7/16

春風

　穏やかな日差しが部屋まで届いていた。遠くには綿飴の様な雲がのんびりと浮いている。待ち焦がれていた春が来た。外に出ても寒くない。ポケットに手を突っ込んでも暑くない。歩いていれば鼻歌でも歌いたくなる。そんな陽気である。

　表を一人で歩くときに、カメラを持っていくと都合が良い。海以外なら立ち止まって、しばし綺麗な景色を眺めるのも許される。そんな時の為に買ったのがこのライカである。しかし、買って直ぐに出番がなくなっていた。今日持ち出したのは久しぶりである。

　散歩の為だけに買ったとしたら、ちょっと高い買い物かもしれない。でもこれは一種の免罪符。首から提げてウロウロしていても「カメラマンなんだな」で終わる。

　住宅地にある公園は桜が満開になっていた。上着のポケットに手を突っ込んだまま見上げると、まるで時間が止まったかのように感じられる。快晴無風。桜の花びらは少しも揺れることなく青空の下にある。

　近辺の公園に桜が植えられているのは知っていた。きっと春になったら綺麗だろうなと思っていたが、その予想を超えて極楽浄土に来てしまったかの様である。テレビで流れる桜の名所は賑やかに人が集っているが、住宅地の公園には人がいない。

　桜の花びらを通り抜けた春の日差しが、土に花の影絵を作っていた。そこに時折本物の花びらがゆらりゆらりと落ちて来て色を添えた。気の早い花が力尽きたのだろうか。風もないのに落ちて来る花びらは、風に吹かれることもなく淡い色の絨毯を造りつつあった。

　背中に暖かな光を感じながら桜を眺めていると、近所の子供が遊びに来た。とりあえず桜の写真を撮ることにした。

　良く見ると、桜の木には小鳥が遊びに来ていた。梅の花にも鳥が来るが、桜の木に来た鳥は撮影不可能である。ファインダーを覗くと、小鳥は何処にいるのか判らないくらい小さくなっている。ふと思い出してデジカメを取り出すと、望遠にして一枚撮影した。

　間の抜けた音がしてレンズが本体から出入りした。どうも丁度良い位置に合わせるのが苦手だ。手で合わせたい。液晶画面を覗き込むと桜が白く写っている。空もイメージとは違う。そこでメニューから偏光フィルターを選択すると、空が青くなり、桜がピンク色になる。素晴らしい。デジタル技術万歳。

　しかし、光の具合を見てこうはならないというのは判る。射光で偏光フィルターを使用すれば色は一様にはならないはずだ。

「所詮お絵かきの道具に過ぎないな」

　一人頷いてポケットにしまった。首にぶら下げたライカでもう一度撮り直す。順光の位置で良いアングルを探して撮影。

　絵に描かれた桜は大抵ピンク色だが、ソメイヨシノは意外と白っぽい。撮影するときに夢中になっていると、仕上がりでガッカリすることになる。

　写真は時間と空間を切り取る芸術である。誰かがそんなことを言っていた。しかしこの言葉には続きがある。空間の再生だ。切り取られて残された空間から、如何に広がりを感じられるか。それが作者の意図と言っても良い。

　最初は限られた四角に収まるよう構図を考える。余計な部分を省き、漫然とした喜怒哀楽から、より研ぎ澄ませた感動に進化させる。そして次に意図を織り込む。

　白い土壁と屋根瓦。そして一本の桜の木。柔らかな光が照らしているとする。そのままシャッターを押せば、美しい日本の風景ということになるだろう。邪魔な電柱やマンホールを避けて撮影出来れば、まるで江戸時代の一コマと見られるかもしれない。そして写真に写っていない部分を、観る人にどう補わせるか。これが良い写真の条件だろう。

　もしその写真に、洋服の子供が走るシーンが写りこめば、元気のある古い町並みを表すことが出来る。花見の道具を持った家族が通ればのどかな一日。行列なら近くに大きな何かがある活気のある町。目線の向きでも表現は変わるだろう。

　目線のない自動車でも、子供が乗っている乗用車なら春の躍動感を、トラックなら寂しい現代を表すことになるかもしれない。車種にもよるし、年代にもよるだろう。現代を捉えた一枚の写真が、百年後に哀愁を感じる物になるかもしれない。

　しかし、世に溢れる写真の数々。その殆どは誰に見られることなく消えていく。

　区画整理された住宅地を離れ、少し田んぼの道を歩く。目的地は近くのお寺。ここにも大きな桜の木がある。初めて来たときは少し汗ばむ様な天気の良い日だった。力強く濃い緑が、夏の到来を告げる雲に向かって、丸く穏やかに伸びていた。これは花が咲いたら綺麗だろうなと思った。

　春を待たずに冬にも来たが、その時は落ち葉が池に沈み、地上は冬、池の底には秋があった。池で飼われている二羽の白鳥が静かにしてくれれば、両方の季節を味わうことが出来る。縁側に座り、柱にもたれながら静かに待っていた。夕日を見ながら。

　普段は誰もいない境内だが、桜見物向けの客に今週だけ抹茶を出していた。ありがたく頂きながら庭を眺める。

　丸く大きく伸びた桜の枝が池に映り、見事な春を描いていた。絵画と違う所は、時折花びらが右に左に揺れながら落ちてくる点だ。水面に落ちた花びらは、小さな輪を作って留まり、近くに来た花びらと重なるものもあれば、ひとつふわふわと浮かんでいるものもある。やがて沈む。池に映る花びらの他に、池に沈む花びらも垣間見える。

　水中花のごとく鮮やかな色を残しているが、やがて色あせて土に返る。

　心静かにシャッターを押した。芸術は気持ちの高揚が原動力である。しかし写真の場合、興奮する心臓の鼓動、荒くなる息さえ抑え、静止する必要がある。興奮を伝えるとしても、撮影する人は冷静でなければならない。もし冷静になれないとしたら、そのまま眺めていれば良い。言葉で表現すれば良い。写真で伝える必要はない。

　ここで一首ひねってみようと思ったが、なかなか思った様な歌は出てこない。やはり歌は高尚な趣味である。それでも風流を気取ってみようとなお頑張っていると、賑やかな一団が来た。

　春になり

　桜が咲いて

　綺麗だな

　集中が途切れると良い歌が出来ないものである。こんなことなら短歌の本でも読んでおけば良かった。そう後悔しながら寺を後にした。

　川べりに出ると、住宅街の中に桜色が点々と見える。のどかな春。こんな日は時間が止まっていて、何も起きない様な気がする。土手のサイクリングロードまで桜がちらほらとあって、川から吹き上げる風に吹かれて舞い上がった。春の良き風景なり。風は少し冷たかったが、少し肩をすくめるだけでやり過ごせた。

　運悪く土手の下にある道路に落ちてしまった花びら。踏まないようにSlowtimeへ入ろうとした。

　しかし、入り口には『自動ドア』という真新しいステッカーが張ってあった。そんなはずはないと思いつつも、入り口でドアが開くのを待っていた。開かない。やはりドアは手動の様だ。ガラス越しにカウンターでニヤニヤするマスターと目が合った。

「いらっしゃーい」

　カランカランというのんびりとした音のカウベルの向こうから、春らしく間延びした声でマスターが出迎えてくれた。店には誰もいなかった。話し相手が欲しかったのか、水をカウンターに置いたのでその席に座った。

「自動ドアじゃないんですか？」

「えへへ。今日は何の日でしょう？」

　マスターは悪戯っぽく笑った。ピンと来て答えた。

「エイプリールフールですね」

「はい。正解です」

　注文もしていないコーヒーを淹れ始めた。

「おかしいなとは思ったんですけどね。やられましたな」

「今朝から結構引っかかってますよ。でも、常連さんに通じるとは思いませんでしたね」

「いや、引っかかるというか、それだとお客さんが来ないのでは？」

　がらんとした店内を見て指摘した。

「そうなんですよ。何人か帰ってしまいました」

　笑いながら言うマスターは商売っ気がない。

「今度はＣＬＯＳＥにしておいたらどうですか？」

「それイイですね！」

　やばい。この店潰れるかもしれない。

「桜が綺麗ですね」

「よい陽気ですね」

　コーヒーが入るまで定型句の様な挨拶を交わした。しかし定型句に相応しい風景が目の前に広がっている。お互いの目が、細く半円を描いている。

「今日、初来日の外人さんは、日本は美しいと思うでしょうね」

「そうですね。でも大勢の酔っ払いを見たら、それ以上にびっくりしますよね」

「それはありますね」

　ここの所酒を飲んでいなかったので忘れていた。桜の木の下で飲む酒は楽しい。ちょっと寒い時もあるけれど、時間を忘れることが出来る。

「あ、今日はライカなんですね」

「あぁこれですか。久しぶりに出してみました」

　首からぶら下げていたライカをカウンターに置いた。大して重さも感じないので忘れていた。

「良いの撮れましたか？」

「その先のお寺に行って来ましてね。三、四枚押しました」

「そうですか。私も友達から貰ったカメラがありましてね、行こうと思っていたんですよ」

「そう言えば、前に野球撮ってましたよね」

「はい。あれは結構難しいですね。友達に話したら無理だろうって笑ってました」

「そうでしょう。なかなかのチャレンジャーですね」

「折角良いカメラを貰ったので、撮影したいですよね」

「そう。カメラは買った後の方がお金が掛かるんです」

「なるほど。そうかもしれません」

「一番お金が掛かるのは旅費ですね」

「あはは。旅行好きなら一石二鳥ですね」

「撮影目的で出かけると、荷物が重くて嫌ですよね」

「撮影旅行ですか。良いですね。私もカメラをくれた友達と行きましたが、大変ですよね」

　うんうんと頷きながらマスターが言った。ポタポタとコーヒーが落ちていて、少し下から見ると電球の光がコーヒーとクロスして光った。

「この写真、開店祝いだって言って、その友達から貰ったんですよ」

　カウンターの後にある大きな写真を指差して言った。

「常念から見た穂高ですね」

「お、見て判りますか。有名な所なんですね」

「ええ。北アルプスの絶景ポイントですから」

「そうなんですか。友達と行ったときは雲っていましてね。何も見えませんでした」

「それは残念でしたね。お友達も残念がっていたでしょう」

「はい。もう身振り手振りで雲の中に山を描いて、山の名前を言いながら説明してくれたんですけど、なにやらさっぱりで」

　登った時を思い出してか、マスターが苦笑いした。

「山の名前は歩かないと覚えられないですよね」

「それは言えるかもしれませんね」

　写真の山とカウンターの椅子について解説した。そしてここは槍ヶ岳であると。窓際のテーブルを指差してそれぞれ山の名前を言った。奥のテーブルやピアノについても名前を示すと、マスターは頷いた。

「へー、山登るんですか？」

「ええ、まぁ」

「やっぱり山は良いですか。友達も良いよって言うんですけどね」

「いや、あまりお奨めしませんね。登るのはとても辛いですよ」

「そうですよねー。とても大変でした」

「良いと言えるのは帰って来てからですね」

「なるほど。あ、ライカを持って山の写真を撮るんですか？」

「いえ、山にはニコンを持って……」

　マスターがまだ何か言っていたが、不意に言葉が詰まって周りが見えなくなった。