9 喪失の日
恐れていた日は、突然やってきた。
いつものように詩音の病室を訪ねた蓮は、ナースステーションで顔馴染みとなった看護師の山科とばったり出会った。
「こんにちは、山科さん」
「あ……、蓮くん。こんにちは」
妙に鼻声だなと不思議に思って山科の顔を見た蓮は、小さく息をのんだ。
明らかに泣いたと分かる、赤い目。マスクで表情はよく見えないものの、いつも明るい笑顔を浮かべている山科とは別人のようだ。
「……どうしたんですか」
思わずつぶやくと、山科の視線が戸惑ったように揺れる。
「ん、詩音ちゃんがね、ついに私のこと忘れちゃってさ。こんなの看護師失格だよね。でもさ、昨日寝る前には覚えてたのよ。また明日ねって手を振ってくれたのに……」
言いながらまたあふれた涙をぬぐって、山科は小さくごめんとつぶやいて蓮に背を向けた。
「山科さん……」
「蓮くんのことは覚えてたから、行ってあげて。詩音ちゃん、待ってるから」
山科の背中は慰めを必要としていないことが分かっていたので、蓮は小さく頭を下げると詩音の部屋へと向かった。
「蓮くん!」
ベッドの上で本を読んでいた詩音は、蓮の訪問に気づくとぱあっと顔を輝かせた。その表情はいつも通りで、何も変わっていないように思う。
「おはよう、詩音ちゃん」
「おはよー、蓮くん。今日はさすがにホール借りられなかったんだけど、療法室のピアノは使っていいって看護師さんが言ってたから、行こ!」
「看護師さんって……、山科さん?」
蓮の言葉に、詩音はきょとんとした表情で首をかしげた。
「え、誰?」
本当に心から知らない、といった様子の詩音に、蓮は思わず一歩前に出る。
「看護師の山科さんだよ。俺たちが初めて会った時にも外来にいて、デートみたいだって声かけてくれただろ」
詰め寄る蓮に、詩音は困惑した表情で首を振る。
「何……? 分かんない、あの時誰かに会ったっけ。ごめん、蓮くんのピアノのことしか覚えてない」
「そんな、だって」
更に言い募ろうとした時、部屋の扉が開く音がした。
「尾形さん、お薬持ってきたので置いときますねー」
まだ少し鼻声でそう言いながら入ってきたのは、山科だった。
「あ、ありがとうございます」
確認するように薬の袋に触れた詩音は、山科の方を見て首をかしげた。
「看護師さん、風邪? 鼻声だけど」
その声は純粋に彼女のことを心配しているようだけど、目の前にいるのがつい先日まで親しく話していた山科だとは気がついていないようだ。
「えぇ、ちょっと鼻炎で」
小さく鼻をすすった山科は、笑顔でそう返す。その表情は、先程涙を流していたとは思えないほどしっかりとしている。
「そうなんだー。私も花粉症だから、春はくしゃみ止まんない。お大事にね、えっと……山科さん」
名札を確認した詩音が、山科の名を呼んで微笑む。まるで今日はじめて会ったかのような詩音の態度に、本当に山科のことを忘れているのが分かって、そばで見ている蓮の胸が苦しくなる。
「午後から金居先生が来られるので、お部屋にいてくださいね」
「はぁい、了解です」
淡々とした態度を崩さない山科に、詩音が笑ってうなずく。
山科が出て行ったあと、詩音が小さなため息をついた。
「そっか、さっきの看護師さんのこと忘れちゃったんだね、私」
傷つけちゃったなぁと笑う詩音を見て、蓮の言葉も詩音を傷つけたことに思い至る。本当に忘れたのかと詰め寄るなんて、してはならないことだった。蓮がそうしなければ、きっと詩音は山科のことを忘れたことにすら気づかなかったはずなのに。
「ごめん……、俺、」
「ん? 蓮くん、ピアノ弾きに行こう。お昼までに戻ってこなきゃいけないから、あんまり時間がないし急がなきゃ!」
詩音は、笑顔で蓮の手を引く。傷ついたことを見せまいとする彼女の優しさが申し訳なくて、蓮はうつむきながら詩音のあとを追った。
◇
いつものようにひとしきりピアノを弾いたあと、蓮は壁の時計を見上げた。時刻はもうすぐ正午。そろそろ詩音は病室に戻らなければならない。
「そろそろ戻ろっか」
ピアノの蓋を閉めながら詩音を振り返ろうとすると、シャツの背中をぎゅっと掴まれた。
「詩音、ちゃん?」
背後にいる詩音の表情は分からない。だけど、ピアノに映った彼女がうつむいていることだけ、かろうじて分かる。
「……っく」
押し殺した嗚咽が響いて、蓮は小さく息をのむ。シャツを掴んだ手が震えていることにも気づいて、動けない。
「忘れたくない、のに。なのにもう何も覚えてないの。看護師さんのこと、何も覚えてない」
涙声で詩音がつぶやいて、涙を拭うように顔に手をやったのがピアノにぼんやりと映る。
「いつか私、蓮くんのことも忘れちゃう。嫌なのに……」
力なく下された手が蓮のシャツから離れていくから、蓮は思わず振り返って詩音の手を掴んだ。そして、震える詩音をそのまま抱きしめた。