月夜の兎-3
『妖守鍼灸治療院』の夜は長い。いや…夜「が」長いと言うべきか…
それというのも、この治療院の本当の意味での開業目的が鍼灸治療以外に有るからに他ならない。
勿論、通常の鍼灸治療を目的として通院する患者も少なくはない。
同じビルに店舗を構える割烹料亭のオーナーや、美琴の顔見たさに通院する専門学校の学生、腰痛持ちのタクシー運転手、エステ代わりに利用する日本舞踊の稽古師範など…週に一度は顔を見せる常連客も多数存在する。
独身の男が生活するための生業と考えれば、通常の鍼灸治療だけでも充分お釣りが来るだろう。
では何故、第二診療なるものが必要なのか。
そもそも第二診療とは一体どんな内容のものなのか。
それは鋼一の生い立ちと、その家系に由来する、ある【特殊な】職業(任務と言っても過言ではない)が、関係しているのだが…
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夜も更け、第一診療の最後の患者が帰り、休憩を挟み『妖守鍼灸治療院』は、にわかに慌ただしくなる。
第二診療の始まりだ。
第一診療の賑やかな面々とはうって変わり、待合室には神妙な面持ちの患者が訪れる。
数は決して多くはないが、その顔は皆一様に真剣であり、思い詰めた表情である。
診察の手順としては、先ず問診。
それから症状に応じた治療…と言う点は第一診療と差異はない。
大きく異なるのは、患者の症状そのものにあるのだ。
今日の最初の患者は、60代と思しき痩せ気味の男だった。
白髪交じりの初老の男は、その見事に日焼けした浅黒い肌を隠すかのように上下のジャージに身を包んでいた。
初秋とはいえ、残暑が厳しい中、似つかわしくない格好だ。
「今日はどうされましたか?」
鋼一の問いに、男は床に落としていた視線を上げると、今にも泣き出しそうな顔でポツリポツリと語り始めた。
「実はこないだ自分ちの畑で仕事をしておった時に…突然体調がおかしくなっちまって…手が…左手が、全くいうことを効かなくなっちまったんです。」
「それで?」
「最初はなんや痺れたみたいになって…ほれから段々感覚がなくなって…終いには自分で自分の首を絞めて気を失いそうになっちまって……」
成る程。見ると男は膝の上に置いた左手を、右手で懸命に押さえつけているようだった。
左手の指先が不自然に踠いているのが分かる。
「分かりました。では上着を脱いで、そこに横になってください。」
鋼一は、2~3度頷くと男にそう指示を出し、美琴に目で合図を送った。
阿吽の呼吸で美琴はテキパキと治療の準備を始める。
「上着はこちらでお預かりしますね。持ち物は下の籠に入れてください。」
陰鬱な雰囲気を吹き飛ばす絶妙なテンションの声とスマイルだ。
こういった才能は持って生まれたものであるにせよ、実に見事という他ない。
自分を“デキる女”と、豪語するだけの事はある。