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夕日  作者: 永島大二朗
8/16

追憶

 雷鳴轟く霧の山道を歩いていた。真横から叩きつける雨で左側だけが濡れる。夜のうちにテントを畳んで山小屋に非難していたので、出発時刻は予定通りだった。三十分程歩けば下山する道に曲がる。それまでは何も見えない尾根道を、ピカッと光ってから暫くして鳴り響く雷鳴に怯えながら歩くしかなかった。

 山小屋を出発するときに声を掛けて来た人と歩いていた。視界は十メートル程。お互いの距離を保ちながら歩いた。無事下山してそこで別れるはずだった。

 雨も一段落した森の中でコーヒーを沸かしながら話していた。雨合羽を脱いで表れた人は、山には珍しい若い女性だった。クリッとした目におちょぼ口。おばさん臭い帽子をかぶった間から飾り気のない黒髪が覗いていた。

 話をしてみると、ほぼ同じ行程の山歩きであったにも関わらず、とても大きなリュックだったので、中身を聞いて見た。

「着替えなんです」

 にっこり笑って答えた。なるほど。そういうものですかな。

「近くの温泉に行くけど、乗って行きますか? とても小さい車ですけど」

 下山中に帰りの交通をシェアする相談は常套である。いつもそうして貰っていたし、そうしていた。社交辞令でもあった。

「お願いします」

 意外な返事にちょっと驚いた。

 誘ってから一末の不安があった。下山して指差した先には、言った通りとても小さい車が三日前のまま止まっていた。

「これですか?」

「そうです」

「ちっさっ!」

 若者らしく驚きの声を挙げ、そして笑った。それはMiniだったが、改造してさらに小さくしたものだ。

「MiniのMiniです」

「へー」

 そう言いながら車を一周するのにさほど時間は掛からなかった。

「小さいのにも限度がありますよね」

 そう言いつつ二人で乗り込んだ。シートベルトを締めた膝の上に、リュックを乗せて車は温泉に向かった。話してみると、家も同じ方角だったので、街まで乗せてあげることになった。

 温泉の待合室で、冷えたコーヒー牛乳を飲みながら待っていると、濡れた髪をタオルで拭きながら駆け込んで来た。

「そんなに慌てなくて良いですよ」

「待たせちゃいけないと思いまして」

 約束の時間にはまだ十五分くらいあった。それでも時計を見ながら、リュックから水筒の水を取り出して飲んでいた。

 素足のまま畳の上で過ごすのは気持ちが良い。別に急ぐ旅でもない。しかし、いそいそと身支度をしていた。濡れた長い黒髪を輪ゴムで結ぶと、恥ずかしそうに帽子を被った。

 高速道路での帰り道、狭い車の中で車の話をした。

「ミニクーパーだとナンバーを3298にしたりしますよね」

「そうですね。でもこれは3232なんです」

 うふふと笑った。大型トラックが追い越し車線から抜いて行くと揺れた。

「ぬおぉっ! MiniMiniの実力を見せてやる!」

「まぁまぁ」

 別にスピードを出すつもりはなかったが、なだめられた。うんうんと頷いて言った。

「こんな車でも、走る凶器であることには変わりません」

 自戒の念を込めて言ったつもりだったが、黙って悲しい顔になってしまったので、車の話は止めた。

 カーブを曲がると正面に富士山が見えて来た。


 富士登山

 行かぬ阿呆に

 二度行く阿呆


 富士山を読んだ有名な句を諳んじて見せた。すると正面を向き、「綺麗ね」と言った後に言葉を続けた。


 同じ阿保なら

 のぼらにゃ損損


「それは何処かで聞いたことがありますね」

「そうですか?」

 そう言って盗作を完全否定した。ちょっと口角が上がって、誤魔化しきれると踏んだ笑顔になった。可愛い仕草だった。

 その後は疲れが出たのか、口を開け、ヨダレを垂らしながら寝ていた。

 別れ際に初めて名前を聞いて、住所と電話番号を交換した。

「また山で会いましょう」

「はい」

 そう言って別れた初夏の日だった。


 それから暫くして、ポストに手紙が入っていた。残暑見舞いにしては早い。あぁ、この間の人だと思った。『この前のお礼がしたいので、いつでも来てください』と書いてあった。不思議に思ったので行って見ると、そこはファミリーレストランだった。

「いらっしゃいませ」

 そう声を掛けられて良く見ると、山の帽子の代わりに小奇麗な布切れを頭に巻いた人が立っていた。

「あ、どうも」

「来て頂いたんですね。先日は有難うございました。今日は奢りますから、好きなの食べて行って下さい」

 カウンター席に案内されて、メニューを渡された。

「これ、すごくお徳なんですよ」

 六百三十円のステーキを指差して言ったので、それにした。

「じゃぁ今、作ってきますね」

 そう言ってメニューを下げると、厨房へ消えた。

 料理を出してくれた後も、Tシャツ、ジーパン、スニーカー姿で忙しく店を走り回っていた。時々こちらに来ては美味しいですか? とか、足の筋肉痛治りました? とか、一言づつの短い会話をした。それでも楽しそうだったので、お礼の料理が美味しく感じた。そのうち夏休みの過ごし方が話題になった。

「お盆の時期は暑いですからね。ずっと山に行こうかと思ってるんですよ」

「えっ、私も行きます!」

 今までひそひそ話しだったのに、ちょっと大きな声を出したので驚いた。阿波踊りの様に両手を顔の右側に揃えて上げてしまった。

「写真を撮りながらゆっくり歩くので、ペースが合わないかもしれませんよ」

「丁度良いです。何とかします」

 空いている隣の席に飛び乗りながら返事が返って来た。そして、届かない足をぶらぶらさせながら携帯電話を取り出すと、メールアドレスをこちらに見せた。了解したが、「何とかします」の意味が良く判らなかった。

 今日は忙しそうだったので、後は携帯電話のメールでやりとりをすることにした。

 お互いに準備を整えて、ファミリーレストランの駐車場で待ち合わせた。まだ暗い街を抜け、朝日を背中に浴びながら山に向かった。

 高山植物の盛りは短い。良い写真を撮るにはある程度通うことも必要だ。そして撮影には時間が必要だ。

 あてもなく気ままな山歩き。電車で来れば縦走出来るのだが、最近は電車も予約が必要になって、面倒になっていた。狭いながらも楽しい車内。足回りの良い小さい車を買って、それで出掛けていた。今日は二人だけど。

 淡々と登ること数時間。森林限界を突破すると視界が開けてくる。森の中ではオコジョに出会えることもあるが、それはとても稀なこと。撮影は森林限界を越えてからである。休憩のついでにニコンを取り出すと首に掛けた。

「本格的ですねぇ」

 そう言えばこの前は下山の時だったので、カメラを首に掛けていなかった。対抗する様にリュックからデジカメを取り出した。

「ジャジャーン。新品買っちゃいました!」

 嬉しそうに言って目の前に差し出すと、人の真似をして首に掛けた。デジカメは持っていないのでよく判らない。

「いちきゅっぱでお買い得だったんです」

「ほほう。良い買い物をしましたね」

「はい。何百万もする最新機種だそうです」

 スイッチを入れる度に、レンズがビヨンビヨンと出入りする真新しいデジカメ。もしかしてこれが「何とかします」だったのかなと思って気の毒になった。カメラなら貸したのに。

「そのカメラは幾らしたんですか?」

 無邪気に聞いて来た。

「これぐらいですね」

 三本指を立てて見せ、手首を素早く前に倒した。

「三万円ですか。やっぱり結構するんですね」

 違う。三十五万円。まぁいいか。セリの符丁なんて判る訳ないよね。

「結構したんですよ」

 にっこり微笑み、腰を上げながら答えた。

 カメラの性能は腕の差ではない。それは良く師匠に言われたことだ。それでもまぁ、こちらが撮影を始めると、デジカメで真似をし始めた。

「これ、何ですかねぇ?」

「どれどれ?」

 カメラの機能について説明を求められた。見ても良く判らないのだが、判らないとは言えないこの辛さ。後学のため、一つくらい買っても良いかなと思った。フィルムのISO感度を途中で変えられるとか、常識を逸脱した操作に一人驚いていた。

 足元に咲く花を踏まないように歩く。綺麗に咲く花を二人で探しながら撮影した。ひとしきり撮影し終わるとリュックを背負って歩いた。そんな日々を過ごした。

 山には何度も来ている様だが、撮影するのは初めてだったらしく、とても楽しそうだった。面白い形の雲を見つけては撮影し、鞍部を越えて行く雲や、隙間から射す日の光で、鮮やかな緑色が蘇るのも撮影した。ポツンと立つ木立や、雷鳥の親子も撮った。

 いつも撮影している訳ではなく、休憩の時はカメラを置いた。高山植物がそよ風に揺れる中、入道雲が流れていくのを眺めていた。沢の水でコーヒーを淹れて乾杯した。すると雷鳥の親子がすぐそこに現れた。コーヒーを勧めると、首を振りながら行ってしまった。「コーヒーはダメみたい」そう言って笑った。

 写真は実物には叶わない。風を感じ、空気を感じ、水を感じ、命を感じることが出来るのは、山の中だけなのだ。写真は山の紹介、山へ行くきっかけに過ぎない。

 人通りの少ない小ピークに登ると、リュックを降ろした。立てかける岩がなかったので、二人のリュックを合わせてみた。そっと離すとうまい具合に立った。

「イエーイ」

「イエーイ」

 ハイタッチをして喜んだ。いや、そこまでして喜ぶ必要はなかったかもしれない。草地に座ると、こちらもリュックと同じ様に背中合わせに座った。

「ああー疲れた」

「どっこいしょー」

 爺臭い。婆臭い。それでも青空に浮かぶ白い雲と、一面を埋め尽くす花々が二人を包み込んでいた。山は寛容なのだ。

 耳を澄ませば聞こえてくる鳥のさえずり。遠くに見える山小屋の赤い屋根と白い煙。何も話さない。背中でお互いの重さ、暖かさ、息遣いを感じながら、初めて別方向の景色を楽しんでいた。

「それでは一首よろしくお願いします」

 不意に言われてびっくりしたが、そこでサラサラと出てくれば大人である。


 山に来て

 高山植物

 綺麗だな


「なにそれ」

 下手糞と言わんばかりに言われた。そう言われても、ねえ。


 雲に託すは

 適度な日陰


「そっちこそどうなの」

「いいじゃない」

 連歌なんて、高尚なものを持ち出してくるとは意外だった。普段リュックばっかり背負っている背中で笑いを感じた。

 こちらが向いていたのは花畑が良く見える方角で、反対側は山と雲が良く見えた。

「そっちにすればよかった」

 そう言うと花畑を指差した。今まで見たことがない笑顔を見せた。

「じゃぁ、座りなおしますか?」

 と聞くと、恥ずかしそうに「結構です」と言ってトットットッと小走りにリュックの所へ行き、一つ二十キロはあろうリュックを二つとも持って来た。怪力だ。

 雲上の楽園での生活。一週間は短く感じた。

 明日は山を降りるという夜、ラジオの気象通報が雨を告げた。

「雨の下山かぁ。しょうがないね」

「今まで晴れだったし、良いじゃない」

「そうだね。良しとしよう」

「でも撤収が面倒よね。荷物重くなるし」

 リュックから取り出した小さなテントの袋を、ポンポンと両手で跳ねさせた。

「こっちのテント二人用だけど、来る?」

「やった! そうしよう!」

「風呂入ってないから臭いかもよ?」

「それはお互い様よ」

 月明かりが綺麗な夜だったが、やがて雨になった。風も出てきてテントは揺れたが、蓑虫が二匹とリュックが二つあれば怖くはなかった。雷鳴にしては長いと思ったら、それはいびきだった。

 翌日、雨の中で目が覚めた。寝袋をたたみ、柔らかい物は下、固く重いものは上と並び替える。先に出発の準備を終わらせた人が、テントの中でポンと置かれたニコンを手にした。

「撮ってあげるよ。おもっ」

 持ち上げたがすぐ下に降ろした。横目に見ながらごそごそと身支度を整えていた。

「一キロ以上あるんだよね」

「こんなの持って歩いていたんだ」

 そう言ってポンポンと両手で跳ねさせた。そして、もう一度構えた。

「ハイ。チーズ」

「あの、フタ閉まってます」

「あ、これね。ハイ。チーズ」

「いえ、電源入っていません」

「どれ? どれ?」

 特徴のある電源スイッチを操作して、撮影可能な様に調整し、再び渡した。

「では、気を取り直してもう一度。ハイ。チーズ」

「ピース」

 普段あまり撮影されることもないので、ピースサインなんて出してみた。

 ソフトタッチのシャッターは、強く押されて「カシャンカシャン」と良い音が二回して、「ビィー」という小さな音をたてた。

「流石に三万円もするカメラは良い音がするねぇ」

「いいでしょう。雑誌に載っている写真と同じのが撮れるよ」

「え、本当? じゃぁ今度は私を撮って!」

 そう言ってカメラを返してくれた。フィルムエンドになっていたので、巻き戻してスイッチを切り、二重のビニールに包んでリュックに入れた。

「いいよ。それじゃぁ……再来週の土曜日にね」

 せくしぃポーズを取っていたが、崩れ落ちた。

 下山の時は何故か機嫌が悪かったが、温泉でコーヒー牛乳を買ってあげたら笑顔になった。時間が早かったのか、畳の休憩所は二人しかいない。壁の向こうとこっちに足を伸ばして座った。窓から差し込む光は、まだ山の余韻があった。

「のんびりしたねぇ」

「綺麗だったねぇ」

「ヒゲ、剃らなかったの?」

 一週間も山にいれば、ヒゲボウボウ。ここまで伸びると剃るのがもったいない。というより、剃るのは荷物を解体してからと決めている。

「山男って感じがするでしょ」

 そう言って顎を擦った。するとリュックからデジカメを取り出すと、ビヨンビヨンとやったかと思うと、さらにビヨーンとレンズを伸ばした。

「おお、すごいヒゲだ。あ、鼻毛もビヨーン! あはは」

「どこ写してんだよ。鼻毛なんてないよ」

 そう言いながら鼻に指を持っていくと、指先に僅かな感触があった。折角だから引っ張ってみた。

「とうっ! お、三本同時だ」

 その瞬間ストロボが光った。そしてさっきより一オクターブ高い笑い声が響いた。

「ちょっと! 何写してんのさ!」

 その場で足をバタバタさせて、デジカメを見ている。立ち上がって近づくと、膝を曲げ、胸に抱えて見せようとしない。笑ったまま首を横に振って涙目になっている。

「先生! 削除を求めます!」

 気を付けをし、右手を上げてそうお願いすると、なお笑いながら頷いてデジカメを操作した。覗き込むとまた胸に当てて隠し、首を横に振った。

「ごめん! 電池切れ!」

「え、ど、どういうこと?」

 暗くなった画面をこちらに見せてまた笑った。仕方なく口をへの字にすると振り返り、自分のリュックを持ち上げた。

「さて、帰るかー。さぁ、明日から仕事だ」

 自分に言い聞かせるつもりで言ったのだが、返事がないというか、反応がなかった。笑い声も消えた。後ろを振り向くと、デジカメを見ながら顎を膝に付けると、こちらを避けるように目を窓の方に向けた。

「ファミレス……クビになっちゃった」

 デジカメを回しながら言いにくそうに言った。とても小さな声だった。

「あら、そうなんだ」

 仕事なんて幾らでもある。軽く答えた。

「休み取り過ぎだって……。でも大丈夫。何とかする」

 上半身を元気良く起こし、笑顔でこちらに向き直るとそう言った。照れ隠しか「テヘッ」と右手で自分の頭にゲンコした。

 デジカメを持ったままだったのでちょと痛そうだった。今度はそれを隠すかの様に、こちらが飲み終わって置いてあったコーヒー牛乳の瓶を取上げると、「ごちそうさまでした」と言って片付けに行った。

 何とかするって、今度は何? そう思った盛夏の日だった。


 それからそれから二週間後の土曜日。晴れ。夜に掛けて雷雨あり。そんな天気予報を告げるテレビを見て出かけた。

 メールで指定した場所に、時間より早く到着した。昨日やっと連絡が取れたので、ホッとしていた。

 ポケットの小銭でアイスコーヒーを買い、飲みながら待つ。駅の時計が約束の時間を告げたとき、山の服装を全く感じさせない女の子が、長い黒髪を揺らしながら白いワンピースを着て現れた。

 「おっはよう」と言いながら、人気の少ない朝の駅前でクルリと一回転し、両足をトンと着いて止まった。そして両手でスカートの裾を掴んで挨拶した。

「待った?」

 体を全体を右に傾けつつ、小首を傾けてそう聞かれた。時計を見て「十二分三十五秒くらい」と答えた。そのまま倒れそうになった。

 手を差し伸べたが踏みとどまった。

「あれ? カメラは?」

「あるよ。さぁ、乗ってのって」

 用意したバンのスライドドアを開けると、丁重に後部座席に案内した。ふわりと浮いたスカートが静かに落ち着くのを待って、シートベルトを装着させた。

「あれ? 少し痩せた?」

 ほっそりとした感じがしたので聞いた。すると一瞬そんな筈はないという表情になったが、痩せたと言われて喜ばない女性は少ない。

「そうよ。ちょっとね」

 両手を頬に当て、口を縦にしておどけた。朝っぱらから変な物を見た。裾が扉に挟まれないように閉めて、助手席に座った。

「どこに行くの?」

「美容院ですよ」

「え?」

 運転席の人がちょっと振り返り答えて前を向いた。そして今度は上半身を捻って振り返った。

「うひょう。可愛いじゃないですか」

 運転手の右肩が当たって、バックミラーが曲がった。そこに映ったのは、膝を揃えて不安そうに座る人だった。手はもう膝の上にあった。

 車は走り出した。


 車の前後で会話がないまま四十分程走って美容院に着くと、丁重に降ろして店に案内した。

「あら、可愛い子じゃない」

 美容院のおばちゃんもそう言った。一人だけ意味が判っていない様だ。

 一時間後、上から下まで全ての衣装と靴を交換し、バッチリお化粧をした女性が現れた。また車に案内すると、十分程先にある近隣公園にお連れした。

 そこにはカメラマン五十人が、モデルの到着を今や遅しと待ち構えていた。大きな拍手で迎えられ、やっと意味が判ったようだ。

「よろしくお願いします」

 モデルはペコリと頭を下げてお辞儀した。ちょっと泣きそうな顔をしてこちらを見たが、にっこり笑ってファインダーを覗いた。

「ヒューヒュー」

「よーし、やるぞぉ」

「頑張りましょう」

 こうして撮影会が始まった。五十人からの注文をこなすモデルは大変である。

「こっち向いて」

「次こっちお願いします」

「笑ってくださーい」

「こっちにも今の笑顔お願いしまーす」

 運転手をしてくれたのは、馴染みの店長さんである。今日はレフ版を持って指導役。銀色と金色のレフ版を使い、状況に合わせてモデルの顔を照らした。残暑厳しい夏の日差しが眩しそうだったが、容赦はしなかった。そのためにしっかりと化粧をしているので問題はない。

「眩しいけど、目ちゃんと開いてね」

 ポーズと取る度に、百回以上のシャッター音が鳴り響いた。近所を歩く人も、余りの光景に引いていたが、何人かは駆け寄ってきて一コマ撮影して離れて行った。

「誰だろう。有名人?」

「そうなんじゃない?」

「あれ、あの人に似てない?」

 そんな会話も聞こえたが、今日のモデルは多分普通の人である。

 モデルが移動すると、それに五十人のカメラマンが付いて行く。中には首からカメラを二台ぶら下げた人もいる。ひらひらとした服を着たモデルを先頭に、眼光鋭い怪しい一団が公園内をうろついていた。

 今日はプロのモデルを呼んでの正式な撮影会ではない。それでも無理な注文を黙々とこなしていた。時々休憩を入れつつ、都合四時間撮影。本人ご所望の撮影が終わった。衣装が汚れるので食事は飲み物だけである。

「疲れた……」

 街では着れないゴージャスな衣装を着たまま、ゲッソリとした様子で言った。

「お疲れ様。撮って欲しいって言ったじゃない」

 団扇で仰いであげながら笑って肩を叩くと、上目遣いにこちらを見た。

「まさか……こうなるとは……」

「どうなると思っていたの?」

 逆に聞きたかったが、下を向いたまま返事はなかった。

 その後、親しい人十人くらいで、近くのファミリーレストランへ行った。昼食にしては遅い時間だったので、店内は空いていた。いくつかのテーブルを寄せ集めて席を作り、みんなで座った。

 幹事席である端っこに座った。白いワンピースに着替えたモデルが、隣に座ろうとした。しかし「紅一点だから真ん中」と連れて行かれた。不安そうな目をしていたが、にっこり笑って見送った。

 暑かったので何人かは昼間っからビールを頼んだ。モデルはにっこり笑うと、「お酒嫌いなんです」と言ってオレンジジュースを頼んだ。送って行こうと思っていたので、コーヒーを頼んだ。みんなで乾杯をして、食事をしながら今日の反省をした。

「フィルム何本撮った?」

「俺は七本だな」

「八本かな」

「俺五本」

「おれはデジカメだぜ」

 そういう人もいた。モデルは、フィルムの本数に驚いていた様だ。

「今日のモデルさんは頑張ってたよね」

「一生懸命だったよね」

「初めてにしては上出来だよ」

「どもども……」

 ストローのひだひだをいじりながら、にやにやしていた。満更ではない様である。目が合ったのでうんうんと頷くと、山で見た笑顔になった。

「ねぇねぇ、上の名前は何て言うの?」

「何処に住んでるの?」

 早速アルコールが回って来たのか、何人かがモデルのプライベートについて質問を浴びせた。困った様子で、またこっちを見た。手を挙げて話しに割り込む。

「プライベートな質問にはお答え出来ません」

 そう代弁した。

「マネージャー、厳しいな」

「おいおい、ガード固いぞ」

 一同笑った。画してモデルのプライベートは守られた。でも正直こちらも良く知っている訳ではなかった。知っているのは名前と住所と電話番号と、それと……メールアドレス。それでも、こちらの代弁に呼応した。

「秘密です!」

 両腕を真っ直ぐに伸ばし、手を膝の上に乗せ、とびきりの営業スマイルを見せた。

「マネージャー、何処で見つけて来たんだよ」

 そう聞かれたのでコーヒーを飲みながら答えた。

「山ですよ」

 みんな意外そうな顔をしていた。

「山か」

「海じゃないのか」

「山にこんな可愛い子がいるのかよ」

 やや理不尽な回答も混ざっていた。むっとしたのか、モデルが言った。

「皆さん! 山に行きましょう! 山は楽しいですよ!」

 モデルのアピールに、本当に山で見つけて来たことが証明された。

「じゃ、じゃぁ、山に行くか!」

「お、おぉ……」

「ロープウェイ……ある?」

 数名の賛同者が出た。するとモデルはにっこりと笑って言った。

「行きましょう! 厳冬の北アルプス! 白銀の世界へ!」

 その瞬間、数少ない賛同者がゼロになった。おかしくて笑い転げた。

 話は前の撮影会で登場したモデルの良し悪しになっていた。可愛くてもふざける人とか、やる気のない人はダメだよねと話し合った。

「へぇ、そういうのあるんですか」

 今まで見たことのない世界だったからだろうか。感心して聞いていた。

「モデルさん可愛いし、本職になれば?」

「おぉ、なれるなれる」

 冷やかしとも取れる褒め言葉に、一瞬顔が曇った。しかし、そうなったら良いな、という感じと、無理かもな、という思いが感じられる様な口振りで答えた。

「モデルに……なっちゃおうかなぁ」

 ちらっとこちらを見たが、無反応と見るや、椅子から立った。そして右手を頭の後ろ、左手を腰にあて、首を上に向けると、おどけながらポーズを取った。

「うほぅ! パシャパシャ」

「ひゃほひゃほう! カシャカシャ」

「いいねぇ。カシャフィー」

 一人を除いて皆がカメラを向けた。いや、実際にはカメラを持っている振りをして、口でパシャパシャと言っただけだ。

 どうよ? と言いたげにカメラを向けないこちらを見た。

「無理だよ。身長が足りない」

 皆の様子に笑いながらそう言い放つと、「ふんっ」と言いたげに、首を向こうに振ると、右手を腰、左手を頭にしてポーズを取り直し、今度はちょっと腰を振った。

「いいねいいねーパシャパシャ」

「身長なんて関係ないよー、カシャフィーカシャフィー」

 いや、関係あるだろう。モデルで小さい人なんていない。ノリの良い仲間に囲まれて、ご満悦の様である。そのままの姿勢でこちらに顔だけ向けた。

「モデルがダメなら、脱いじゃおうかなー」

「ダメ」

 調子に乗ってそんなことを言うので、大声で釘を刺した。

 カメラマンが一斉にこちらを見た。「ひゃ」とか「うほ」とかそういう叫び声が途中で途切れ、静かになった。全員手に持ったカメラをモデルに向けたままで、シャッターを押すひとさし指が、空中に伸びたままひくひくとけいれんした。

 店内の時計が止まった。

「ダメって言われちゃいました」

 静寂を破って動き始めた時計の針にまず反応したのは、脱ごうとしたモデルだった。ダメと言った瞬間、丸い目がさらに丸くなった様な顔をしていたのに、それが針の様に細くなって、ヘの時というより、半円に近い形となった。口は下あごを突き出してだらしなく開かれたままだった。顔が硬直したまま椅子に座った。

「ちょっと、マネージャー!」

「厳しいな、おい!」

「本人の意思を尊重しろ!」

「そうだ! そうだ!」

 カメラが一台もなくなって、苦情が一斉に吹き出した。シャッターを押すはずだった人差し指がこちらを向いていた。それでも左手を背もたれに掛け、首を横に振りながら、右手も左右に振った。その様子を見て、モデルは残念そうに言った。

「ダメって言われちゃったので……でへへ……引退します……」

 だらしない顔のまま、頭だけヒョコヒョコ動かしていた。

 耳が熱くなって、白いワンピースが眩しく見えたのは、きっと窓から差し込んだ夕日のせいだ。短いモデル生活が終わり、引退記者会見はお開きになった。


 店を出ると誰も着いて来なかった。

 みんな自分の車に乗り込むと、手を振って帰って行った。店長は大量の撮影済みフィルムを回収して、ホクホク顔で帰って行った。

「楽しかった?」

「うん。まるでシンデレラの様だったよ」

 判りやすい観想を述べた。「そう? それも綺麗だよ」と言うと、嬉しそうにくるりと回った。帰りはMiniで送って行くことにした。駐車場を車まで歩く途中、後ろに手を組んで上目遣いに聞いて来た。

「ねぇ、フィルム何本撮ったの?」

 確認する様に聞いて来たので、指を折りながら数えた。それを見ながら頭が上下に揺れていた。数え終わった時はMiniの向こうとこっちにいた。

「十五本かな」

「ええっ! 撮り過ぎ」

 Miniの上から鼻より上が見えていたが、その瞬間だけ顎まで見えた。

「そう? それぐらい撮るよ」

「デジカメにしなよ!」

 いきなり勧められたが理由は判らなかった。それより渡さなければいけない物があったのを思い出した。鞄から封筒を取り出すと、Miniの前を通るか、後ろを通るか迷った。どちらも十分に通るスペースがある。

「これ、渡しとかないとね」

「なに? なに?」

 Miniの後ろをまわって封筒を渡そうとすると、もう一度「なに?」と言った。

「今日の謝礼。二十万円ね」

 そう言うとカラーコーディネートなのか、目まで白くなってそのまま後ろに倒れた。


 白いワンピースが汚れる所だったので急いで抱きかかえた。

「何でそんな大金が?」

「いや、会費で集めただけだから。美容院代は引いてあるよ」

「そうじゃなくて!」

「モデルの相場はそれくらいだから、もらっときな」

 今度は涙目だった。両手で封筒を持つと、しげしげと見ていた。もう倒れそうになかったので運転席側に戻ると、先にMiniに乗り込んだ。

「これで家賃払える……」

 エンジンを掛けようとすると、少し開けておいた窓からしみじみとした感じの呟きが聞こえた。何を言っているんだと思って助手席の方を向くと、封筒を持っていた右手が上の方へ行き、二回ゆれた。そして、今度は右手の肘が顔と同じ高さに上がって水平に動いた。Miniの屋根でよく見えなかった。

「モデルって儲かるね!」

 笑いながら乗って来たので安心した。シートベルトを付けさせると、腰の辺りに赤い染みがあった。

「ミートスパなんか食べるからだよ」

 笑いながらつんつんとつつくと、そこを見た。

「あああっ!」

 喜びから一転。悲痛な叫び声を挙げた。

「クリーニングに出さないと」

 そう言うと封筒を握り締め頷いた。エンジンを掛けてギアを入れた。

「それ、しまっておきなよ」

 車を後退させながら助手席を見ると、まだ封筒を持っていた。頷いたものの、困った様子だった。

「この服、ポケットがないの」

「そうなんだ」

 納得して車を前進させた。夕日が正面から当たって眩しかったので、表情まではよく見えなかった。

 家の近くまで行くと、お疲れの所申し訳ないが起こした。

「家どの辺?」

「そこを右」

 夢から覚めきらない様子で左右を指示した。道はどんどん細くなって行ったが、問題なかった。最後の角を曲がろうとした時、「あっ」と叫んだのでブレーキを踏んだ。今までにない急制動をしてしまったので、大事に持っていた封筒が足元に落ちた。

「ごめんね」

 そう言って拾おうとすると、「大丈夫」と言って自分で拾った。足元はいつかファミレスで見たスニーカーだった。見られて恥ずかしかったのか、足をスカートの下に隠した。

「ここでいい」

 そう言って降りようとしたが、外は雨が降っていた。確かにこの先は車では入れない路地。そこを曲がれと言ってしまったのを気にしているのだろうか。

「傘あるよ」

 結構激しい雷雨。今日は天気予報で雨と言っていたのを知らなかった様だ。傘を差して助手席側にまわると、ドアを開けてあげた。今度は降りたくなさそうだった。

「雷が怖いの?」

 笑顔で聞いた。封筒を両手で胸に当て、足を曲げて小さくなっていたが、首を横に振った。

「お姫様、どうぞこちらへ」

 左手で傘を持ちながらドアを押さえて、右手を差し出した。意を決した様に両手を胸に当てたまま上を見た。何故か泣きそうだった。そして右手の手のひらを下にしてを差し出したので、手のひらを合わせるようにそっと掴んだ。柔らかい手だった。優しく引いた。


 シートベルトに引っ掛かって降りられなかった。


「私、貧乏なんだー」

 笑いながら言った。隠していたことを話してスッキリしたのか、それともやけになったのか、傘にも入らず、路地を回りながら歩いていた。白いワンピースが段々雨に濡れていった。封筒はシートベルトを外すときに持ってあげたままだった。

「風邪ひくよ」

「だいじょーぶ。だいじょーぶ」

「ワンピース濡れるよ」

「どうせクリーニングさー」

 雨が降って涼しいくらいだったので、好きにさせることにした。

 木造の古いアパートの前まで来ると、立ち止まった。

「ここなんだー」

 手を大きく振って指差した扉には、数字が書いてあるだけだった。ポストの隙間から鍵を取り出すと、がちゃがちゃと鍵を開けようとしたが、建て付けが悪いのか、なかなか開かない。傘で雨を避けてあげると、小さく「ありがとう」と言ってカギ開けを続行した。

「ガチャン」という音がして、「開いた」と呟いた。そして振り返ると言った。

「今日はありがとう。とても楽しかった」

「いえいえ。どういたしまして。モデルお疲れ様でした」

 かみ締めるようなお礼の言葉だった。しかし普通に返すしかなかった。

「シンデレラの気分を味わえました」

「ははは。今だって可愛いよ」

 そう言うと、本当に泣いてしまうのではないかと思うぐらいに目が潤んだ。何を言っても泣いてしまいそう。この扉を開けたくなさそうだった。

「撮りますよ。カシャ!」

 傘を差したまま右手で撮るポーズをすると、笑ってくれた。そして、意を決した様に扉を開けた。女性の部屋を覗き見る趣味はなかったが、いきなり扉を全開にされたので、部屋が見えてしまった。

「私、貧乏なんだ」

 もう一度言ったが小さな声だった。確かに貧乏そうだった。三畳で小さなお勝手があるだけの、押入れもない小さな部屋。玄関先には見覚えのある登山靴とサンダルが一つ。家具らしきものはなく、プラスチック製の透明な衣装ケースが二つあった。青いフタの方が夏物、赤いフタの方が冬物だった。

 玄関近くには、最近までそこに四角い物体があったと思われる畳の凹みがあって、今はビニール袋に入れられたマヨネーズとその仲間たちが置かれていた。一番奥には俗に言うテレビ台というものがあった。しかし壁から伸びたアンテナ線があるだけで、そこにテレビはなかった。代わりに真新しいデジカメと、古いくまさんのぬいぐるみが置いてあった。

 布団らしきものは、鴨居に針金ハンガーで吊り下げられた寝袋しか見当たらない。それとボロボロのタオルケットが一つ、リュックに掛けてあった。

「これね、充電したからまた撮れるよ」

 そう言ってスニーカーを脱ぐと、デジカメを取上げてこちらを撮った。ストロボが光って一瞬室内が明るくなった。

「これ買うのに、テレビ売っちゃったんだー」

 何も言えなかった。白いワンピースをヒラヒラさせながら、暫く楽しい貧乏生活について語っていたが、耳が遠くなっていた。目のピントも制御不能になっていた。曇ってよく見えなくなっていた。

「冬はね、テント張れば暖かいんだよー」

 何周目か数えていなかったが、踊りながら玄関先まで来たのを見計らい、手を掴むと抱き寄せた。傘なんて後ろに投げ捨てた。軌道を外れて玄関へ引き寄せられたので、白いワンピースのスカートがもう一周しようとして途中で止まると、ゆっくりと玄関に引き寄せられた。そして足元に来て完全に止まった。髪は美容院の香りがした。

 何て言ったら良いか。判らない。

「家へおいでよ」

 小さな声で言った。腕の中で首を左右に振った。そのままおでこを胸に強く押し付けると、息をするスペースを見つけた様だった。

「大丈夫。まだ頑張れる」

 自分自身に言い聞かせる様に言うと顔を上げた。顔を見られたくなかったので、右手で頭を抱えると強く抱きしめた。

「家へおいでよ」

 もう一度言ったが、抱き寄せた胸の中で首を横に振った。

「大丈夫。何とかなる」

 小さい声だった。ゆっくりと頭を撫でながら言葉を捜したが、見つからなかった。左手に持っていた封筒がぐしゃぐしゃになった。

「家へおいでよ。何とかするよ」

 そう言うと胸の中で泣き出した。そして小さく頷いた。


 帰りの車と言って良いのか、とにかく車の中では無口だった。大事な封筒を握りつぶしてしまったので、「ごめん」とだけ言った。くまさんとタオルケットを大事そうに抱いていた。

 家に着くと、周りをキョロキョロしていて落ち着きがなかった。それはそうだろう。押入れからこたつ布団を出して本棚の前に置いた。「とりあえず、これでいいかな」と聞くと、だまって頷き、くまさんを抱いたまま膝を曲げて、本棚の方を向いてピョンと飛び乗った。こたつ布団がパフッという音を立てて凹んだ。そしてそのまま左にコロンと転がって横になった。それを見てタンスの方を向くと、「あったかーい」と小さく聞こえた。

 Tシャツとトレパンを出して、それで頭をツンツンと突っつくと振り向いた。黙って風呂場の方を指差すと頷いた。そしてむっくりと起き上がり、くまさんを抱いたまま行こうとしたので、首を横に振ってこたつ布団を指差すとそこに置いた。代わりにTシャツとトレパンを持って風呂場に消えた。こたつ布団が少し湿っていた。

 風呂から上がってくると、部屋を遠巻きに眺めながら、またこたつ布団に戻った。本棚に並ぶ本を眺めていたが、趣味が合わなかったのか一冊も手に取らなかった。

 夕飯時になっていたが、いつも外食だったので台所にはカップ麺しかなかった。お湯を沸かしている間も、くまさんと膝を抱いて本棚に寄りかかったまま、こたつ布団から動かなかった。「カップ麺しかなかった」と言うと、背中をこちらに向けたまま頷いた。二十円高価な大きい方を食べてもらうことにした。

 家に帰ってきてから、まだ一時間しか経っていない。しかし、とても長く感じた。お湯が沸くまで何度もコンロの火と時計を見た。この水は永久にお湯にならないのではと思った。

 お湯が沸いて二つのカップ麺にお湯を投入しても、茹で上がる時間がとても長く感じた。

 慰めという言葉は相応しくないと思った。しかしそれでも何も声を掛けることが出来ない。「出来たよ。食べよう」と事実を伝えるのがやっとだった。

 それでも首を回して横目にこちらを見ると頷いて応えてくれた。くまさんを持ったまま来た。四人掛けのテーブルに向き合って座ると、隣の椅子を少し引いて、そこにくまさんを置いた。無表情の所にカップ麺を差し出すと下を向いた。何かしゃべってくれないかなと思った。何でもいいから。下を向いたまま数秒が過ぎただろうか。

「箸」

 慌てて割り箸を探していると、後ろから「フフッ」という笑い声が聞こえて来た。力がどっと抜けて安堵した。箸を探し当てて振り返ると、カップ麺の蓋が完全に外されていて、そして入れ替わっていた。

「こっち食べなよ」

「小さい方でいい」

「こっちの方が美味しいんだよ?」

 確証はなかったが笑顔で勧めた。それでも小さい方のカップ麺を、両手で包み込んで離そうとしない。仕方ないので箸を渡すと、小さく頷いて受け取った。両手を合わせて親指に割り箸を挟んだまま「いただきます」と言うと、パチンと割り箸を割った。それを見てこちらも「いただきます」と言うとパチンと割った。

 カップ麺を啜る音だけが台所に響いた。

「こんな物しかなくてごめんね」

 そう言うと、黙って首を横に二回振った。

「明日買出しに行こうね」

 首を縦に一回振った。

「何か食べたい物ある?」

 首を横に二回振った。

「嫌いな食べ物ある?」

 首を横に三回振った。

「美味しい?」

 首を横に一回振った後、縦に一回振った。

「美味しくないんだ」

 申し訳ない気持ちを込めて言うと、ラーメンをくわえたまま顔を上げ、口をもぐもぐさせながら言った。

「にょびてる」

 そうか。伸びていたか。それは済まなかった。カップ麺に書かれた調理時間を確認すると、小さい方は三分で、大きいほうは五分だった。二人で確認し合って笑った。それでも全部食べて、二つの空の容器と、その上に掛けられた割り箸が残った。

 きちんと手を合わせると、「ごちそうさまでした」と言いながらゆっくりと頭を下げた。こちらもつられて同じ様に頭を下げた。顔を上げると、まだ礼をしている最中だった。黒髪が背中から前のほうにサラサラと流れていた。

 顔を上げると影が消えていた。

「そっちにすれば良かった」

 大きな容器を指差して言った。山で見た笑顔になっていた。

「もう一つあるよ?」

 ちょっと意地悪っぽく言うと「結構です」と言って立ち上がると、二つの容器を流しに持って行った。

 それからくまさんを取りに戻ってくると、背中を向けてこたつ布団へ小走りに戻ろうとした。しかし二、三歩行った所で立ち止まり、両手でくまさんを抱いたまま、再び不安そうな顔をして振り返った。

「何? どうした?」

 そう聞くと、右足をプラプラさせ、恥ずかしそうに言った。

「……私、いびき、かくかもしれない……」

 笑いを堪えるのに必死だった。さっき食べたラーメンが、鼻から全部出てきてしまうかと思うくらい腹がよじれた。ここで耳がピクピク動いているのを悟られないよう、極めて冷静を装い返事をした。

「あっそう」

 その返事を聞いて再び笑顔になると、左手でくまさんの首ねっこを掴んで走った。そして「ヒャッホー」と叫びながら、大の字になってこたつ布団に飛び込んだ。くまさんの顔が床に当たって「バフッ」という音がした。そしてこたつ布団の上に座ると、首にタオルケットを巻き、くまさんを枕にしてこたつ布団に潜り込んだ。

 ちょっと悲しい目をしたくまさんがこちらを向いた。それ、枕なんだと思った。

「おやすみっ」

 枕なのか確認する間もなく見えなくなった。

 夏仕様のリビングに、小さな丸いこたつがあった。電気を消して自分のベットに入ると、やがて隣のこたつから大きな音が聞こえて来た。涙が止まらなかった。

 女の子を泣かしてホッとした晩夏の夜だった。


 翌日からちょっと不思議な生活が始まった。とりあえずカメラ店に電話をすると、まだ現像出来ていないとの話だったので、ゆっくりどうぞと伝えた。Miniとザイルを持って再び古いアパートに行き、荷物をMiniの屋根に積んだ。

 ザイルをかけて、さぁ出発という時に、自分の服に着替えて出て来た。そして記念だと言ってデジカメを構えたが「下着が丸見え」と言って荷物を積み直した。これが女性だと思った最後だった。

 スーパーで、ピンク色の地にくまさんがプリントされた寝巻きを買ってあげると、異様に喜んだ。そして食事を済ませて家に帰ると、バリバリとビニールを破り、値札が付いたままリビングの真ん中で着替え始めた。着替え終わって、こちらが向こうを見ているのに気が付くと、こちらを見るように要求した。

 着替え終わったかと思って振り返ると、そこには腕をバタバタさせながら、ソファーの上を跳ね回る女の子がいた。押入れに荷物が入って、行き場を失ったこたつ布団へ向かって飛ぶと、「バン」と大きな音がした。

 一応軽くげんこつをすると、舌を出して反省した。寝巻きを着たままそっと値札を外してあげると、「おやすみなさい」と言って寝てしまった。時計を見ると二十時だった。

 翌日、見たいテレビがあると言うので、ビデオの録画方法を教えてあげた。一から八まである番号の内、一から四までを好きにして良いと言うと喜んだ。しかし何を録画したのかは判らない。夜ネクタイを外していると、隣の部屋で「ヒュー」と叫ぶ声が聞こえた。何ごとかとそっと覗いて見た。そこにはアニメの主人公と一緒に踊る女の子がいた。笑い声が聞こえないように、そっと閉めた。

 次の休みにポーチを買ってあげると、寝巻きの比ではないくらいに喜んだ。スーパーのレジでお金を払うと、お釣りを貰う前に籠から取り出し、フルパワーをもってその場で開封した。こちらにビニールを投げ、そして肩にかけてデレっと笑った。次の瞬間その顔のまま走り出した。お釣りを貰ってあわてて追いかけた。駐車場で走るんじゃないと言って軽くげんこつをすると、「はい!」と元気良く答えてMiniまで走り始めた。

 その次の休みは難儀した。割り箸百膳とか、ストロー二百本とかが詰め込まれたカートで絵本売り場を通ろうとすると、五歳くらいの男の子が絵本をねだっていた。母親らしき人が本棚に返すよう言うと、しぶしぶ戻した。聞き分けの良い子だと思った。

 ところが、それを見ていた家の女の子が、元に戻された絵本を取り出すと「買って」とねだった。いや、それ、猿蟹合戦ですよ? 隣にあるシンデレラとか青い鳥とか、せめて女の子っぽい物を……「欲しい欲しい」と手足をバタバタさせ、このままだと床に転がる勢いだった。仕方なく絵本を籠に入れるように言うと、「やったー」と言って喜んだ。

 ポカーンとしている母親を無視し、泣きそうな男の子へ対抗意識むき出しの目を向けた。そして顎をツンと上に向け、にやっと笑って通り過ぎた。レジを通してから、ちょっと強めのげんこつをすると泣いた。アイスを買うと泣き止んだ。女って怖いと思った。

 家に帰ると本棚の一番下にある雑誌のバックナンバーを捨てることにした。後ろで猿蟹合戦の本を大事そうに抱えながらそれを不思議そうに見ていた。五十センチほどのスペースを作ると、ここに自分の本を置くように言った。すると大きく頷いて絵本が入った紙袋のセロテープをそっと剥がすと絵本を出し、二つ折りにした紙袋と、猿蟹合戦と、くまさんを置いた。そして風呂場へ走りながら「後で読んでね」と言った。その場でこけてしまったが、「うん」と言うと笑いながら風呂場へ消えた。

 風呂から上がってくると、テレビとソファーの間に立ち、櫛を差し出した。それを受け取ると背中を向けて座り、チャンネルを教育テレビに替えて笑った。髪の毛に櫛を入れてやると喜んだ。そしてテレビを消すと、本棚の前にあるこたつ布団へパフッと飛び乗った。向きを変え足を開いて座ると、自分の左側をパンパンと叩いて来るように言った。

 櫛をテーブルに置いて隣に座ると、今日買った猿蟹合戦を渡された。平仮名しか書かれていない絵本を読んであげた。それがどれほど面白い物だったのか。知る良しもない。しかしその時は、登場人物? の真似? をして読み、法的解釈を織り交ぜて読み聞かせた。

 最後まで読むと「もっかい」と言って人差し指を顔の前に差し出し、女の子の特権である潤んだ瞳を見せた。仕方なくもう一回読んで聞かせると、また「もっかい」と、今度は女の子の特権である屈託のない笑顔を見せた。

 時計を見ると二十時だったので、「もう寝る時間」と言うと、意外にも「はーい」と言った。首にタオルケットを巻き、新しい枕を抱えて寝た。頭の下じゃないんだ?

 まぁいいやと思った初秋の夜だった。


 近くのレストランで働いたお金を全部出した。四万五千三百二十円あった。この一ヶ月よく頑張った。新しい仕事先も飲食関係にこだわっていた。「お昼がタダで食べられるから」そう言って笑っていた。絵本を読んであげてからだいぶ落ち着いて、あとは、そう、

「何で?」 と、「それって何?」 の連打攻撃があったくらいか。宇宙のビックバン理論について、数式をノートに書いてあげると、「ふーん。寝る」と言って寝た。二十三時の勝利宣言だった。

 気象通報を聞いてみると、しばらく天気が良さそうだったので紅葉を見に出かけた。このときは相談をしてテントを一つにし、膝の上にリュックを乗せることはなかった。大きい車にすれば良かったのだろうが、山道は小さい車の方が良いこともある。それに二人ともこの車を気に入っていた。

 少し冷たい山の空気。寒いので夜の撮影はテントの中で行った。入り口を縦に貫くチャックを開け、そこから首だけ出していた。下半身は寒いので寝袋の中である。

 見上げることが出来れば一面の星空である。しかし、頭の上にはもう一つ頭があった。頭だけ重なっているということはなくて、上には同じ格好をした蓑虫状の人が乗っかっていた。遠慮なく頭の上に顎を突き立てたまま喋り始めた。

「星がすごい」

「いででで」

「あれ何て星?」

「いででで」

 感動の様子だが、喋るとこちらの頭が痛い。そう言うと、もぞもぞとテントの中に戻り、緩衝材としてさっき脱いだ靴下を頭と顎の間に挟んで話し始めた。

「その紐なーに」

 空を見上げるカメラから伸びるレリーズのことか。

「レリーズと言って、シャッターの延長コードです」

「へぇ、じゃぁテントの中まで引っ張れば?」

「チッチッチ。流れ星が写り込んだらカッコイイでしょ。だから見張っているのさ」

「おお、流れ星、見たいなぁ」

「よく見ていてね。こっちからは見えないので。グエェ」

「了解です。隊長!」

 降りてくれるのが一番良いのだが、それは却下になりそうだった。すると頭上で激しい振動がした。

「隊長! 流れ星です!」

 上で暴れるのでレリーズを押せない。

「すごい! 赤く光っています!」

 何かおかしいと思って無理に見上げると、飛行機だった。流れ星がそんなに長い間見えていたら、全ての願いが叶ってしまう。

「見張り係り君。君はまだ甘い。あれは飛行機という物だ」

 お祈りをしている所申し訳ないが、苦言を呈した。そして写り込まない様にシャッターを閉じた。

「え? 流れ星じゃないの?」

「違う。あれは飛行機だよ。赤く光っているのは翼のライト。この時間だと、JAL1285便、羽田発小松行き最終便で、機体はボーイング767のダッシュ300かな。機長は山田さん、副操縦士は田中さん。アシスタントパーサーは佐藤さん。エンジンは、うーん。この音はロールスかな」

 さらっと言ってみた。一瞬おとなしくなってホッとした。

「ひ、飛行機オタクだっ!」

「グェッグェッ違います。違います」

「じゃぁ関係者か!」

「グェッー違います。適当に言いました」

「……嘘は嫌い」

 急にまたおとなしくなって言うので、「ごめんなさい」と言った。するとまた元の口調というか、今度は問い詰めるように言った。

「で、何処までが本当だったのかね?」

 渋い刑事役か。これは敵わん。

「ダッシュ300までです」

 刑事の見えないプレッシャーに負けて素直に答えた。

「オタク! ひ、飛行機オタクだっ!」

「違います! 誰でも知ってます!」

「えー、山田さーん! 気をつけてねー」

 反論すると、空を見て手を振った。

「いや、あの、山田さんって誰?」

「山田さんなら一人ぐらい乗ってそうだから手振ってみた。これで嘘じゃぁない」

 嘘は良くないと思った中秋の夜だった。


 山から帰ってきて荷物を解体していると、玄関脇の扉を見つめていた。

「ここ何?」

 そう言えばまだ見せていなかった。リュックからカメラを取り出すと、扉の暗証番号を押した。「ピピッ」と音がして扉が開いた。

「すごーい」

 小さい部屋だが、中にはカメラとフィルムの棚がびっしりとあった。奥には三脚が三、四本立て掛けてあり、今は余り使わなくなったプリント用の机があった。写真部屋という奴だ。窓もない暗い部屋で、エアコンだけは常時回っていた。

「すごーい、すごーい」

 中に入るとカメラの棚を開けてニコンをしまった。

「高そうなカメラが一杯ある」

 珍しそうに見ていた。古いニコンもあった。まぁ、こうなるとコレクションみたいなものだ。

「これ、売ったら怒る?」

「売ったら殺す」

 ニコンを指差して言うのでそう答えると、まだ殺していないのに、殺されるという恐怖に包まれた目をした。売れば車の一台くらい余裕で買えるだろう。それにしても思わずまずいことを言ってしまった。すると棚の下の方に比較的小さいカメラを発見して取り出した。

「これなら安そう!」

「それ五十万」

「ひっ!」

「ひえっ」

 危うしライカ。やはり大きくないと高額とは認識されない様だ。棚を少しずらして一段空けると、大事なものを持ってくる様に言った。持って来たのはデジカメと、写真たてと、日記だった。それを受け取って棚にしまおうとすると言われた。

「日記を読んだら殺す」

 二人でにやっと笑って、手を拳銃の様にして撃ち合った。幾ら撃っても血は出ないし、どちらも死ななかった。

 扉を閉める時、暗証番号を変えることにした。

「何番がいい?」

 そう聞くと、とても困った顔をした。

「何番でもいいよ。誕生日とか」

 さっきよりも困った顔をした。

「体重でも」というと笑いながらパンチが飛んで来た。そして答えた。

「〇四〇一」

「よんひゃくいちキロ。ポチっとな」

 新しい暗証番号を受け付ける「ピピッ」と「いてっ」という音が同時に鳴り響いた。

「誕生日四月一日なの?」

 おしりを擦りながらそう聞くと「うん」と小さく答えた。「いいじゃん」と言うと、ちょっとホッとした顔になった。

 それよりも、ハートの台紙で飾られた古い写真。そこで笑う親子三人について聞いてみたかった。


 街のイチョウが色付く頃、テーブルでぐしゃぐしゃになった封筒を見つめていた。家賃を払って少しだけ減った撮影会の謝礼は、あの日のまま大事にしまってあった。

「このお金どうしよう」

「どうしようかと言われても、ねぇ。自分で稼いだお金だし」

「使うのもったいない。これはね、私が一番輝いていた時のお金なんだよ。もう二度と来ないんだよ」

「そんなに言わなくても。難ならもう一度、皆に声掛けようか?」

「いえ、結構です。でもこれは使うのもったいない」

 封筒を取上げて顔にくっつけた。

「気持ちは判るけど、何か自分のために使ったら?」

「自分のためかぁ」

「そうそう。自分のため」

「自分に何が出来るのかな」

「何か探してごらんよ」

「うーん」

 パタパタと頭を叩きながら考え中。

「何かやりたいことってないの?」

「うーん。登山」

「どっか行きたいとこってないの?」

「うーん。山」

「うーん……」

 どうも名案が浮かんでこない。そんなに山が好きなの? 人のこと言えないかもしれないけどさ。すると指をパチンと鳴らして言った。

「そうだ、免許を取ろう!」

 意外な返事が返って来た。持っていなかったことには触れなかった。

「それは良い考えだ。ナイスアイディーアだ」

「賛成? 賛成?」

「うん」

「じゃぁ、免許取ったら、Mini運転しても良い?」

「えっ、う、うん」

「やったー、よし、免許取るぞ!」

 こうして、翌日教習所の申し込み用紙を貰って来たのだが、住所変更をしていないことに気がついた。先に市役所に行く必要があった。

 イチョウの木で飾られた街は、時折吹く風で黄色い花吹雪が舞っていた。駐車場からイチョウ並木の下を歩いていると、手を繋いで来た。ラララーと何か歌いながら大きく手を振ると、スキップをしながら子供の様に右へ左へ歩いた。

「ほら、ちゃんと歩きなさい」

 そう言うと、判ってますよと言いたげな、ちょっと反抗的な目になった。

「もう! お父さんみたい」

 笑いながらそう言うので、言い返した。

「ひどいなぁ、まだ独身で子供もいないのに」

 すると、ハッとした顔になり、手を振り解くとイチョウ並木を駆けて行ってしまった。何か悪いこと言った? 年だってそんなに違わないのに。走って行くのを見ながら思った。それでも、市役所の入り口まで行くと待っていてくれて、今度は腕を組んで来た。

 遅れませながら市役所に住所変更の手続きをした。窓口の人には怒られたが、一人はにやにやしているだけだった。

 引越しをしたあの日のことは、今まで二人ともあまり口にしなかった。撮影会の写真が出来た時だけ二人で笑った。ボツになった必死の形相をわざと大きくプリントすると、速攻没収されて写真部屋に格納された。そして十五本のフィルムも全て没収されて、写真部屋に格納された。それで専用棚は満杯になった。

 そんなこともあったねぇと言い合いながら、待合室の椅子に座っていた。ちょっとトイレと言って席を外し、缶コーヒーを買って帰ってくると、何かをポーチにしまっている所だった。「何?」と聞くと、ひどくビックリしてこちらを見ると、「缶コーヒーズルイ」と言った。そして、買ってくると言って自販機の前に走って行った。

 そんなにズルイかなと思った。コーヒーを一気飲みしてゴミ箱に捨てに行くと、カウンターに観光パンフレットと各種書類が積んであって、「ご自由にどうぞ」と書いてあった。一枚拝借してポケットに入れた。別にキョロキョロする必要はなかった。

 帰りにガソリンスタンドに立ち寄った。エンジンを止めると、キーフォルダーから給油口のキーを外した。

「はい。これ、給油口のキー」

「はい?」

「いいかい。Miniはね、エンジンを始動するキーと、給油口のキーが違うんだ。免許を取ってMiniを運転したいと言うのなら、鍵を一つ預けようじゃないか」

「おぉっ!」

「この鍵がないとMiniは走り続けられないんだ。運転手と助手のチームワークが大切なんだよ」

 うんうんと大きく頷いた。

「免許が取れたら、このキーをエンジンキーと交換しようじゃないか。どうだい?」

 目を輝かせながら更に大きく頷いた。

「じゃぁ、そこで給油をしてきてくれたまえ。はい、これカード」

「了解しました!」

 可愛く敬礼して勢い良く飛び出していった。そして、給油口で「開いた!」と言い、ガソリンを入れ始めた。サイドミラーで見ていると、メーターを面白そうに見ていたかと思うと、何やらパネルを操作してカードを通した。にやっと笑った。

 暫くするとアイスを舐めながら帰って来た。「ズルイじゃん」と言うと、澄ました顔で「手数料よ」と言った。一本取られた。

 家に帰ってくると、一人だけ旅行の準備を始めた。二週間みっちり合宿で免許取得の猛勉強? をすることにしたからだ。旅行鞄を出してあげると部屋の中をひとしきりガラガラとやった後、荷物を入れた後は乗って遊んでいた。

 合宿開始の日は、荷物を膝の上に乗せた状態で合宿所まで送り、ドアを開けて荷物を出してあげた。

「それじゃがんばってね」

「うん。がんばる。免許取れたらMini運転させてね。約束だよ? 絶対だよ?」

「嘘はつかないよ」

「えへへ。やったー」

「じゃぁ、遅れるから、いってらっしゃい」

「いってきまーす」

 元気に走り出したと思ったら止まった。今度は何? 忘れ物?

「いってきますなんて言ったの、何年振りだろう! いってきまーす」

 一度振り返るとそう言って、また走って行ってしまった。やばい……ハンカチを忘れて来た。

 それからの二週間は、つい数ヶ月前までと同じだった。休みの日は、リビングでコーヒーを飲みながら不動産広告を見ていた。街はイチョウの葉もだいぶ落ちて、師走の足音が迫っていたが、この部屋はとても静かだった。

 不意に斜めに照らす夕日が、何かに反射して目に射し込んだ。目をこらして本棚の方を見た。光の主はくまさんの目だった。

 本棚の一番下にあるスペースは、それから一冊も増えることはなく、猿蟹合戦もあれから一度も開かれることはなかった。それからずっと隣に置かれたくまさんが支えていた。

「お前には負けないぜ」

 そう呟くと睨み返した。くまさんの口元が笑ったような気がした晩秋の午後だった。


 元気良く「ただいま!」と帰って来たのを、笑顔で迎えることが出来た。もう免許を取った喜びでそれはもう大変だった。初ドライブを何処にするかとか、そんなことを言っていた。でも待ちきれなくて駐車場でMiniを運転することになった。

「はい。これ」

 左手で差し出されたのはハートのキーホルダーがついた給油口のキーだった。右手も真っ直ぐに伸ばし、手のひらを上にしてパタパタとさせていた。

「なにこれ、恥ずかしいじゃん」

「いいからいいから。エンジンキーと交換!」

 そう返された。しぶしぶエンジンキーを渡すと、振り回しながらMiniのもとへ走って行った。

「運転手の言うことは聞くものだよ」

 ドアを開けながらそう言った。それっきりMiniを運転することはなかった。

「初ドライブは駐車場だね」

「公道じゃないもーん」

 覚えたての知識をひけらかされた。こちらが「ちっ」という顔をすると、子憎たらしい顔をして頭を前後に揺らしながら「ヒヒヒ」と笑った。一回りして車庫入れをすると、少し斜めだったにも関わらず得意げなポーズを取った。

「私は! これで! 変わるのよぉ!」

 夕日に向かって、免許をかざして叫んだ。「恥ずかしいから止しなさい」となだめながら駐車場を後にした。よっぽど嬉しかったのだろう。自分が免許を取った時のことを思い出した。


 暖かい日差しに包まれた師走の土曜日。遅く起きて撮り溜めしているビデオを再生していた。休みの日は何をするか。それは休む。これが休みというものだ。

 もう一人は新聞を読みながら折り込みチラシを眺めるので、テーブルとソファーを隠す程だった。きっとバーゲン品を物色しているのだろう。バーゲンとまとめ買い、好きだよね。

「お出かけするなら、二十三日と二十五日のどっちが良い?」

「二十三日」

 間髪入れずそう答えると、不満そうな返事が返って来た。

「なんで、に・じゅぅ・さ・ん・に・ち・なのよ!」

「じゃぁ二十六日」

「なんでよー。じゃぁ二十五日」

「二十五日は土曜日でしょう」

「曜日は関係ないんだよ!」

「えー、関係あるよ。所で何故に日付が?」

「予約をとるんだよ」

「予約か。大変だね」

 他人事の様に言うと、チラシを丸めてパンパン叩きながら言い始めた。

「この時期予約しないとどこにも行けないよ? 知らないの?」

 知ったこっちゃない。

「予約なんてしたことないよ。あ、ビデオの予約はするけど」

「そんなの予約に入らないよ。予約の電話」

「それはないね」

「え? 本当に? 予約しないの?」

「うん。面倒じゃん。それに一度予約して、キャンセルしたら悪いじゃん」

「えー、信じられない。全然予約しないの? 旅行とかは?」

「山は予約要らないし。一部を除いて」

「ええっ、それだけの理由で山に行くの?」

「それだけじゃないけどさ。でも予約をして旅行をしたことはないよ」

「予約販売とかは?」

「ないよ」

「予約申し込みとかは?」

「ないない」

「えー、予約大事だよ!」

 正座をしたままソファーの上でピョンピョンと跳ねた。足元にはらりと一枚の広告が落ちて来た。白いドレスを着た人が写る広告を横目で見て「これは予約しないとダメだよな」と思った。話の構成上泣かれる恐れがあるので、他の広告を上に乗せた。

 正面を見ると「しょうがないなぁ。もう」と言いながら何かの広告を見て電話を掛け始めた。「何の予約?」と聞くと、「秘密」と大きな声で言い、写真部屋に篭ってしまった。ケチ。

 二十五日。ご機嫌な人と、恐怖におののく人がいた。Miniで会話をするのは結構大変だ。大きなエンジン音は、時折人の忠告というものを聞こえなくする。

 冬山の買出しも兼ねて、近所のショッピングセンターに行こうと言っていたのに、到着したのは何故か都会の映画館だった。

「カーナビがないから、間違えちゃった」

「間違えて高速に乗るかっ! それにこの映画近所でもやってるし!」

 はめられた。絶対騙されている。仕方なく映画館に入った。

 映画は煮え切らない男が、女に良い様にあしらわれている内容で、大声で喧嘩したり抱き合って喜んだり、まぁ俗に言う純愛映画というものだった。

 映画館を出ると喫茶店にでも行こうと思って街を歩いた。その間、隣から映画の解説が流れていた。こちらは「うんうん」と頷きながら一ヵ所凄かったカメラアングルについて考察していた。

 主人公が運転する車が衝突する直前で止まり、そのままアングルがクルッと回って反対側に移ると、そこで再びカメラが回りだして衝突した。どうやって撮ったのか判らなかった。CGでもなかった。もしかしてカメラを円形に配置して同時に撮影し、コマを繋げたのかもしれない。そう結論付けた時、テーブルを挟んで反対側にいる人が口をパクパクさせたまま泣きそうになっているのに気が付いた。

「あのカメラアングルが気になってね」

 そう言うと、椅子から落ちそうになっていた。

 映画を観た後は余韻に浸る。何かを口にすると、興奮がそこから飛んで行ってしまう様な気がする。しかし、それは人によるだろう。

 何かを言いたそうだったが、ただ口をパクパクさせている。そっと手を伸ばして口を掴んだ。柔らかい唇だった。目が白黒していたが、倒れようはない。バタバタしていた両手もスイッチが切れた様に途中で止まった。

「いいかい。何処にも行かないから、ね。ずっと一緒にいるんだから、喋ることがなくなったら、黙っていてもいいんだよ」

 そう言い聞かせると、目が上下に動いて鼻が少しひくひくっと動いて、耳が赤くなって来た。目が潤んで来たので泣かしてしまったかなぁと思いつつ、ゆっくりと手を離した。すると口をパクパクするのは止まった。やれやれ。

 予想だにしない展開に驚いたのか、息が荒くなっていた。それを静める様に大きく深呼吸すると、静かに話し出した。しかしそれは映画の内容ではなく、自分の生い立ちについてだった。

 喫茶店を出てもまだ喋り続けていた。外はもう薄暗くなっていて、この時期特有のイルミネーションが街を飾っていた。俗に言うクリスマスという奴だ。

「クリスマスケーキ食べないの?」

「食べないね」

「何で?」

「何でと言われても」

「クリスマスパーティーやらないの?」

「やらないね」

「何で? 貧乏だから? 仏教徒だから? 施設でもやってたよ? クリスマスパーティー楽しいよ?」

 そう矢継ぎ早に聞かれても困る。家ではクリスマスパーティーはおろか、クリスマスケーキなんて物は出てこない。

「サンタは来ないの?」

「サンタは来たよ。二十七日とか」

「何で二十七日なの?」

「何でと言われても」

「何もらったの?」

「正月に着る洋服とか、下着や靴下かな」

「靴下に靴下入ってるんだ」

「まぁそうだね。親父の布団袋にはビール一ケースとかあったね」

 大笑いしていた。家に来たサンタは、そんなに無茶苦茶なのか。タダでくれたんだから感謝しないと。

「クリスマスパーティーはやらないけど、サンタは来るんだ。しかも遅れて」

「良い子だからね。それに誕生日が二十六日なのさ」

「えっ」

 得意げに言うと、急に足を止めてこちらを見た。何? と思ってこちらも止まった。別に誕生日なんて何時でも良いだろう。大晦日や正月に産まれる人だっているんだし。首を上下に振りながらその事実をかみ締めていた。

「そうなんだ」

 氷が溶けるようにゆっくりと語った。全ての謎が解けた様な、それでいて何かホッとしたような感じさえあった。歩き出しながら大笑いしていた。周りの人が振り向いて恥ずかしいので、デパートの中に引き擦り込んだ。

 デパートの一階には、期日を過ぎたサンタ役の人が沢山いた。まだ笑っているので、適当な売り場の前で止まった。

「これ欲しいの? 買ってあげようか」

「いらないよ」

 人を哀れむような目で笑いながら言うので断った。そこは万年筆売り場だった。会社で万年筆を使う機会もあるまい。要らないと言っているのに一本取ると、キャップを取った。

「ボールペンじゃないんだ」

「いや、万年筆ですから」

「かっこいいじゃん」

 ライトにかざすと、キラリと光った。

「こういうのはね、条約とか特別な書類にサインをする時に使うんだよ」

「あ、それ、知ってる! テレビで見たことある」

 自分でも一本取った。もちろん、買うつもりはない。

「赤いのが良いね」

「赤好きだよねー」

「情熱の赤と言ってね。内なる心に熱いものを持っているんだよ」

 顔の前で振って見せた。すると対抗する為か、手に取った万年筆を棚に戻し、キョロキョロすると青い万年筆を選んだ。

「へぇー。私は青いのがいいな。青は海の色。全てを包み込む優しさの色なんだよ?」

 そう言って顔の前で横に振った。キラキラ光って、本当に高そうだ。

「ほほー。さよですか。さよですか」

「赤いやつ、お誕生日プレゼントに買ってあげようか」

「いいよ、もったいない」

「うわ、高いんだ」

「結構するでしょ。それに誕生日にプレゼントとか貰ったことないし」

「サンタと兼用なんだ!」

 そう言って、また人を哀れむかの様な目で見て大笑いし始めた。手を引いて売り場を後にした。


 結局、初めてクリスマスケーキを買わされてささやかなパーティーをした。

「ロウソク何本かな。とりあえず二千本は固い」

「いや、そんなに立てられないよ」

「じゃぁ、太いのを二本にしておこう」

「そうしよう」

「ハッピバースディ、ディアサンタさん。でいいのかな?」

「お誕生日の歌、歌うんだ。サンタさんじゃなくてキリストさんでは」

「そうか。詳しいね」

 二人でお誕生日の歌をキリストさんに歌ってあげた。ゆらゆらとロウソクの炎が揺れていた。オレンジ色の光が部屋を包んだ。今日喫茶店で見た目になっていて、ロウソクの炎がキラキラと輝いていた。

 歌い終わって聞いた。

「ロウソクは誰が消すんだ?」

「早い者勝ち!」

 ふっと消されて真っ暗になった。今まで聞いたことのない明るい笑い声が響いた。電気を点けるのが惜しくなるくらい。スイッチを探り当てて点灯すると、やはり笑い声はトーンダウンして、口の周りについたヨダレを拭く人がいた。

 席に戻ると、ヒーヒーと笑いを堪えるようにしていたが、目が合うと急に真顔になった。

「私もクリスマスを祝うの、今年で最後にしようかな」

 嬉しかった。「ありがとう」と言った。その夜は、くまさんを壁に向けて寝た。


 目が覚めたとき開口一番言われた。

「お誕生日おめでとう」

 肩を寄せてお礼を言った。

「ありがとう。今度は君の誕生日をお祝いしてあげるよ」

「私のはいいの。女の誕生日はね、そんなにお祝いするものじゃないのよ?」

「そうなんだ。じゃぁ盛大にお祝いしてあげるよ」

「聞いてないの? もう」

「聞こえてる」

「聞きなさい。理解しなさい。あーあーもしもーし」

「毎年欠かさず盛大にお祝いしてあげるよ!」

 笑いながら部屋を転がりまわった。永遠の十八歳と、うん十ヶ月とか、そういう数え方をしなくても、一緒に年を取って行けると思った。


 その後、冬山用の買い物をした。カーナビがないからと言って、また高速に乗ると都会へ向かった。昨日の様子が一変して、街がもう正月飾りになっているのはいつものことだ。サンタは何処にもいない。大きなスポーツ用品店に車を入れた。

「食料買った」

「うん」

「ヘルメット」

「家にある」

「アイゼン・ピッケル」

「あるある」

 あとはザイルを買うだけだ。ザイル売り場に行くと、どれにしようか相談した。いや、相談する程のことではない。紐だし。

「それじゃぁ、これにしよう」

「ねえ、ちょっとまって、こっちが良くない? ほら、こっちの方が赤入ってるよ?」

 指差したザイルは、二本の白いロープと、一本の赤いロープが三つ織りになっているものだった。

「それはちょっと太いよ。太いと重いよ? それに赤が良いなら、全部真っ赤なやつもあるよ?」

「うーん。その赤は暗く淀んだ色でしょ。ドス黒い赤。そんな赤じゃなくて、こっちの方が色鮮やかだよ」

 何がそんなに違うんだか判らなかったが、とりあえずその赤いロープ入りのザイルを買うことにした。必要な長さに巻き取ると結構な重さだ。輪になった状態で肩にポンと乗せてあげた。

「ほらね、結構重いでしょ」

「いいのよ。これはね、運命の赤い糸が入ったザイルなのよ」

 そう言うと輪になったザイルを人の首に掛け、端を引っ張った。

「グエッグエッ。鵜ではありません」

 笑っていた。こんなに太い糸はないだろうと思いながら鳴いた。

「じゃ、会計に行きましょうね」

 そのまま歩き出した。鵜はカートを押しながらレジの所まで連れて行かれて、そこで開放された。

「ちょっと寄る所あるから、行ってくるね」

「どうぞどうぞ」

「荷物は持って帰ってあげる」

「はいはいよろしく。え?」

「じゃぁ、電車で帰ってね」

「え? え? どこ行くの?」

「ひみつー バイバーイ」

 一人ポツンと駐車場に取り残された。ハートのキーホルダーが着いた給油口キーは持って行かなかった。それより、また秘密か。そう思いながら駅へ向かった。


 昨日座っていた喫茶店の椅子には、別のカップルが座っていて、チューなんてしてる。これが噂のバカップルか。こちらが恥ずかしくなって目を逸らした。

 昨日通り抜けたデパートも人が一杯で、中は買い物客でごった返していた。こちらも秘密を作ることにした。

 日も暮れた頃やっと帰ってきて安心した。それでもまぁ、心配なんてしていない振りをして、新聞を読んでいた。後ろで「ただいまー」と聞こえたが、新聞をパラリとめくりながら「おかえりー」と答えた。どこで何をしていたなんて聞かなかった。秘密って言ってたし。

「ねぇねぇ、お酒飲めないの?」

 唐突に聞いて来た。

「そんなことないよ。飲めるよ」

「そうなんだ。でも全然飲まないじゃん」

「だって、アルコール嫌いだって言ってなかったっけ?」

「言ってた」

「じゃぁ飲まないでしょ」

「なんで?」

「なんでって言われても、人が嫌だって言うことはしないでしょう」

「そうなんだ。やっさしーねー」

 そう言って後ろから抱き付いて来た。

「じゃーさー、私がお酒飲んだら飲む?」

「お、珍しいね。どうした、熱でも出たか」

 やや首に圧力を感じた。

「違うよ。私もね、変わろうと思うんだよ!」

「おお、それは良いことだ。人間何事も努力と進歩で、前向きに行かないといかん。そっちが飲むなら喜んで飲みましょう」

「ありがとう。それじゃぁさ、今度山頂で乾杯しない?」

「しない」

 それは即答した。

「なんで! なんで!」

 そんなの決まっている。

「登山中はアルコール摂取しないよ。酒飲みながら出来るスポーツなんてないよ」

「えー、夜になってからならいいじゃん!」

「家に帰るまでが遠足。翌日どうなるか判らないのに、わざわざ危険を冒す必要はない」

「えー、いいじゃん。ちょっとだけなら大丈夫だよ!」

「油断大敵雨あられ。過ちすな心して降りよ。それがポリシー」

「意味が判りません」

「つまり酒はダメだということだ」

 新聞をパラリとめくると、正面に回って来てジタバタした。

「飲むの! 絶対飲むの!」

 何? どうした? 訳が判らない。こちらが黙っていると、いつまでもジタバタしている。困った。ポリシーはなかなか替えられるものではない。

「うわーん。カメラ売りに出してやる!」

 そう言い放つと、写真部屋に篭ってしまった。カメラで済むなら良いか? うーむ。

「べーだ。ふんっ」

 戻ってくると、人が読んでいる新聞を突っついて邪魔をする。

「何すんだよぅ」

「べんべろべーだ」

 そう言うとまた突っつく。そこは読んだから良い。バンバンと突っつき、穴が開くほどつっついた。

「ねぇ、お酒飲まなくても平気なの?」

 やっと日本語らしい言葉が発せられた。

「平気だよ。世の中から酒がなくなっても生きていける」

「へぇー、珍しい人だね。弱いの?」

「うんにゃ、そんなことはない」

「じゃぁ何で?」

「何で、と言われてもねぇ。あんまり飲めば酔っ払うじゃん」

「そりゃアルコールだからね」

「そしたら冷静じゃなくなる可能性がある」

「それだけ? それだけなの?」

「そう。それだけ。何時でも冷静沈着。それがマイポリシー」

「そう言えば、いつも冷静だよね」

「冷静。冷静。何時でも冷静」

「あんまり怒らないし」

「怒りは冷静さを失うからね」

「お坊さんみたいだね」

「そうだね。ここまで来ると悟りの境地に達していると言っても良い」

 こりゃ駄目だと言わんばかりに口をへの字に曲げ、伸びをした。人は常日頃から鍛錬というものが必要なのだ。心がけとも言う。心頭滅却すれば火もまた凉し。

「そんなに冷静でさ、冷静さを失ったことってないの?」

「そりゃーあるよ」

「いつ! 何時何分何秒! 地球が何回周った日!」

「昨日とか」

 言ってからしまったと思った。耳が赤くなっていくのが判る。いかん。そういう時は大きく深呼吸をすれば……。その瞬間、耳に熱い息が吹きかけられた。


 結局、乾杯の一杯だけ飲むことになってしまった。さよならマイポリシー。


 ワイパーを左右に振りながら、夜の高速道路を走っていた。膝の上にはリュックがあった。隣には必死の形相で運転をする人がいた。

「眠たくなったら寝てもいいよー」

 恐怖感もだいぶ慣れてきて、ウトウトしていた。頷いて眠ろうとした。

「死なばもろとも」

 小さく聞こえてきて目が覚めた。横を見ると歯を見せ、にやっと笑っていた。目は真剣だった。軽く「そうだねー」と返事をすると、ハンドルを二度握りなおして、目を正面に向けたまま何度も頷いた。またウトウトとした。

 冬山は北アルプスで下から写真を撮ろうと思っていた。

「釜トンネルのツララ凄いんだよ」

「えーあれは怖いよ。それよりさ、私のとっておきの場所を教えてあげるから、そこへ行こうよ」

 そう言うと準備よろしく国土地理院の地図を取り出すと、印を付けた。東北の名もなき小ピークだった。

 普段から山のピークには興味がない。別に山頂に行ったからといって、良い写真が撮れる訳ではないからだ。それを知ってのチョイスなのだろう。

「綺麗なとこなの?」

「うん。凄い綺麗だよ。保証するよ」

「へぇ、そうなんだ」

「有名な所だけが山じゃない。綺麗な景色は自分の足で探すんだよ!」

 良いカメラマンになる素質あり。うんうん。詳細についてはまた秘密だった。

 寝ぼけ眼で今朝のやりとりを思い出していると、車は高速道路を降りてガソリンスタンドに入った。

「さぁ、出番ですよ」

「え、何? 何? もう着いた?」

「違うよ。ガソリン入れてきて。あ、それとチェーンも巻いてね」

 ハンドルを握ったまま嬉しそうに言い放った。ちきしょう。やられた。ハートのキーホルダーの感触を確かめながら車を降りた。外は氷点下だったが、サイドミラーと睨めっこをしていれば寒くなかった。


 翌日は良い天気だった。テントを撤収してリュックにしまった。背中合わせに座ると、アイゼンを靴に装着した。いざ出発。背中に温もりを感じながら力を入れると、立ち上がった。

「『人』!」

「『入』!」

「ひとだよー」

「いりだよー」

 どちらの方角が上か議論になったが、ここは地図同様北が上ではないかとの結論になった。そこでコンパスで確認すると今のは『人』であることが判明した。こちらが先頭に立ち、西に向かって歩き出した。

「ちょっとまって」

「え? なに」

「これ着けないと」

「え、ここから着けるの?」

「当然だよ。折角買ったんだから」

 暫くなだらかな林道なのだが、ザイルで二人は結ばれた。

 午後になって、高さの割りに急峻な尾根を登り続けていた。お互い冬山には慣れていたが、歩くペースは人それぞれである。大きな荷物を背負っていては辛かろう。しかし仕方ない。雪もあまり取り付かない岩場を登って振り返ると、足跡を正確に辿りつつ、必死の形相で登って来るのが見えた。ニコンを構えて撮影した。

「いいよいいよ。頑張ってるね」

 カシャンと良い音がした。

「ちょっと、何撮ってるの。今のはナシ」

「ナシって言ってもね」

「消して再撮影を要求します!」

「いや、デジカメじゃないんだから消すのは無理」

「じゃぁもう一枚撮ってね」

 岩に片足を掛けてポーズを取ると、サングラスを外してにっこり笑った。仕方なくもう一枚撮影した。残り一枚になっていた。

 山頂に着いたらフィルムを交換しよう。このニコンにはフィルム二百枚用パトローネとか、そういうオプションは付けられない。三十六枚毎にフィルムを交換するしかない。こういう場所では面倒である。

 お互い吐く息が白い。ふざけてレンズに向かって息を吹きかけるので困る。

「今日の夕飯はステーキですよ」

「年越し蕎麦じゃないの?」

「夕日を見ながら白ワインとステーキですよ」

「肉には赤ワインじゃないの?」

「いいの! 特別な白ワインなんだよ!」

「そうなんだ。それはステーキな夕食だこと」

「……」

 寒かったのは雪のせいだ。全てが凍り付いていた。

「ザイル弛ませないでね。じゃぁ行こうか」

「OK。好きなペースで行っていいよ。コントロールはこっちでやるね」

 そう言ってザイルを引いた。腹が締まる。

「グエッグエッ。鵜ではありません」

「鵜は首。ほれほれ。行くがよいぞ」

 ニコニコしながら言った。まるで手のひらで踊らされている様だ。見た所細い尾根が続いている。しかし二人はザイルで結ばれていたので滑落する心配はなかった。後ろ手にザイルを持ち上げ、先に歩き始めた。雪の上を歩くとザクザクと音がした。やがて後でも足音がして、付いて来ているのが判った。山頂はもうすぐだ。時間も余裕がある。何も慌てることはない。いつも冷静だったし、その時も冷静だった。

 後で不意に大きな音がしたので振り向くと、赤いリュックが南の谷へ落ちる所だった。迷わず北の谷に飛んだ。二メートル程下に岩があって、そこにアイゼンが食い込む音がした。膝に少し衝撃が来た。ザイルがピンとなって雪に食い込んだ。

 細い尾根で一人が滑落した場合、もう一人は反対の谷へ飛ぶ。そうしないと落下する体とリュックの重みを支えきれず、一緒に落下してしまう。反対側へ飛べば自分の体重とリュックの重さで丁度バランスが取れ、両方が落下するのを防ぐことが出来る。あとはお互いが尾根を這い上がるだけだ。

「なにやってんだよ」

「ちょっとつまずいちゃった」

 尾根に這い上がり、笑いながらそう会話するだけの、ちょっとしたアクシデントのはずだった。ロープを引っ張ると、意外な程軽く引き寄せることが出来た。何が起きたか直ぐに理解した。切り立った南の谷を見ても白いだけだった。自分の影だけが細い尾根を黒くしていた。

 手繰り寄せても何もなかった。尾根の上は無音で何も聞こえない。ザイルの先を見ると、ざっくりと切れていた。赤い紐だけがすっと十五センチくらい伸びていて、その先は細い糸になって、その先は確認出来なかった。

 サングラスが曇って来たので少し下に降ろしたが、よく見えなかった。雪の中に隠れているのではないかと思ったが、足が動かなかった。

 ザイルを巻き取ると肩に乗せ、山頂に向かった。冷静だった。一人になってしまったので慎重に進み、山頂に着いた。そのまま黙ってテントを張り、黙ってお湯を沸かして、黙ってインスタントラーメンを食べた。

 教えてくれた通り、綺麗な夕日が海へ沈んで行くのが見えた。一面の銀世界が赤く染まり、青いはずの海もゆらゆらと揺れる赤い絨毯になっていた。沈んで欲しくない。そのまま止まっていて欲しい。何故沈む。

 冷たくなったコンロをテントに放り込み、切れたザイルをもう一度見た。叫んだ。何を叫んだかは覚えていない。日本語だったかも判らない。必要のなくなったザイルを雪に叩きつけた。膝を雪に付け、ザイルを叩いた。何度も何度も叩いた。ザイルに罪はないが、八つ当たりをさせてもらった。

 手袋を外してポケットを探った。サプライズで用意していた書類を取り出すと、細かくちぎり、硬く丸めると、助走を付けて夕日に向かって投げた。強い西風に逆らって飛んで行ったが、吹き上げる強風で散り散りになり空を舞った。手袋に着いた雪も、靴に着いた雪も、転がったヘルメットに着いた雪も、何もかもを真っ赤に染める夕日が、ゆっくりと海に沈むもうとしていた。

 紐で繋がった手袋が、顔に当たった所をさすりながらテントに入った。真っ暗になっては危険だから。冷静だった。広いテントの中、明日に備えて荷物を片付ける時間も惜しんで寝た。

 寝袋に入って泣いた。誰もいない山頂で顔を隠して泣いた。

 予定通り下山して、警察の厄介になった。何故か声が出なくなっていたので、滑落現場を指で示すと、二日ヘリコプターを飛ばしただけで、捜索は雪解けを待って行うことになった。

 車はエンジンキーがないので、レッカーで移動した。そのまま自動車屋さんへ持っていくと、売り払った。エンジンキーがないくらいで盗難車呼ばわりされたが、ふとナンバープレートの裏にスペアキーがあったのを思い出した。そこからスペアキーを取り出すと、我慢していた涙がまた溢れてきて、泣きながら自動車屋のおやじに渡した。今度は何も言われなかった。

 店のテーブルで書類にサインをしているとおやじがまた来て、今度は給油口のキーを渡すように言った。ポケットから給油口のキーを取り出すと、ポンと投げた。ハートのキーホルダーが付いたままだった。あっと思ったが、くるっと回ってポンとおやじの手のひらに飛び乗ると、そのまま見えなくなった。

 書類を書き終えて帰ろうとすると、後ろから「可愛いキーホルダー」なんて声がしたものだから、返してとも言えず、すれ違い様に顔を背けて自動車屋を出た。

 車だけでなく、マンションも、ボーナス三回分で買った指輪も売って現金を作り、捜索費用に充てた。時間がかかったが、カメラもレンズも、フィルムが入っていたニコンを除いて全部売った。売りに行くとき、ライカが見当たらなかった。

 引越しの時、日記帳に手を伸ばすとトラップが仕掛けてあって、パチンと手に当たった。痛くて泣いた。殺されても良い覚悟で日記帳をめくろうとしたが、殺人者にしてはいけないと思ってやめた。いや、本当は良く読めなかった。初めて会った日までは小遣帖の様な日記で、山から帰る日にあやしい人にナンパされたとあった。失礼な。毎日書かれていた様だが、二十五日は空白で、二十六日には昨日プロポーズされたと記してあった。言葉の採り様は色々である。最後の日だけ長く続いていて、天国にいるお父さんお母さんへの挨拶で終わっていた。そこまで行くと、もう何が書いてあるのかなんて判らなくなっていた。一冊づつ愛媛みかんの箱に入れていると、今年の日記帖があった。表紙に自分と同じ苗字の名前が書いてあった。急いでめくったが、全部白紙だった。

 デジカメの奥にライカを見つけた。「カメラを売ってやる」と息巻いたのはこれだった。そんなことをする訳がないと思っていたので気にもしていなかったし、ニコンの台数しか数えていなかったので気が付かなかった。

 約束通り誕生日には、店で一番大きなケーキを買った。こたつの上に置いて、ロウソクを点けると一人で歌った。ロウソクを吹き消す人がいない時は早い者勝ちだったけど、消すことが出来なくて、そのまま燃える炎を眺めていた。気が付いたら消えていて、帰って来た! なんて思ったけど、誰もいなかった。それでもケーキは半分だけ残しておいた。

 新緑が綺麗な季節になって迎えに行くと、あっさりと見つかった。しかし、たった半年余りの歳月と、僅か二百メートルの距離は、人間を大きく変えるのに十分だった。少し離れて待機する様に言われ、警察が色々と確認した。その後に呼ばれて自分でも確認した。見つかってホッとした思いと、見つけなければどこかで生きているという思いと、迎えに行ってあげないと泣いちゃうだろうなという思いが交錯した。

 左足の側面にあるアイゼンにザイルが刺さっていて、丁度つま先までの長さしかなかった。こっちのザイルもやっぱり赤い紐が一番長くなっていた。

 リュックからは、大きく曲がったフライパンと、割れたシャンパンの瓶が見えた。食料も体もなくなっていた。山の動物に見分けは付かないだろう。

 一応救助用のタンカに乗せてくれた。固く握った手が下に落ちそうになったので、慌てて支えた。すると、ずっと手が乗っていたからか、雨合羽の綺麗な所が現れた。しかし、その下には黒く大きなシミがあった。警官が不思議がったので、シミの源流を辿ってみると、上着のポケットに辿りついた。

 そっと手を入れてみると固い物があって、取り出して見ると赤い万年筆だった。真っ二つに折れていた。一緒に白い紙も出てきて、広げてみるとそれは婚姻届だった。あとは自分がサインをすれば良い状態になっていた。

「これと同じ物を、私も用意していたんですよ」

 そう言うと、笑い声が聞こえて来た様な気がした。

「こっちの婚姻届を提出するのよ! 心を込めて書いたのよ!」

「えー、そっちは記念にとっておけばいいじゃん!」

 どっちが用意した物を提出するのだ? 仲良く乾杯をした後、狭いテントで揉めている様子が手に取るように見えて、つい声を出して笑った。とてもおかしかった。警官に肩をポンポンと叩かれて泣いた。大きな水滴がボタボタ落ちて、白い紙に丸い跡が付いた。折り目の通り元に戻して自分のポケットにしまったが、何も言われなかった。

 天涯孤独と言っていたが、何処からともなく親戚が現れて葬式は密葬になった。冷たくなじられたが、葬儀には参列させてもらえたし、棺桶も担がせてくれた。棺桶には黒いシミの付いた婚姻届に、青い万年筆でサインした物を花の代わりに入れた。それから人の名前というものに興味がなくなった。

 生い立ちを明るく話しているのを思い出した。五歳の時、両親が飲酒運転に巻き込まれて亡くなり、それから施設で育ったと聞いた。

 セミの声が賑やかな暑い下界で、入道雲を眺めながらの納骨になった。小さなお墓には三人目の真新しい名前と日付があって、その隣には二つ、四月一日と刻まれていた。頭をかきむしって膝を付いた。誕生日には必ず逢いに来ると約束した。

 法事には呼ばれなかった。

 デジカメは操作方法がよく判らなかったが、「お気に入り」と記された所を押してみた。いつの間に撮られたのか、口を開けて寝ている所とか、だらしなくあくびをしている所とか、人には見せられない自分の姿があった。嬉しそうに鼻毛を抜くひげ面もあった。


「桜が散ったら、すぐ山のシーズンですね」

 マスターの声にはっとして我に返った。やや傾きかけた春の日差しがSlowtimeを暖かく包んでいた。長い夢か。いや、デジカメはポケットに入っている。

「そうですね。高山植物は綺麗ですよ」

 そう答えるのがやっとだった。

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