青春の残像
その日、二十年振に高校三年の時のクラスメイトが集まった。同窓会というやつだ。
上座に恩師を迎え、当時のクラス委員長だった幹事代表が挨拶をする。
僕は周りをグルリと見回した。今でもはっきりと覚えている奴もいれば、名前はおろか顔すら思い出せない人もいる。特に女性の多くは姓も変わってしまっている場合が多い。なにせ二十年だ。
そんな中でも僕が真理の姿を見逃すはずがなかった。真理は僕の座っているテーブルの、ひとつ向こうのテーブルに座って、こちらを向いている。真理だって僕に気付いているに違いない。彼女も僕の方を時折、チラチラと見ている。
僕と真理は高校生の時、恋人同士として交際し、青春の1ページをお互いの胸に刻んだ仲だった。
高校卒業と同時に、僕は大学に進学した。しかし真理は大学受験に失敗し、浪人してしまったのである。そこから二人の仲は急速に冷え始め、恋人関係は自然消滅した。
思い返せば、二人の関係に明確なピリオドがあるわけでもなかった。ただ、僕はもう既に結婚し、二児の父である。真理もまた、幹事に紹介された時、名字が変わっていた。
僕は周囲の話に相槌を打ち、適当にビールを注ぎながら真理の方を見ていた。
真理はシックなスーツに身を固め、随分と落ち着いた雰囲気を醸し出している。時折見せる慈愛にも似た眼差しは、彼女がおそらくは母となっていることを物語っていた。それでいて「女」を失っていない色香が漂っている。
(上手に歳を取ったな……)
そういう僕はどうだろう。今でも「男」としての魅力を兼ね備えているだろうか。朝6時に家を出て、帰宅はいつも深夜。土日は疲れ果て、まともに自分の子供とも遊べない。家族を養うために働いているのに、実感として手元にあるのは、延べ三十五年の住宅ローンだけだ。そんな男はやつれていないだろうか。
やがて宴たけなわとなり、みんなはそれぞれビール瓶や徳利を持って思い思いに席を立ち、特に仲の良かった旧友との思い出話に花を咲かせ始める。
僕は真理のところへ行きたい気もした。だが正直、怖かった。
僕が一人、手酌でビールを啜っていると、横でふっと上品な香水の匂いがした。横を見ると隣に真理が座っている。笑うでもなく、怒るでもないその表情。敢えて言うなれば、戸惑いの表情とでも言おうか。
「お久しぶりね。元気にしていた?」
「ああ、久しぶり。元気だよ……」
僕の口調はいささかぶっきら棒だったかもしれない。本当はもっと温かく迎え、話したいこともあるのに。
「今日ね、どうしてもあなたに返したいものがあるのよ」
真理が困惑したような表情で僕を見つめる。
「僕に?」
唐突に真理から「返したいものがある」などと言われ、僕も困惑した。
(一体、何だろう?)
僕はハンドバッグをまさぐる真理の手に注目した。やがてバッグから引き抜かれた彼女の手には、一枚のCDが握られていた。
「あなたから借りたTHE BEATLESのCD……。今まで返しそびれちゃっていて、ごめんなさい……」
「あっ、RUBBER SOUL……」
それは僕が高校時代に買い、真理に貸したCDだった。当時はCDがようやく普及し始めた頃だった。真理はこのRUBBER SOULというアルバムの「IN MY LIFE」という曲がお気に入りだった。
僕は大学に入ってから、アルバイトで稼いだお金でTHE BEATLESのアルバムを揃えたが、RUBBER SOULだけは買う気になれなかった。それは高校時代に清算せずに置き忘れてきた、真理との想い出を上書きできなかったからだ。まるで永久欠番のように、RUBBER SOULだけ揃わなかったのである。
僕は真理の少し肌のキメが粗くなった手からRUBBER SOULを受け取った。同時に走馬灯のように真理との想い出が頭の中を駆け巡る。
河原の葦原で隠れるようにして、初めて重ねた唇と唇。何とかベリーのような甘酸っぱい味がしたっけ。
僕の部屋でよく聴いたTHE BEATLES。とりわけよく聴いたアルバムがRUBBER SOULだ。真理が何度も「IN MY LIFE」をおねだりしたっけ。
そして僕らは磁石が引き合うように、自然と肌と肌を重ね合った。まだ青くて蕾だった真理。まだ樹にならない青い茎だった僕。それでも夢中だった。僕は真理の白く、柔らかい身体を何回抱いただろうか。
真理の身体の特徴を言えと言われれば、今でも言うことはできる。それは二十年前に置き忘れてきた記憶だった。
それが今、RUBBER SOULとともに戻ってきたのだ。
そして最後に真理が付け加えた「ごめんなさい」という言葉に、僕は二十年間を埋める温もりを感じていた。
「まだ十分若いけど、君は綺麗に歳を重ねたね」
僕のその言葉に、真理の身体がビクッと跳ねたのがわかった。それはおそらく僕にしかわからなかっただろう。かつて肌を重ねた者同士にしかわからないこともある。
「いや、別に変な意味じゃないよ……」
僕は慌てて弁解をした。別に真理をどうこうしようなんて気は今更ない。ただ、僕しか知らなかったはずの真理を抱く、彼女の夫にまったく嫉妬しなかったと言ったら嘘になるだろう。男とはそんな生き物ではないかとも思う。逆に真理は僕に妻がいると知ったらどう思うだろうか。
「君も結婚しているんだろう? 僕も結婚して子供が二人いるんだ」
ようやく真理の顔から緊張が解け、頬が緩んだ。
「そうだったんだ。坂井君、今は何をやってるの?」
真理が笑顔で尋ねる。
「ふふ、普通のサラリーマンさ。ちょうどバブルが弾ける直前だったから、うちらの世代はラッキーだったかもね。でも苦労するよ。下手するとリストラだもんね」
僕も真理に笑顔を返す。もう真理に何を話しても大丈夫だろう。
「私も子供がいるの。一人だけどね」
「そうかぁ……。お互いにそれぞれの道を歩み始めて、それなりに経つんだなぁ……。僕はこれからも、会社の往復と住宅ローンだよ」
僕は真理にビールを勧める。真理はコップに金色の泡を受けながら言った。
「私も子育てしながら働いているんだけど、PTAに駆り出されたりして、それなりに大変なのよ」
そう言う真理の言葉は決して嫌みでも、悲観的でもなかった。むしろ、サラッと笑うように言って退けた。
「幸福かい?」
「えっ? ええ、とても幸福よ」
真理は一瞬、びっくりしたような顔を覗かせた後、目尻を下げて微笑んだ。
「僕も何だかんだ言っても幸福さ。みんな、家族と自分の生活を守りながら、今を精一杯生きているんだ。お互いに無理せずに頑張ろうな」
「そうね……」
僕と真理は見つめ合った。それは未精算だった恋人同士の関係を解消し、お互いに忘れられない時間を共有した、男と女の友人同士のエールの交換でもあった。
青春の残像が未来への活性剤になった瞬間だった。
「宴たけなわではございますが……」
幹事がマイクに向かった。次の同窓会は五年後に行われるという。
会場を後にする時、今度は僕から真理に話しかけた。
「五年後を楽しみにしてるよ」
「私も楽しみにしてるわ」
五年を待たずして、会おうと思えば会うことは可能だろう。だがそれはお互いの望むところではない。街で偶然会えば会釈くらいはするだろうが、五年後に公式の場で再会したいものだ。
「じゃあ、元気でな」
「坂井君もね」
背中を向けた真理を見送る僕の心に、清々しいそよ風が吹いた。
五年後に再会した時の真理も、きっと素敵に歳を重ねているに違いない。僕はそう信じていた。
僕は背中に遠ざかるヒールの音を聴きながら、セカンドバッグの上からRUBBER SOULのCDを確かめる。これでTHE BEATLESのCDが全部揃った。同時に僕の未精算の過去というパズルがひとつ埋まった。
今夜は子供が寝た後、ひとりで「IN MY LIFE」を聴こう。しばし青春の残像に酔った後、未来を生きていくために。
(了)