水銀が布に染み込むかどうか知らない?
※
友人の定義について、常夏叶織は考える。彼女にとって、まず思いつくのは眞緒、麻依、まほろ……そういった、例えば一緒に遊び行ったり、ちょっとした話をいつでもしたかったりするような相手。必要なのは、今まで関わってきた時間や、それに基づく信頼だ。ある意味では、実華菜や輔久など、後輩たちも含めることができる。
では鈴はどうだろうかと叶織は思考を進める。彼女とは、結局いろいろと関わることとなったが、実際、親しさをあまり感じていない。彼女にとってもそうだろう、たとえどちらかが相手の利益となる行動を取ったとして、それは『友人だから』という単純明快な理由で片づけられるものではなく、しっかり裏で損得勘定が検算を含め為されているし、貸し借りやら体面やら面倒なものが働いていて、あまつさえそれを互いによく理解しているのだ。だから鈴とは、友人関係にはなれない。そう叶織は結論づける。
では彼女は、と。
あの先輩は、友人なのかと、叶織は考える。
尊敬していた。
敬愛していた。
畏怖していた。
危惧していた。
一緒にいると、楽しくて。
一緒にいると、嬉しくて。
どれだけ影響を受けたか分からない、そんな先輩はしかし、先輩と呼ぶにはあまりに等身大で、本当に、友人と呼べるくらいの距離で。
結論を、先送りにしてしまう。
しかしそんな規定には、案外意味がないかも知れない。『相手が友人だと思ってくれていれば友人』、そんな考えを全員が持っていたら、上辺だけの関係が世界を覆うだけだ。だから本質的に考えてみて、彼女との二年間が、彼女への称号によって揺らぐかといわれれば揺らがない。その事実だけを堅持して、過去の回想を始める。
♢
県立華園高校への入学は、両親や親戚一同は喜んでいたし、眞緒と麻依も合格したということで、基本的に嬉しいことだ。まずは新しい環境に慣れ、追い追い進路を決め、勉強に取り組む。部活は全員強制とのことだったが中には活動をほとんどしていないところもあるだろう。眞緒に軽音楽部の見学に連れていかれ、麻依に陸上部の見学に連れていかれた後、叶織は一人で校舎内を歩く。実は気になっている部活があったのだ。
掲示板に並ぶビラ。他の部活は別の場所にもたくさん貼っているが、その部活だけは、昇降口の大掲示板、しかもそのど真ん中にしかビラを貼っていない。売り文句は、真っ白な紙に、真っ黒な文字で、大きく、たったこれだけ。
化学部
at
化学室
火曜日
and
木曜日
叶織は、妙にそそられてしまう。
洗練されているからか。
宣言されているからか。
どうにも、気にかかってしまう――今日は、木曜日だった。
華園高校は五階建て。その三階に、化学室がある。その教室の前まで来ると、扉が開き、いきなり誰かが出てくる。白衣を着た長身の男性。恐らく化学担当の教師だ。その先生は、右手の人差し指と中指を左手で押さえている。叶織の足は驚きで止まった。
先生は叶織に気づく。「ああ、入部希望か? 今は、入室、禁止だ」それだけ言って、階段を下りていった。
「…………」
叶織は言われた通りにその場で止まって先生が戻るのを待つ。と、教室の中から、
「せんせーい」
と誰かの声が聞こえた。
一体何が起きているのか――取り敢えず言われた通りに、部屋には入らず待っていると、「せんせーい、水銀って布に染みないんですかー」と物騒な言葉が聞こえる。水銀――温度計でも割ってしまったのだろうか。先程部屋から出てきた教師は、指を押さえていた。ガラスの破片で傷つけたと思われる――リュックに絆創膏が入っていることを彼女は思い出した。しかし時既に遅く。
「せんせーい、せんせーい、せんせーい」
心配を通り越して恐怖を覚え始めた叶織は、化学室を覗いてしまう。
そこには――キラキラと、光の散りばめられた空間に優雅に座っている、一人の女性がいた。
いや、正確に描写するならば、ガラスの破片と水銀を制服に浴びている、一人の先輩がいた。
肩くらいの長さに前後等しく伸びている髪を、左目の上で分けている。その左目尻に、泣きぼくろがあるのが見えた。
「あ、見学? 入っていいよー」
「いやいや、絶対入りませんよ」叶織は足元、ドアからすぐ入ったところにまで破片が飛んできているのを見てそう返す。見たところ、温度計一本のガラスの量ではない。少なくとも二本は割っている。
「ところで水銀が布に染み込むかどうか知らない? コロコロしてるんだけど」その人はそうスカートの上を揺蕩う水銀の玉たちを指差す。「えっと……玉になっているのは表面張力が大きいからだったはずです。だから――染みはしないと思います」叶織は何かで読んだ情報を伝える。
「なんだ、じゃ、こんなものポイだねポイ」そう言ってスカートをはたこうとする先輩に、
「いや、それは単純に掃除が面倒になるのでは……」とツッコむ叶織。
「その通りだ。桐嶋、動くんじゃない」
そこへ、先程の教師が粘着テープを三ロール持って現れる。指には大きな絆創膏が貼られていた。彼は、「頼んでいいか」とテープの一つを叶織に渡して、自分は早速屈んでガラス片と水銀を集め始めた。
桐嶋と呼ばれた女子は、スカートをつまんだ姿勢で固まる。水銀がコロッと転がり落ちるのを叶織は目撃して、自分の前のガラスを取りながら、彼女のところへ行く。「自分で取れますか?」と訊く叶織に、彼女はスカートを持つ手をふらふら揺らし、手が離せないアピールをする。「…………」まあ、ここで離されて破片が飛び散れば面倒なのは明白だ。仕方なく叶織はスカートに手を伸ばす。
♢
その後、動けるようになった先輩を含め三人で床をテープでぺたぺたと掃除する。単なるガラスだけでなく水銀がある時は、掃除機で吸ってはいけない。体温計に入っている水銀は金属水銀であり、有機水銀より無害であるが、揮発しやすく、気体となって肺に届き、身体を害する。
「体温計くらい卒なく使いこなせ。そもそも備品を壊すな」
教師が厳しく言うのに対し、桐嶋はへらへらと、
「先生は弁償しないじゃないですかー」
と返す。
「責任の話をしているんだ。頼むから、これからも部活動をしたいなら不祥事を起こすな。お前がどれだけ優秀でも、部員一人はギリギリのラインなんだ」
「一人、なんですか?」
叶織は思わず話に参加する。桐嶋は思い出したように彼女の方を向き、
「そう、華園のワンマン宰相とはわたしのことさ。ところで後輩ちゃんの名前は?」
「常夏、叶織です」叶織は名字と名前を区切って言う。
「ようこそ叶織ちゃん。わたしはこの華園高校化学部の部長かつ副部長かつ書記かつ企画担当かつカメラかつ観葉植物かつ盛り上げ役かつ真の支配者、桐嶋聡だよ」
「サトル、ですか?」
叶織は繰り返す。聡はそれに耳聡く反応し、
「今、女の子っぽくないって思ったでしょう?」
と笑う。
「それは――」
「だったら叶織ちゃん。『羽織』は、男子の正装だけど」
「……女子も着ますよ」
「だったら『サトル』が女の子で問題がある? なら何が男と女を区別してるの? 『ル』? じゃあ『カオル』は? 『チヅル』は? 『キャロル』は?」
「キャロルは比較対象にはならないかと……」
「いいツッコミだね」聡はまた笑う。「そしてこっちの目つきが悪い顧問が、関屋先生ね」
「俺の名前に勝手なルビを振るな」
「たかゆきセンセーは化学教師なのに文系クラスを担当してるから、文理問わず何でも質問していいよ」
「お前が許可を出すな」
「ど、どうも」
早くも、ついていけなくなっている叶織。
「あ、それでもう化学部に入るって決めたの?」聡は話を本筋に戻す。叶織は、「えっと……まだです」と返した。今までの惨事を見て、そう簡単にYESと言える訳がない。
「今のところの候補は?」
「見学に行ったところは、陸上部と軽音楽部です」
「お、いいね」聡は言う。「陸上部は部長の啓次郎は性格に難ありだけど三年・二年副部長の笠永姉妹が天使だからオススメ。軽音楽部は顧問が最適解なのと一瀬瞳っていう天才がいるからオススメ」
「化学部の宣伝はしなくていいんですか?」
「化学部にはこのわたし、部長にして会計にして書記にして企画担当にしてカメラにして観葉植物にして盛り上げ役にして真の支配者、桐嶋聡がいるからね!」
「少し変わったように思うんですが」
「だって叶織ちゃん、入部して副部長になるでしょう?」
「え?」
ついていけなくなっているどころか。
とっくに彼女のテンポに吸収されていて、それに気づけていなかったことに、気づく。
「えっと……一年生が副部長になるっていうのは」
叶織は顧問に助けを求めようとするが、
「それに関しては制度上全く問題ないな。普通は三年から選ぶだろうが、陸上部のように三年から一人、二年から一人選出するところがあるし、そもそも人数が少ない部活だと、一年生がならざるを得ない」化学部のように、と。
そうだった、彼はこのワンマン宰相に手を焼いているんだったと、叶織は思い出す。彼としては、少しでも人数が増えればいいと思っているに決まっている。
かくして、叶織の化学部への入部が、詐欺紛いながら決定した。