二日目
【二日目】
始業式の次の日。溜め息を堪えて登校した咲は、教室に入るなり案の定注目を集めた。
昨日の今日だから当然といえる。さささっと寄ってきたのは小学校からの親友、河上樹だった。
「よー! 昨日はお楽しみでしたねぇ?」
「やめろよ、樹。そういうのじゃないって」
「またまたー! 転校生の美少女に告白されて、ずいぶんと謙虚だなー!」
肩に腕を回してニヤニヤと笑っている親友に、溜め息を吐き出す。
自分の席へと進みながら、咲はぼやくように呟いた。
「なんで俺なんだろうなぁ」
「あ、それは俺も思う。あの子、めちゃくちゃ美人じゃん? 咲だと不釣合いだよなー」
「……ひどい」
「本当のことだろー?」
けらけらと笑って告げられるが、それもその通りだった。
咲だって、初対面の美少女になぜ告白されたのか、いまだに飲み込めずにいる。
席に座ってはぁと溜め息を吐き出した咲に、樹は手前の椅子を勝手に確保して腰を下ろした。
「で、本当に心当たりないのか?」
「ない……でも」
「でも?」
「うーん……」
未来が見える、と告げた春華の言葉を伝えていいものか。
煮え切らない返答になった咲に、樹が視線で急かしてくる。思い切って口を開こうとしたタイミングで、けれど割ってはいる声音があった。
「おはよう、咲」
「お、おはよう……」
どきりと心臓が跳ねる。
先ほどまで噂していたまさにその人、黒峰春華が隣にいた。
いつのまに、と目を見開く咲の前で、堂々とした動作で席に腰を下ろした春華は、すっと視線を樹に滑らせた。樹が緊張する気配が伝わってくる。
「おはよう、河上くん」
「おう、おはよう!」
だが、そこはそれ。
元気よく返事を返した樹にさすがだなぁと咲は内心で拍手を送った。樹はいつだって切り替えが早い。こういうときはとても便利だよなぁと思う一方で、あれ? と首を傾げる。
「名前……」
「恋人の下の名前を呼ぶのは当然じゃなくて?」
ぼそりと呟いた咲に春華が笑う。
やはり年齢に見合わない妖艶な笑みだ。
「えっ」
「あら、嫌ならやめるわよ。霧島くん」
「あ、いえ、……嫌じゃない、です」
挑発的に口角が上げられての言葉に、咲は尻すぼみになりながら返事を返した。樹がひゅうと口笛を吹く。
「私のことも、名前で呼んでほしいわ」
「えっ」
「嫌かしら?」
「え、えーと……」
視線が泳ぐ。助けを求めて樹を見つめた咲に樹が苦笑を零した。
樹の手が咲に伸ばされて、わしわしと頭をかき混ぜられる。
「わっ」
「無茶いわないでやってくれ、黒峰。こいつ女慣れしてないんだよ」
「そう? じゃあ、高望みはやめておこうかしら」
「そうそう。そのうち自然と名前呼びになるよ。な、咲!」
「う、うん……」
親友の助けの手にのってこくこくと頷いた咲に、少しだけ不服そうな顔を春華がした。
その表情がとても新鮮に思えて、咲の視線は春華に釘付けになる。
春華がさらりと手で髪を靡かせた。
表情が一瞬隠れて、再び顔が見えたときには見慣れたというか、常に浮かべている印象が強い不敵な笑みになっていた。
「そのうち、メロメロにしてやるわ」
「おおっと強きな発言! 咲はメロメロになるのかなー?」
「やめろよな、樹!」
にやにやと小突いていくる親友の手を払う。
怖い怖い、などと笑っている樹に拗ねてそっぽを向いた。
窓に反射して映る春華の顔は、どこか穏やかな表情だった。
一時間目の授業は数学だった。
底意地の悪いことで有名な悪名高い倉安教師の授業とあって、クラスメイト全員が身構えて授業を受けることになった。
一応咲は授業が始まる前に、悪名高い教師のことは春華の耳に入れておいたが、どこまで本気にしてもらえたのかいまいち自信がない。
「では、この問題がわかるもの。そうだな、転校生、前に出てきて答えてもらおう」
倉安の言葉に、内心でうげっと咲は呻いた。
転校生ではなくともハードルが高いだろう問題は、教科書にすら載っていない応用問題だ。
今までの倉安の授業の傾向からして、どこぞの有名大学の入試問題の可能性が高かった。
「はい」
だが、当てられた春華に動揺はない。
颯爽と黒板の前まで歩いた春華は迷いのない仕草でチョークを手にして、すらすらと黒板に数式を書き出した。
それが、正しいのか咲にはさっぱりわからない。
だが、徐々に顔色が悪くなっていく倉安の表情からして、恐らく文句のつけどころない正解なのだろうと察せられた。
倉安は少しでも数式に間違いがあると、嬉々として生徒を言葉で詰るのを楽しみにしている下劣な教員なのだ。
恐らくいまクラスメイトの心は一つになった。
黒峰春華、よくやった! と。
「先生、間違いはないでしょうか」
「あ、ああ……席に戻っていい」
どこか萎れた声音の倉安の言葉に、春華が席に戻る。
隣を通り過ぎる一瞬に咲は小声で囁いた。
「さすがだな」
「これくらいはね」
同じく小声で返された言葉に、なにがこれくらいなのかわからなかったが、とりあえず春華がものすごく頭がいいのだろうことは察せられたのだった。
その後の授業は、英語、体育、生物だったが、そのどれもで春華は見事な成績を披露した。
英語では長文のこれまた入試問題をすらすらと訳し、その上英語の発音も完璧だと教師に褒められた。
体育では白くて細い外見に似合わずバスケで実力を発揮して、周りを圧倒した。
生物では、小難しい専門用語に理解を示し、教師がこれまた春華を褒めた。
数学での圧倒的活躍から、休み時間には同じ女子生徒に囲まれ質問攻めにされている春華を隣に、咲はただただ圧倒されていた。
外見も頭脳も運動神経もパーフェクト。
こんな図抜けた人間が本当に存在したのだなぁと、まるで遠い世界の出来事のように感じていた。
だが、実際には春華は隣で現実として存在している。
しかも、咲の彼女として。それが、一番現実離れしている気がして、咲はいまいち上手く受け止めきれないでいた。
「咲、お昼ご飯一緒に食べましょう」
「え? ああ」
ぼんやりとしていたら、目の前に春華が立っていた。
ぱちりと瞬きをした咲の前でランチボックスを二つ持った春華が小さく首を傾げた。
首の動きに合わせて艶やかな黒髪が揺れる。
「お昼は学食派だと聞いたわ。お弁当を作ってきたのだけれど、無駄にならなくてよさそうね」
「え、誰に聞いたんだ?」
「河上くんよ」
「樹のやつ……」
呻くようにぼやいた咲に春華が不思議そうな顔をした。
「この程度、個人情報にも入らないでしょう。ほら、屋上にいきましょう」
「ああ……っていうか、俺が弁当持ってきてたらどうしてたんだ」
「もってこないと『知っていた』もの」
「……そうか……」
なんだか、そろそろ疑問に思うのも面倒になってきて、曖昧に頷いた咲に先導するように歩き出していた春華が振り返る。
その光景がひどく扇情的に見えて、咲の心臓はどきりとはねた。
「私はね、咲のことなら、大抵のことは知っているのよ」
「ええー……」
「ふふ、信じなくてもいいわ」
一指し指を唇に当てて、少しだけ悪戯気に笑う姿は。ほんの少しだけ、年相応に見えた。
目を見開いた咲になにを感じたのか、白い手が咲の手をとった。
温かい温度が伝わってきて、咲の心臓の鼓動が早くなる。
「さぁ、いきましょう。屋上は人気だから」
「……」
だからどうして、転校してきたばかりの春華が知っているのかと。
問いかけるのは、もう野暮なのだろうか。
屋上にはまばらに人がいた。
日差しは柔らかくて、風があるので四月とはいえ、少し肌寒い。
やはり迷いのない足取りで春華は屋上の日の当たるフェンス側に歩いていった。
手を繋がれているのでその後ろを歩いてついていった咲は春華が手を離してフェンスに背を預けたことに一抹の寂しさを感じて、すぐに頭を左右に振った。
「咲?」
「なんでもない」
まさか、繋がれていた手が離れたのが寂しかったなどと、迷子の子供のような言葉を口にするわけにもいかなくて、言葉を濁した咲に春華は「そう?」と小さく首を傾げた。
フェンスに背を預けて、咲が腰を下ろす。
なんとなく隣に腰を下ろせば、春華がずっと手にしていたランチボックスのうち青い方を咲に手渡してきた。
「きっと気に入るわ。貴方の好物を作ったの」
「……」
食べ物の好き嫌いなど、一切何も伝えていないはずだけれど。
昨日の前例があるので、真っ向から否定も出来ず、大人しく渡されたランチボックスを開けた咲は、そこに詰め込まれたおかずの数々に思わず感嘆の声をあげた。
「すげぇ」
「手作りよ。結構自信作なの」
「へー。頂きます」
ランチボックスに一緒に入れてあった箸をもって、手を合わせる。
なにから食べようか、迷うほどにランチボックスの中は様々なおかずが詰め込まれていた。
断面から判断するに、かぼちゃのコロッケ。卵焼き。きんぴらごぼう。ほうれん草のおひたし。肉団子。ご飯の上には半分とりそぼろがかけられていて、もう半分はノリがしいてある。
咲が嫌いだと主張するのに、彩のためだと時々母親が作ってくれる弁当には必ず入っているミニトマトがないのもポイントが高い。
しげしげとランチボックスの中身を眺めている咲の横で、春華もランチボックスを開いた。そちらには、なぜか咲の中身とまるで違うサンドウィッチが収まっていて、咲は首を傾げた。
「あれ、なんで?」
「私、あまり和食は好きではないの。どちらかというと、洋食の方が好みなのよ」
「えっ、こんなに美味しそうなお弁当作れるのに?」
「特訓したもの。貴方のために」
にこり、と微笑んでいわれた言葉に顔が熱くなる。
そ、そっか。とどもりながら告げて、咲はたまご焼きに箸を伸ばした。
口に含めば、あまじょっぱい味わいが口内に広がる。
春華の宣言通り、咲の好きな味付けだ。
「うっま」
ごくりと咀嚼して、思わず零れた言葉だった。
「ありがとう、最高の褒め言葉よ」
咲の隣で、サンドウィッチを片手に咲の反応を待っていたらしい春華がにこりと微笑む。
その笑みは年相応に愛らしくて、どぎまぎとまたも咲は赤面してしまった。
煩い心臓を押さえるように、次の獲物に箸を伸ばす。
かぼちゃのコロッケは咲の好物なのだが、母親は作るのが面倒だといって、中々作ってくれない。
出来合いのものも咲は嫌いではないが、これは冷凍食品だろうと侮って口に入れたかぼちゃのコロッケは到底冷凍食品ではない優しい味わいがした。
もぐもぐと咀嚼して。食べている間は行儀が悪いから口を開くなと散々に躾けられている咲は、全て飲み込んでからぱっと春華を見た。
「これ、手作り!?」
「ええ、全て手作りよ」
「すげぇ! うちの母親、面倒だからってぜってー作ってくれねぇのに!」
「ふふ、確かに揚げ物は大変よね。お母様に同意だわ」
「うわー、朝から揚げてくれたのか?」
「下ごしらえ自体は夜のうちに終わらせているのだけどね。お弁当を作ると朝は中々に早起きよ」
なんでもないように語られる春華の言葉に、けれど母親が弁当を嫌がる理由がまさにその「早起き」であるために学食派になった咲は頭が上がらない思いだ。
「すごいなぁ……本当にありがとう」
「その言葉が聞けただけで満足よ。これから一週間、私がお弁当を用意するから、昼の心配はいらないわ」
「ありがと!」
満面の笑顔で返事を返して、ふと、咲は違和感に気付いた。春華は穏やかに笑っている。
だが、春華は期限を区切ったのだ。
『一週間』と、確かに区切られた期限に、意味はあるのだろうか。きっとあるのだろう。
春華の意味不明な言動は最初からだが、意図のない言動をするタイプには見えない。
咲の疑問が顔に出ていたのか、春華は「ああ」と呟いた。
「そういえば、伝えていなかったわね」
ざあ、風が吹く。強い風は悪戯に春華の長い髪を弄ぶように撫でていった。
髪を押さえて、春華が口を開く。赤い唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私、一週間しか生きられないの」
そう告げて、黒峰春華は、甘やかに微笑んだ。