮かべてその背中を追う。

 高いヒールの靴を履いているのに案外早足な彼女に追いついたのは、病院の玄関を出る直前だった。

「あの、これ落とし――」

 肩を叩いてそう言った蓮の言葉に、グレーのスーツの身体がぴくりと震える。

 振り返ったその顔を見た蓮は、思わず言葉を失う。

 彼女は、ぽろぽろと両目から大粒の涙をこぼしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ