プロローグ&一日目
【プロローグ】
「私、一週間しか生きられないの」
そう告げて、黒峰春華は、甘やかに微笑んだ。
【一日目】
平々凡々、霧島咲を評するならば、その四文字がよく似合った。
どこにでもいる、ごく普通の男子高校生。良くも悪くも全てが平均点。抜きんでたものなど何一つなく、他人に誇れるものなど何一つない。
17歳になるまで、平凡という言葉の中に埋没するような人生を送ってきた。
そしてそれは、この先一生変わらないのだろうと、若干17歳にして咲は悟っていた。
だって、今までの人生を振り返ってみて思うのだ。自分にはなにも取り柄がない、と。
足が速いわけではない(運動会の徒競走はいつも三位だ)勉強が出来るわけではない(テストはいつも平均点スレスレだ)絵が描けるとか小説が書けるとか楽器が出来るとか特技があるわけでもない(あえて趣味を挙げるならゲームだけれど)
自分には人に誇れるものが何一つないから。きっと、この先の人生も、用意されたレールの上をただ歩いていって、平凡な人生を歩むのだろうと諦めに似た悟りを開くほどだった。
けれど、そんな咲の人生は一変する。
とある少女との出会いによって。
高校三年生の四月。受験を間近に控え、ぴりぴりとした空気の中の始業式は月曜日だった。
めんどくさいなぁなんて、人事のように受験を受け止めていた咲は始業式が終わり、教室に戻った後もぼんやりと窓の外を眺めていた。
窓の外を飛ぶ鳥を眺めながら、鳥は自由でいいなぁ、などと考える。もし、咲が鳥になれたなら、どこに飛んでいこう。どこまで飛んでいけるだろう。
そんな、至極どうでもいいことを夢想する程度には暇だった。だが、咲の夢想はすぐに打ち切られた。教師が教卓に立ったのだ。
校長の長い話の後の教師の話ほどだるいものもない。げんなりとした心持で教卓に視線を滑らせた咲は、そこで意外な言葉を聞くことになった。
「今日は転校生の紹介をする。入ってきなさい」
「はい」
凛とした声が耳朶に響く。教室の扉ががらりと開けられて、そこから姿を現したのは、はっとするような美少女だった。
腰まで届く、長い艶やかな黒髪に赤いカチューシャ。規定どおりに着こなされているはずなのに、なぜか目を引く制服。
少女が歩くたびにできるスカートの靡く線までが扇情的に見える。頬を赤くした咲の視線の先で、教師の隣に立った少女は、真っ直ぐに前を向いている。強い眼差しを湛えた瞳が、また印象的だった。
「黒峰春華さんだ。みんな仲良くするように」
ざわざわとクラスのざわめきは止まらない。高校三年生の春の転校生。それは、受験競争を競うライバルと同義だからだ。
だが、それ以上にクラスがざわめいているのは凛とした少女の空気と存在感だろう。
教卓から遠い窓際の咲ですら威圧感を感じるほどに、少女の存在感は重厚だ。前の席など推して知るべしである。
ふと、少女と視線が合った。かつかつと音を立てて少女が歩き出す。
あれ? と思ったのは一瞬で。一瞬しか、咲は思考を許されなかった。だって、なぜなら。黒峰春華と名乗った少女は、かつかつと足音高く咲の前まで歩み寄って、見下ろすように睥睨して告げたのだ。
「私と付き合って頂戴」
「……へ?」
居丈高に告げられた告白に、間の抜けた返事をしてしまったのは仕方ないだろう。
だって、17年生きてきて、咲は一度だって告白などというものをされたことがなかったのだから。
戸惑う咲を置いてけぼりに、告白するだけして満足したのか、春華はさっさと席に着いた。その席は教師が指定する前に、春華が勝手に空いていた咲の隣の席に腰をすえただけだったのだが。
クラスのざわめきが強くなる。
ざわざわと落ち着かないクラスメイトに感化されたわけではないが、自分になにが起きたのかいまいち理解しきれない咲は、そろりと隣ですまし顔で座っている春華に問いかけた。
「あ、あのー、黒峰さん……?」
「春華でいいわ。私は貴方の彼女なのだから」
「かのっ……、あの、いいえ、あの、です、ね……?」
「なにかしら? 私が彼女では不服?」
「いや、そういう……ことじゃ……なくて……」
どこまでもすまし顔である。涼しげな表情を崩さない春華に対して、咲の戸惑いは大きい。
突然告白されて、返事をする前に告白してきた張本人は付き合っている気満々となれば、戸惑いもするだろう。
この場合、なんと答えるのが最適なのだろう。
ぐるぐると頭の中に疑問符が渦巻いている。
呆気にとられていたのはなにも咲だけではなかったようだ。
こほん、と大きな音がして咲が音のした方向――教卓をみれば、教師がやや憮然とした面持ちをしながら告げた。
「青春もいいが、不純異性交遊は控えるように」
そのある意味あまりに直截的な言い方に、咲はぶわっと顔を赤くした。
同時にようやく衆人環境であることに自覚が及び、小さくなる咲の隣で、やっぱり春華は涼しい顔をしていた。
波乱はあったものの、スケジュールが変わることはない。
始業式が終わり、転校生の紹介も終わったあとは、特にすることもなく、そのまま解散となった。
咲がそろそろと隣を伺えば、鞄を一度も開けることのなかった春華はそのまま鞄を手に、机を挟んで咲の正面に立った。
「ひぇ」
「なによ、ひぇ、って。失礼な人」
「いやいやいや」
失礼とか云々言い出すなら、君の方がよっぽどだな。
とは思ったが、口にはしない。なんとなく、口では勝てないだろうなと察していた。
相手の出方を伺うように、じりじりと後退できるはずのない後ろに下がりながら、咲は春華の様子を伺っていた。
そんな咲の様子を見てなにを思ったのか、春華は溜め息を一つ吐き出した。
びくりと肩を竦めた咲の前で、春華は艶やかな黒髪をかきあげる。
「少し、話をしましょう。私たちの話を」
「え、うん?」
「喫茶店とかどうかしら? 気になっているお店があるのよ」
「え、ええ……?」
「不服? それともお金が不安? 驕るわよ」
咲の戸惑いは金銭面ではないのだが。
戸惑う咲の様子をどう解釈したのか、そう告げられて、咲は流石に憮然とした面持ちで言い返した。
「女の子に驕らせるほど金欠じゃない!」
「そう? ならなにも問題はないわね。いくわよ」
さらりと流され、手を引かれる。
あれ? これ対応間違えた?
温かい手に握られながら、咲の頭の中は疑問符で一杯だった。
クラスメイトの好奇の視線を一心に受けながら、咲は連行される宇宙人の気分で、春華に手を引かれるままに歩き出した。
春華が足を運んだのは学校の裏手にひっそりとある寂れた喫茶店だった。
喫茶店といわれなければわからないような、一言でいうならボロい店だった。
迷う事無く喫茶店のギィギィと煩い扉を開けた春華の後ろで、自分を守るように鞄を抱き締めながら、咲は恐る恐る店内に足を踏み入れた。
だが、一歩店内に入ってみれば、年季は入っているが、綺麗に掃除の行き届いたアンティークが美しい店だった。
外見との差異に目を白黒させる咲の前で、春華は馴染んだ動作で店員に案内される前に奥の窓際の席に腰を下ろしていた。
きょろきょろと周囲を見回しながら春華が腰を下ろしたボックス席の対面に座る。
観葉植物が仕切り代わりになっていて、他の席の様子は伺えない。逆も同じだろう。
個室のような扱いになっていることに、なぜかほっとする。
「ここ、パイと紅茶が美味しいのよ。キッシュやコーヒーもお勧めよ」
「……常連さん……?」
「そんなわけないでしょう。私、こっちには引っ越してきたばっかりよ」
「ええー」
矛盾する言い分だ。こんな隠れ家のような店を知っていて、その店の売りのメニューまで知っているのに、引っ越してきたばかりだという。
眉を寄せた咲の前で、春華がくすくすと笑う。
白い指先が伸びてきて、咲の額に触れた。
「チベスナ顔ね」
「ちべ……すな……?」
「狐の一種よ。気になるならスマホで検索してみたら?」
好奇心を刺激されて、言われるがままに取り出したスマホで画像検索をかけた咲は、表示された画像をみて、それこそなんともいえない気持ちでチベスナ顔になった。
そんな咲をみて春華はくすくすと楽しげに笑っている。
ああ、笑えば可愛いんだな、と、教室でも凛とした様子を思い出して、ぼうと春華を見ていると、初老のマスターらしき男性がオーダーを取りに来た。同時にお冷がテーブルに運ばれる。
「ご注文はお決まりかな、お客様」
「ええ。オリジナルブレンドティーと、そうね、アップルパイを一つ」
「あ、ええと」
「彼にはアイスコーヒーと、キッシュを。ほうれん草のやつがいいわ」
「わかりました。少々お待ちください」
咲が慌ててメニュー表を広げるより早く、メニュー表をみることもなく春華が注文を告げてしまった。
なんだ、やっぱり常連なんじゃないか。と、メニュー表を一瞥もしなかった春華をじとりと見つめる。
お冷に手を伸ばした春華が赤い唇をグラスにつけようとして、咲の視線に気付いたように顔を上げる。
「あら、私の注文は不服だった? 甘いものは得意ではないと思ったのだけれど」
「いや、まぁ、そうなんだけど……常連だろ、やっぱり」
「そうね。そうかもしれないわ」
先ほどとは全く違う言い分に咲はさらに眉を寄せた。
はぐらかされている、とすぐに分かった。
咲もお冷のグラスに手を伸ばす。
ぐいっと飲み干せば、さわやかなレモンの味が口内に広がった。レモン水とはまたお洒落な店だ。
ぱちぱちと瞬きをする咲の前で、春華が楽しげに笑っている。
「貴方の思っていることを当ててあげましょうか?」
「へ?」
「『こういうレモン水が出てくる店に外れはないんだよな』よ」
「?! なんで……!」
全くその通りのことを考えていたので、綺麗に当てられて動揺する。
目を見開く咲の前で、やっぱり楽しげに春華が笑っている。
「一つ、教えてあげるわ」
「?」
「私はね、未来が見えるのよ」
そういって、謎めいた表情で春華は微笑んだ。
運ばれてきたアップルパイとほうれん草のキッシュ、紅茶とコーヒーを前にして、学生の身分には豪華なお茶会が始まった。
未来が見える、と告げた春華の言葉になんと反応していいのかわからない咲を置いてけぼりに、春華は通常運転に見える。
優雅な仕草でアップルパイにフォークを刺した春華は、これまた優雅な仕草で小さな口を開けてアップルパイを食べた。
なんとなく眺めていたが、ずっと見ていても悪いだろうと咲もキッシュに手をつけた。
正直、キッシュというものの存在は知っていたけれど、口にするのは初めてだ。
そんなお洒落な食事は、由緒正しき平々凡々の一般庶民の実家の食卓には上らない。
恐る恐る口にしたキッシュは、だが、とても美味しかった。
ぱっと表情を明るくした咲に、春華が笑った気配がする。
もぐもぐと口を動かして、味わって嚥下した咲は続いてコーヒーに手を伸ばした。
甘いものが得意ではない咲は、コーヒーはブラック派だ。そして、猫舌なので冬場でもアイスを好んで飲む。
ゆっくりと口をつけたコーヒーは、これまた美味だった。とても美味しい。それ以外の感想がでてこない。
一口、また一口、ゆっくりとコーヒーを口に含んだ咲は、ほうっと息を吐き出した。
「おいしい」
「でしょう? 貴方は好きだとわかっていたから」
にこりと微笑まれて告げられた言葉は、やはり引っかかる物言いだ。食べ物も飲み物も美味しいけれど、春華の言葉だけが上手く喉を通らない。
三度眉を寄せた咲に、正面の春華が笑みを深める。
「好きに質問するといいわ。答えるかどうかは別だけれど」
そんなどこかの魔女のような物言いに、咲は小さく溜め息を吐き出して、コーヒーをテーブルに戻した。
「じゃあ、悪いけど質問だ」
「ええ」
こくりと春華が頷く。艶やかな長い黒髪が揺れる。
油断すれば目を奪われる光景にも、なんとか耐えて咲は問いを口にした。
「なんで俺なんだ?」
「人を好きになるのに、理由が必要かしら?」
「そうはいっても、初対面だろ」
「そう、そうね……それなら『一目惚れ』ってことでどう?」
「どう? って、あのなぁ……」
まるで今考えた言い訳ですといわんばかりの物言いに呆れ返る咲の前で、春華は笑みを崩さない。
ペースに飲まれている。
ようやく気付いて、気を取り直して咲は再び問いかけた。
「俺を前から知っていたのか?」
春華は色々と知りすぎている。
先ほどの注文だってそうだ。甘いものが好みではないと咲は一言も口にしていない。同様に、紅茶よりコーヒーが好きだとも口にしていない。猫舌だから、年中通してアイスが好きだとも、口にしなかった。
春華の注文は、全て咲の好みを言い当てているも同然だった。
当然の疑念の言葉に、春華はますます笑みを深めた。
その笑みが、それこそ人外めいた美しさをもっていて、ごくりと咲は生唾を飲み込んだ。
「そうともいえるし、そうとはいえないわ」
謎かけのような返答だ。真面目に答える気はないのか、と咲がじと目で見つめているのに気付いているのか、はたまた気にしていないのか。
春華は笑みを保ったまま、告げたのだ。
「私はね、ずっと貴方に恋をしているの。でも、『今』の貴方と出会うのは、『今日』がはじめてだわ」
到底17歳が浮かべるべきではない妖艶な笑みを浮かべて、黒峰春華という少女は笑う。
その笑みに釘付けになる咲の前で、春華の白い指先が紅茶のティーカップの縁をなぞった。
口紅など引いていないだろうに、それでも赤い唇が開かれる。
「私は、霧島咲という人間を愛しているわ。本当よ」
その、目が眩むような過激な愛の言葉に、咲は頭をハンマーで叩かれたかのような眩暈に襲われた。
それだけ、春華の口にした言葉は淡々としている中に、情熱的な感情がこめられていたのだ。
「本当なのよ、咲」
初めて呼ばれた、と咲はようやく思い至った。
初めて、春華に名前を呼ばれた。
その瞬間、背筋を駆け上がった電流のようななにか。
それが、恋に落ちた合図だともわからないまま、咲は顔を真っ赤に染め上げて、カラクリ人形のようにこくこくと頷くしか出来なかった。