わたしは一時期ハマっててねえ
♢
「叶織ちゃんはヘアドネーションしたことある?」
聡が叶織の髪の毛で遊びながら尋ねる。叶織は、毛先を撚ろうとする聡の指を払いながら、「一回だけ」と答える。
「わたしは一時期ハマっててねえ。髪伸びるのが速いから、一年に一回、誕生日に寄付してたんだ」
「え?」叶織は思わず後ろを向いた。
ヘアドネーションできる髪は団体によるが大体30cmほどからだ。叶織はスマートフォンの電卓アプリを開く。その長さを毎年寄付するということは、30÷365=約0.08より一日で約0.8mm伸びるということである。彼女は聡を観察する。言われてみれば、四月に出会った頃は肩にぎりぎり触れるくらいの長さだったはずだが、今や毛先はブレザーの胸ポケットを擽っている。どう見ても5cmは伸びている。二ヶ月で5cmだから、一年で30cm。計算は合う。
「でも、十四歳の誕生日でやめたんだ」
聡は叶織の目を見て言う。叶織は見返さず、前に向き直った。聡は言葉を続ける。
「カツラが必要ってのは髪の生えてる側の価値観だよ。一見するとなんともお優しい活動だけど、実際は相手を見下し価値を押しつけてるだけ。そうは思わない、叶織ちゃん?」
「私も同じようなことを、寄付した時ーー小学六年生の、夏でしたねーーに考えました。だからそれが最初で最後になった訳ですが、流石にそれは言い過ぎですよ」叶織は髪をいじられながら返す。「それはヘアドネーションをしている人たち特有の価値ではありません。発毛剤のコマーシャルが日常的に流れる程度には一般的になっているものです。そもそも髪が薄くなるというのは老化の典型的な症状ですから、それに抗おうというのは極めて人間的ではないですか」
「アンチエイジングは人間の根源的な欲求と言いたい訳か。でも人間的だから、という根拠で論を展開するんだったら、むしろ脱毛は受け入れるべきじゃないかな」
「?」
叶織は首を傾げた。
「群れを成して生きる動物ってのはキリンとかゾウとかライオンとかオオカミとかいる訳だけど、たとえば群れの中に老いて動けなくなった個体があったら、他の構成員はそれを助けるのかな? 肩を貸してあげたり餌をとってきてあげたりするのかな」
「――全てがしないとは言い切れないですけど」叶織は答える。「大方しないと思います」
「“Old soldiers never die”ってね。まあそれが一番、自然環境ではいいんでしょ。さて叶織ちゃん、髪の抜けた若い子に、ヘアドネーションで作ったカツラをあげるのはなぜだと思う?」
「毛が抜けるのは老化の典型的な症状――老いた個体と思われて、群れから追い出されるのを防ぐため、ということですか」
「単純化すればね。でも人間社会では老いた個体とて丁寧に世話される、たとえ寝たきりになったとしても見捨てられないのが人間の情ってやつでさ。なら毛が抜けちゃった子が追い出されるのはどこから? そう、学校のクラスとか、ご近所付き合いとか、なんかそういうちまい枠」
「そしてそれが――動物的だと」
「弱いもの苛めはイケマセン、ってことだよ。どうして駄目なのかといえば、弱いものでも生きていい社会を人間は作れるから。動物の群れの場合、ひどい話だけど弱いもの苛めは群れの生存確率を上げるかも知れない。身体が小さい個体なんかは、遺伝で子どもたちにもその形質が残る訳だし。でも人間が弱いもの苛めをする理由は優越感に浸りたいから。自己肯定感を高めたいから。そんなの鏡に映る自分でも褒めてればいいんでないのって話な訳ですよ!」
聡は叶織の髪から手を離す。顔の右側の、耳に掛けている髪が編み込まれていた。叶織は聡の手鏡でそれを確認する。「どうよ」
「……まあ概ねその論には賛成ですが」鏡を返しながら彼女は言う。「髪の毛のそもそもの役割、つまり動物の進化過程において、人間の残った体毛と残らなかった体毛との差異を考えると――」
「そうじゃなくて、編み込みだよ」
「…………」話は終わっていたようだった。叶織は無言で編まれた髪を解く。
「あ!」
「笠永先輩の話なんですけど」
叶織も話を終わらせ別の話を始める。
「千早ちゃん? 千幸ちゃん?」
「千幸先輩ですね」叶織は答えた。「高総体で、会ってきたんですけど……」
「性格がクズだったって?」
聡は先回りして言った。
「いや、クズとまでは言わないですけど、とっつきにくいと思って」
「天使と言っても千幸ちゃんは跳ぶ姿が天使なだけだからねえ。高跳びは見たの?」
「それは日にちが合わなくて見てないです」
「それを見ずに判断しちゃ駄目だよ。あれを見たら、まあ性格クズでもいいかな、ってなるから」
聡は言った。そこまで言うとはどれほどなのだろうかと流石に気にはなったが、
「でもあの性格は直したほうが――」
「性格がよければ他は気にしないとは懐が深いんだね叶織ちゃん。典型的な、DV被害者だ」
聡は切り返す。
「…………」言っていることは筋が通っている。通っているが極論である。叶織は会話をやめて、椅子から立ち上がった。
すかさず聡が椅子に座り、叶織のほうへ後頭部を向けた。
「?」
「!」
今度は自分の番、とでも言いたげに、頭を揺らす。
叶織は仕方なく、もう少し彼女につき合うことにした。