作戦
Slowtime常連客の間には閉店間際のお約束があった。マスターが入り口の看板をCLOSEにしたら、コーヒーをオーダーしないこと。隅にあるガラスの冷蔵庫を見て、新品しかないジュースをオーダーしないこと。残っているケーキの数を見て、それ以上のケーキを注文しないこと。これはラストオーダーまでの暗黙のルールである。
ちびりちびりとコーヒーを舐めながら、半分以下とならないように時間を稼いでいると、マスターが時計を見た。
残っている客全員の目が光った。早く閉めてしまえ。今日は全員常連で占められている。作戦が成功する可能性は高い。みんながみんなそう思っていた。マスターはぽやっとした顔でカウンターを出ると、入り口の看板をCLOSEにした。扉に掛けられたカウベルのカランカランという音が勝利の鐘の様に聞こえた。
その足でマスターは各テーブルにラストオーダーを求めて歩き回った。しかしそれは途中で切り上げられた。各顧客のカップにはまだコーヒーが残っているのが見えたからだ。常連客達は一致団結した結果に満足していた。
するとマスターはレジを締めにかかった。さっき一度締めていたので、ラストオーダー後の操作は簡単だった。何やら帳面に数字を書いた後、厨房のスイッチをパチパチと消し、空席であるカウンター付近の所からよろい戸を閉め始めた。
次にマスターは店内を見渡すと、一番奥の窓際が空席だったので、コツコツと歩いていくとそっとよろい戸を閉めた。
「閉めましょう」
奥から二番目のテーブルに座っていた客が、そう言ってテーブル横のよろい戸を閉めた。それを合図にしたかの様に、次々とよろい戸が閉められた。沈みかけた夕日が店内を赤く照らしていたが、それが数秒で届かなくなった。マスターの仕事がなくなった。
ラストオーダー後のルール。それはラストオーダー直後は会計に立たないこと。常連客でそんなことをする者はいなかったので、これは破られるはずがなかった。そして一番奥には座らないこと。これは常連客同士で綿密な調査をした結果、遂に導き出されたルールで、日が浅い客はこれを破ってしまうことがあった。
全てのよろい戸が一斉に閉まったものだから、不意にやることがなくなったマスターは、ちょっと困った顔をして、ちょっと嬉しい顔をした。そしてカウンターへ戻りかけたが、何か思いついたように振り返ると、一番奥にある、背もたれのない黒い椅子に腰掛けた。常連客は親指を立てて小さくガッツポーズをした。
マスターがピアノの蓋を開けて手首をクルクルと回すと、カウンターの端に座っていた常連客が店の電話の受話器を上げ、そっと置いた。常連客達は決してマスターの方を見なかったが、今日の演奏に期待していたことは明らかだった。
店では時々、近くの学生達にアルバイトでピアノの生演奏をさせていた。誰も弾いていない時に、お客で弾きたい人がいたら勧めていたし、子供がいたずらしてもニコニコしていた。マスターがピアノ好きというのは良く判る。しかし、マスターが弾くことはなかった。営業時間中に客がリクエストをしても、タイミング良くオーダーが入り、急いでコーヒーを淹れに行ってしまった。
そんなある日、カウンターで居眠りをしてしまった常連客が、ピアノの音で目が覚めた。店は既に閉店していて客はおらず、ガラス窓にマスターがピアノを弾いている姿が映っていた。一曲終わった所で拍手をすると、その音に気が付いたマスターは演奏するのを止めた。カウンターまで来ると「流石に起きてしまいましたか」と言って笑ったという。
その時の話が常連客の間に広まり、ピアノを弾かせる為の研究が始まった。マスターが何時どんな時にピアノを弾くか。どうやったら弾かせることが出来るか。それは一種マスターとの心理戦でもあった。
ある客は子供にお願いさせてみた。しかしマスターはにっこり笑うと、子供をピアノの所に連れて行った。
「自由に弾いていいんだよ。ド、レ、ミ」
最初こそ子供と一緒に弾いていたが、そう言われた子供が楽しそうに鍵盤を叩き始めると、後から見ているだけだ。気が付くとマスターはカウンターにいた。
またある客は、見本に弾いて欲しいと言って頼んだが、逆に弾いてみせてくれと言われて、他の客の前でポロンポロンと弾く羽目になった。
「もうちょっと練習しないとね。良かったらここで練習していいですよ」
そう言われてしまっては、マスターに弾かせる所の話ではない。こうして作戦は失敗の連続だった。
初めて来る客は、まさかマスターがピアノを弾けるとは思っていないので、リクエストをするなんてことはなかったが、マスターにピアノを弾かせる為に協力してくれることもなかった。常連客とそれ以外、マスターのピアノを聴いてみたいと思う客と、マスターがピアノを弾くことを知らない客との、見えない駆け引きの応酬が続いた。
しかし、何故ピアノを弾かなかったのかを研究することによって、反面教師的に条件が明らかになって来た。
ラストオーダーに面倒な注文、例えばミートスパの様に時間が掛かるもの、三種テイスティングコーヒークイズセット・ケーキ付きの様にセットするのが面倒なものを頼んではいけない。かといって、スペシャルトロピカルオレンジジュースの様に簡単なものであっても、未開封の紙パックを開けるのもダメとされた。在庫管理台帳を取り出し、発注伝票に手を掛けることがあるので、事務手続きで時間がなくなるのだ。
マスターがピアノを弾く絶対条件として、よろい戸が全て閉まった状態であることが判った。よろい戸を閉めている最中に一見さんがお会計に立つと、マスターはレジに行ってしまうのでダメだった。かと言って、さぁ弾けとばかりに常連客がよろい戸を閉めても無駄だった。
キッチンの清掃、皿洗い、ラストオーダー終了、レジ締め、そしてよろい戸の全閉鎖。これらが全て揃った時に、マスターはピアノを弾いた。一定の法則を掴んだ常連客は、最近かなりの確率でピアノ演奏を聴くことが出来た。しかし完璧と思われる布陣であっても、マスターがピアノを弾かない時があったので、弾く時と弾かない時の比較検討が、場所を替えて深夜まで続いた。
「今日は弾かなかったよね」
「なんでだろう。時間がなかったのかな」
「いや、今日は二十分あったし、ちらちらピアノを見ていたぞ」
「弾きたいって感じはあったよね」
「だとしたら何でだろう」
誰かがビールを一気に飲み干して、冗談っぽく言った。
「マスター照れてたんじゃない?」
同席していた他の人達が一斉に声を挙げた。
「それだ!」
誰かが星取表を付けたノートを取り出すと、過去の状況について調べ始めた。Slowtimeの見取り図を描き、まず今日の客が座っていた場所に印を付けた。そして演奏なしと記載した。他の日付についても、常連客の誰かが店内の様子を思い出し、座席に印を付けていった。
ジョッキとつまみをテーブルの端に追いやって、「演奏あり」と「演奏なし」に分けて並べた。その結果導き出されたのが、ピアノの前にある席に座らないことだった。
「マスター、恥かしがり屋さんなのね」
「似合わないねぇ」
「そうは見えないよね」
「これは気が付かなかった」
口々にそう言って、その日はお開きになった。そしてシャイなマスターの為に、演奏中はマスターの方を見ないこと。無関心を装うことがルールに加わった。
それからと言うもの、演奏目当てで来店した客は、一番奥のピアノ前しか席が空いていないのを見ると、偶然を装って他の常連客がいる席へ向かい、相席にして座った。マスターの演奏を聴きに来る常連客同士ならば、それは自然なことであった。
フロアを歩くマスターに「奥へどうぞ」と勧められても、白々しく「やぁやぁ」と声を掛け相席に座った。そんな時マスターは、不思議そうな、意外そうな顔をしていたが、傍で見ている他の常連客は笑いを堪えるのに必死だった。
そんなこんなで、全てを好条件でクリアした今夜の演奏は、いつもより長くなりそうだった。演奏が始まった後のルールも存在した。一つは決して拍手をしないこと。拍手をするとマスターは立ち上がり、右手を左に振って挨拶をすると、カウンターに戻ってしまうのだ。そうなると冷たくなったコーヒーを一気飲みして、店を出るしかなかった。
声を出すのも極力避けなければならなかった。特に楽曲についての話題は、マスターには良く聞こえる様で、ピアノを弾く手を止めて、うんちくを語り始めてしまうのであった。
電話の音なんて持っての他。それに録音されるのも嫌がられた。さりげなくテーブル上に録音可能な機器が置いてあると、決して弾かなかった。床に置いた鞄の口が僅かに開いているのも目ざとく見つけられた。何かのスイッチを押す音、携帯電話の開閉の音、ピコピコとゲームをする音がすると、マスターは苦手個所の練習しかしなかった。
常連客の中でもつわものを自負する者達だけが集っていたので、環境周りはまったく問題がない。特に今夜のマスターは機嫌が良く、二曲目を気取った感じでフィニッシュすると、ちょっと考えて三曲目を弾き始めた。
「マスターやったよ!」
大きな声で駆け込んで来る客がいて、不意に演奏会は打ち切られた。それに加えて、カランカランという音をたてるはずのカウベルが、今まで聞いたこともない様な、とてつもなく大きな音をたてた。戦いの終了を知らせる教会の鐘も、これ程盛大に響くことはないだろう。
常連客が常連と言われる所以には、それなりの理由があった。突然の演奏会打ち切りにも、平然とした顔でいた。舌打ちなんてする者は多分いない。本を閉じる者、携帯電話を開いて時計を見る者、みんな冷え切ったコーヒーを一気に飲み干した。そしてピアノからカウンターへ戻るマスターの後を、子鴨の様に追いかけてレジ前へ向かった。
「ピアノなんて弾いてないで聞いてよ!」
閉店後に入って来た客が、マスターにぴょんぴょん跳ねながら声を掛けても、じろりと睨むなんてことをする者は、いなかった。
カウンターに両手を付けて更に跳ねて何か言っていたが、日本語になっていない慌てっぷりを見て、マスターは一杯の水を差し出した。それを飲むのを見ながら、常連客のコーヒー代を受け取った。
「おやすみなさい」
「またね」
「ごちそうさま」
挨拶をして次々と店を出て行く常連客。入り口のドアは開きっぱなしなので、チリチリと音を立てるカウベルの後ろで、「映画に出演することになった」という弾んだ声が聞こえた。しかし、振り返る者は誰もいなかった。
遠くの地平線がうっすらと赤いだけで、既に星が見えていた。月がぼんやりと辺りを照らしていたが、斜めに停めたMiniの色を判別することは出来なかった。