月夜の兎-8
横山の診察のあと、野狐、飯綱に憑かれた者達の治療等、計三人の診察を終えると待合室には誰も居なくなった。
「ん~…今日はこれで終わりかな?」
椅子の背もたれを使って、伸びをしながら鋼一が呟く。
「変ねぇ…?あと一人、お昼にいらっしゃった山村さんって方が来るはずなんだけど…」
予約帳を見ながら、美琴は首を傾げている。
「都合が悪くなったんじゃないの?」
「そうかしら?」
「まあ、もう少し待ってみてもいいけど…その間にお茶でも飲もうよ。」
「ん~…熱いコーヒーが飲みたいなぁ。」
ギシギシと背もたれを揺らしながら、猫なで声で催促する鋼一を見て、美琴は“ふう”と、溜め息を一つ付く。
「ハイハイ、分かりました。ブラックでいいですよね?」
「サンキュー。」
美琴は鋼一を診察室に残し事務室へと向かう。
(まったくもう…まるで別人なんだから)
事務室に入ると部屋の隅に備え付けられた食器棚の扉を開き、コーヒーカップを二つ取り出し、コーヒーメーカーに豆をセットする。
「ん~…いい香り。」
鼻腔一杯に広がるその香りを楽しみながらも、美琴の手は休み無く動いている。
手早くソーサーやティースプーンを用意し、自分の分の砂糖やミルクも手際よく準備して行く。
玄関脇に設置してある監視カメラのモニターにも気を配り、来訪者の確認も怠り無い。
「よっしゃ、出来た。上出来上出来。」
片手でコーヒートレイを持ち、もう一方の手で器用に事務室の扉を開ける。
「は~い。お待ちどうさま。」
後ろ手に扉を閉めながら診察室に視線を移すと、美琴は“ギョッ”としてコーヒートレイを落としそうになった。
なんと、そこには、昼間に来訪した、あの『やまむら』という男と少女が居て、鋼一と対峙しているではないか。
(あり得ない!たった今モニターを確認していたのだ。玄関には人影など無かったはずだ。)
(…いや…思い違いかも知れない。ひょっとすると自分が事務室に入室すると同時に訪れたのかも知れない。)
(それならば、玄関の外側を映すモニターには映るはずが無いのだから。)
目まぐるしく記憶を辿りながら、合理的に物事を理解しようと試みた美琴であったが、その作業が全て無駄であることを、鋼一の険しい表情が物語っていた。