藻の観察
※この話はフィクションです。実際の人物や団体などとは一切関係ありません。
「やっぱりわからないわね……」
里香は、光学顕微鏡と電子顕微鏡を使い、ガニメデの藻と、地球の藻の比較観察をしながら、そう呟いた。葉緑体と核がなく、根本的に違うということしかわからない。
葉緑体がないーー光合成により酸素を発生させていない、という点において、藻類であるのかどうか疑問を持った。藻類の定義は「酸素を発生する光合成を行う生物の中からコケ植物、シダ植物、および種子植物を除いた残りの全て」である。だが、太陽からこれほど遠い天体であるガニメデでは、形状による分類をするのが妥当だろうと判断した。
観察の後はスケッチだ。趣味にも使っているペンタブで、アルデのスケッチを進める。
「うーん……細胞は楕円形が多くて、細胞壁は無いわね。核はないけれど、真ん中にDNAの塊らしき糸状の物質がある。細胞の中に、未知の構造が何個かあるけれど……ミトコンドリアも葉緑体もない。この何に使われてるかわからない構造で、栄養素を分解しているのでしょうね。鞭毛がある細胞もあるけれど、ない細胞の方が多いわね。これは地球の生物と同じかしら。地球の生物も、生殖細胞にはほぼ必ず鞭毛があるけれど、体を構成する細胞にはないものも多いものね……」
色は全体的に黄味がかっており、黄褐色の構造や、ほぼ黒と言ってもいいような構造があった。
「生えているところを直接観察したら、何かわかるかしら。」
そう呟きながら、地球のサンプルの中でこれから必要になりそうなものや、顕微鏡などを、基地に送るコンテナに詰め込んだ。
『ガニメデの藻を直接観察しにいきたいのだけれど、付き合ってくれる人はいる?』
船外活動など、何が起こるかわからず、危険を伴う活動は、安全のために2人以上で行う決まりになっている。
里香は通信にそう入れ、宇宙服を着ると、接続ケーブルを伝って基地に戻った。
基地に入る前に全員から返事が来た。ほとんどがNoという返事だったが、医師のアルベルトからは、Noの絵文字で作ったYesが返ってきた。
「どっちよ」
里香が笑いながら扉の前で待っていると、宇宙服を着たアルベルトが出てきた。
「さて、ガニメデ初のフィールドワークだね!俺も気になっていたんだよ。さあ、行こうか!」
2人は重力の低いガニメデ上を、ふわふわと飛び跳ねながら、基地建設前に採取した藻の元へ向かった。
藻を潰さないように這いつくばる…というよりも、うつ伏せに寝転がると、里香は観察を始めた。
アルベルトは、立ったまま周囲を見渡し、警戒している。
「やっぱり茶色がかった黒ね。地面も茶色っぽいし、同化しやすい色なのでしょうね。葉緑体がないのは観察してわかったけれど……どうやって栄養を補給しているのかしら。」
「太陽光ではないのは確かだろうね。まさか、木星の反射光で光合成しているとか?」
「光が栄養ではないことはわかっているわ。この氷の地面に、何かしら栄養になるものがあるのかしら。」
「少し割って持って帰ってみるかい?道具を持ってこようか?」
「それも必要ね。でも、ここで観察を終えるときでいいわ。少し根本を剥がしてみようかしら……」
里香はそう言うと、宇宙服のポケットからヘラを取り出し、慎重に根本からめくった。
藻はなんの抵抗もなく剥がれ、その下の氷の地面に、根のようなものはなかった。ここまでくると、里香には、どうやって生えたのか想像もつかなかった。
「根もないわ……本当にどうやって生えたのかしら……」
「外部要因があるのかもしれないね。タネになるものを撒く生物がいるとか?」
「確かにそういう線もあるわね。生物といったら、昆虫のようなものと、触手の集合体ぐらいしか見ていないけれど、この氷の地面の下には、海があるのだし……」
「触手の集合体はどこから来たんだろうね……やっぱりこの氷の下かな?」
「木星にはガスしかないようなものだし、それぐらいしか思いつかないわね。この氷を割る前に、衛星上の探索が必要だけど、早く海の中を見てみたいわ。」
「俺も地球にいた頃は、魚釣りと解剖が趣味だったし、この星の海の中はとても興味があるよ。でも今日はもう遅いし、探索は明日だねぇ。」
「そうだったわ。まだここに来て、寝てないんだった。観察もこれぐらいにしておこうかしら。氷を割って持って帰りましょう。」
『氷を少し割って持って帰りたいから、道具になるものを、誰かエアロックまで持ってきてくれないかな。』
アルベルトが通信を入れると、ルイスから、タガネとハンマーを置いておくよ、と返信があった。
2人はここまで来た時と同じように、ふわふわと飛び跳ねながら基地まで帰った。そして、エアロックに置いてあった道具を持つと、また藻の元へ向かった。
「藻が生えているところと、生えていないところの氷を採取しましょう。」
「成分が違うかもしれないしね。それがいいと思うよ。俺がやろうか?」
「こういうことは初めてだから、上手くできるか少し不安だったのよ。頼んでいいかしら?」
「俺も初めてだけどね……まあ男だから力はあるし、君よりは上手くできるかもしれない。」
アルベルトはそう言うと、カツ、カツ、と氷を割り、拳大の氷のかけらを2つ採取して、滅菌済みの採取袋に入れた。
「地表面の観察と、成分の観察が必要ね…熱を加えると成分が変わるかもしれないし、明日起きてから成分は調べればいいわね。」
「それがいい。地表面の観察が終わったら、今日はもうゆっくり寝ることにしよう。睡眠は大事だよ!」
エアロックで宇宙服を脱ぐと、氷のかけらを持った里香は、基地内の研究室に向かった。
タガネで地表面を薄く削ると、プレパラートに乗せ、顕微鏡で観察した。作業している間に、手の熱でほとんど溶けかけてしまった。
「うーん……違いはほとんどないわね…少し藻が付着している程度かしら……」
やっぱり成分を調べないと。里香はそう呟くと、2つの氷のかけらを採取袋に戻し、シャワーを浴びて眠ることにした。