関の太郎-1
「鬼か…」
「鬼だ。」
山童が話した長い話を見事に要約して話す美琴の言葉を遮り、針ニが鋼一に聞き、鋼一が答えた。
話し終えるのを待って、美琴が話を続けた。
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岐阜の可児郡の御嵩駅前に願興寺(蟹薬師)という有名な古いお寺があるが、実は天仁元年(1108年)武田信玄がこの地方を攻めた時に、お寺の本堂は一度焼け落ちてしまっている。
その時に数々の国宝級の仏像(四天王、十二神将、黄金の薬師如来を胎内仏とする桜の巨木を彫った仏像など…)と、共に僧達が運び出した書物などを元に、今ある《大寺記》が、享保十四年(1729年)に書かれており、《乾》、《坤》の二冊がある。
その乾の部の、終わり付近に鬼退治のことが、書かれている。
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東濃の次月に鬼ケ窟というところがあり、そこは、花崗岩の巨岩が川の上に積み重なり、岩の洞窟の下を激しい水勢が続く…という、かなり珍しい場所だった。
洞窟の通路はあちこちに張り巡らされており、抜け道もあった為、盗賊達が棲むには、この上なく、都合の良いところであった。
同じ頃、丹波国(京都府)北部の大江山に酒呑童子達が居て、朝廷が源頼光(摂津源氏)に、討伐の勅命を下した。
その部下、渡辺綱(嵯峨源氏)、坂田公時、卜部季武、碓井貞光等の退魔師と共に安倍晴明(陰陽師)の作戦で討ち取った話があまりにも有名で、“関の太郎”の話は、全国的にはほとんど知られていない。
ともかく、あまりにも傍若無人の、その鬼は元々は不破郡、関の鍛冶屋の息子で名を太郎と言った。
それで、“関の太郎”と呼ばれていた。
毎月十日には、願興寺の門前町で開かれる十日市場と呼ばれる催しに現れて、欲しい物は力ずくで奪い取っていくので、町の人々はこの地方の地頭職の交告盛康に頼んだ。
しかしこの時、盛康は白河法皇に仕え、京都で院の御所の近くの警備に当たっており、領民の訴えを聞き、すぐに帰る訳にはいかなかった。
やむを得ず、家来の中で武勇の誉れの高い者を四人帰らせ、町の警備をさせた。
しかし、神出鬼没の“関の太郎”を捕らえるどころか、姿を見ることさえ出来ず、願興寺の御本尊の薬師如来様に力をお借りし、二月十日に開かれる市場に少年の姿で現れることをお聞きして、結界の中に追い込んで力を封じ込めて討ち取った。
首を頚桶に入れて、京に居る交告盛康の所に運ぼうとして、人夫に背負わせ出かけたところ、二町(約200m)程進んだところで、突然重くなり、動かせなくなった。




