月夜の兎-2
「は~い。少々お待ち下さ~い。」
美琴はインターホンに向かってそう答え、いそいそと事務室を出ると、そのまま診察室を横切り、受付横にある玄関の扉を開けた。
見るとそこには、黒いジャージのズボンに白いYシャツの裾を無造作に捩じ込んだだけの、なんとも奇妙な出で立ちの40~50代の男と、その男に手を引かれた、なんとも可愛らしい10歳位の少女が、申し訳なさそうにおずおずとした様子で立ち尽くしていた。
「はい。お待たせしました。診察ですか?」
《ここ【妖守鍼灸治療院】は、土、日、祝祭日を除く、平日の14時~18時迄を、第一診療時間として『一般的な鍼灸治療』を行っていて、その受付時間は13時からとなっている》
まだ収まりきらない額の汗を手の甲で拭いながら、美琴は落ち着いた口調でそう問いかけた。
勿論いつも通りの営業スマイルも忘れてはいない。
ただでさえ女盛り真っ只中の美琴であったが、上気した肌が薄桃色に染まり、口元のほくろを浮き上がらせる様は、その美貌とも相まって、見る者を一瞬金縛りにする程の妖美な雰囲気を醸し出していた。
並大抵の男ならば、目を泳がせ、しどろもどろになりそうなシチュエーションであるのだが…
しかし、その男はまるで動じる素振りを見せるでもなく、無表情な乾いた目で美琴を見据えると、
「妖守先生にお会いしたいのですが。」
と、低いトーンで切り出した。
「えっと…もしかして…第二診療の方の御用でしょうか?」
「………………」
顔色を伺いつつ、そう美琴が問いかけると、男は黙ってゆっくりと頷いた。
白地にピンクの水玉のワンピースを着たショートカットの少女は、二人の顔を交互に見ながら、不安そうに会話の行方を見守っている。
「分かりました。ただ…第二診療は通常の診察が終わってからになりますので、20時以降でお願いしてるんですけど…お時間の方はよろしいでしょうか?」
2~3秒の沈黙の後、男は分かったというように頷くと、
「では、そのくらいの時間にまた伺います…」
相変わらず無表情な面持ちでそう答えて、くるりと背を向けた。
「あ、すいません。お名前は、なんと仰るんでしょうか?」
慌てて美琴が呼び止めると、男は立ち止まり逡巡するような素振りを見せてから、
「なまえか……やまむら……で、お願いします。」
そう答え、またくるりと背を向けると、少女の手を引いたまま足早に立ち去って行った。
ビルの長い廊下を立ち去る途中、少女は何度も振り返り、美琴と目が会うたびに恥ずかしそうに慌てて目を逸らした。
どこか奇妙な雰囲気の訪問者ではあったが、その純朴で愛らしい人形のような少女の仕草に、美琴は思わず笑みを溢していた。