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夕日  作者: 永島大二朗
2/16

常識

 Slowtimeと書かれた喫茶店で槍ヶ岳に座っていた。

 カウンターの奥に北アルプス常念岳から見た穂高岳の写真が飾ってある。大きく引き伸ばされたその写真は、ごつごつとした岩の塊と鋭い嶺が続き、迫力がある。常念岳に登るのは、この景色を見るためと言っても過言ではない。きっとマスターも山が好きなのだろう。

 そこで写真の山と同じ様に、四つと二つでL字に曲がっている六つのカウンター席に、左から前穂・奥穂・涸沢岳・北穂・南岳・槍ヶ岳と勝手に名前を付けた。北穂と南岳の間にあるL字の角は大キレットと命名した。奥穂と涸沢岳の間にマスターが立っていたので、そこを穂高岳山荘とした。

 そうすると今座っている席は槍ヶ岳ということになる。槍ヶ岳山頂でコーヒーをすすりながら夕日を見る。気分が良い。槍ヶ岳山頂からは、北アルプスの大パノラマが三百六十度楽しめる。写真も撮り放題である。そう思いながら、警察から帰って来たデジカメを操作していた。

 不意にカランカランと音がして上高地と名付けた扉が開いた。上高地からやって来た人は真っ直ぐカウンターに向かうと、椅子の足元にある紀美子平にささっと足を掛けると、そのまま前穂に座った。

「エスプレッソ・ダブル」

 渋い声で注文をした。

「はい。毎度」

 マスターが素早く入れたその一杯をぐいっと飲み干すと、そこにお金を置いて上高地へ降りて行った。穂高岳山荘からマスターの手がにゅっと伸びてお金を回収すると、一般人お断りの西穂方面にあるレジにしまった。

 それにしても日帰り前穂往復とは健脚。時計を見ると昼ちょっと前。帰りのバスにはまだ十分時間がある。そう思ってにやりと笑った。傍から見て、この笑みの本当の理由について気が付く者はいなかっただろう。

 春の日差しが降り注ぐ昼過ぎの北アルプスは、割と空いていた。

 谷と見立てた通路を挟んで反対側には、上高地から見て蝶ヶ岳、常念岳、大天井岳、燕岳と、これまた勝手に名付けた四つのテーブル席があり、一番端の燕岳には、写真をじっと見つめる人がポツンと座っていた。窓辺に飾られている花はコマクサではなかったが、なかなか綺麗である。うららかな春の日差しを浴びていた。

 目を店の奥に向けると、槍ヶ岳から西鎌尾根を下る途中に硫黄岳があり、登山コースはないが、そこからマスターが手を拭きながら出て来た。その奥には洒落た植木や小物を置いた大きなテーブル。雲ノ平と命名した席があり、その近辺はいつも賑やかな憩いの場となっていた。一番奥には傾いた高天原山荘を思い浮かべる、古いピアノが置いてあった。ピカピカに磨かれているのも同じである。違うのは温泉ではないことか。

 店内にはいつもクラッシックが流れているのだが、今日は高天原のピアノがギクシャクとしつつも、暖かい音を響かせていた。毎週この日は、近所のピアノ教室が公開レッスンをしている。雲ノ平から高天原をうらやましそうに眺める人達が四、五人いた。やはり高天原に行くには、時間と体力に余裕がないと無理なのだろう。

 ゆるゆると流れるメロディーが、喫茶北アルプスに木霊していた。いや、店名はSlowtimeである。そこまで勝手に変えては申し訳ない。ちなみにSlow time は夏時間より遅いという意味で『標準時間』なのだが、よく見るとSlowのwとtimeのtがくっついている。造語であろう。英語は難しいので気にしないことにする。

 店内に話を戻すと、西穂の向うには焼岳というコンロがあり、窓の外には乗鞍高原という名の駐車場が見えた。

 最近マイカー規制になったはずだが、赤いMiniが乗り入れて来た。小さいから良いのかと一瞬思ったが、駐車場だし他の車でも良いのは当たり前だった。

 車から出て来た人はとても上機嫌であることが判った。手を大きく振ったうえに手首のスナップを利かせて車のドアを閉め、フォロースルーまで完璧だった。そしてステップを踏みながら歩いて来た。

 花壇の上に飛び乗って、レンガの上をクルクル回りながら近づいて来たので、春の日差しと影が店内では踊っている様に見えた。それに気がついたマスターは、コーヒーカップを取り出した。そして呼応するかの様に、気取った手つきでコーヒーを注ぐと、此処に来ますと判っている様に前穂に置いた。

 上高地の鐘の音がカランカランと響くと、その人は吸い込まれるかのように前穂に登り、そして座った。嬉しそうに話すその手には、一枚のCDがあった。

 人の話を聞くつもりはなかった。後ろでゆるゆるとしたピアノレッスンが終わり、拍手が鳴り響いていても聞こえる程元気な声では仕方ない。

「マスター見て見て! 私のアルバム!」

 前穂の人は言い、自分が写ったジャケットを正面にし、両手でCDを顔の前に出すと、左右に振ってから差し出した。マスターはにっこり笑っておめでとうと言い、差し出されたCDを受け取った。

「まだ温かいね」

「プレスしたてですから」

 マスターの冗談もさらりとかわす余裕。Uの字を回転させながら目と口を描いた様な顔。漫画の笑顔もここまで得意満面にはなるまい。

「すごいねぇ」

「それ、あげる」

「いいの?」

「どうぞ。どうぞ」

「ありがとう」

 前穂の人が放つ早口と、マイペースなマスターの、のんびりとした口調でありきたりな会話が流れ、その後を団体さんが上高地に向かって列を作っていた。マスターは一度CDを置いて会計をすると、再び戻ってきてCDを手に取った。

「へぇ、良く出来てるじゃない」

 表を見たり、裏を見たりしてしきりに感心していた。

「でしょー」

 前穂の人は嬉しそうに言った。

「写真も綺麗だね」

「でしょでしょー」

 更に何か言いたそうなマスターを尻目に、前穂の人がキョロキョロと店内を見渡した。目が合ってちょっとドキッとした。

「ねぇ、ちょっとCD掛けてよ」

 客が少ないのを確認したのか、普段クラッシックしか流さない店内に、自分の曲を流す様要求した。マスターも店内を見渡し、こちらに目で許可を求めて来たので、うんうんと頷いた。

「しょうがないな。ちょっとだけね」

 そう言いながらマスターはビニールを外してCDを取り出すと、電球に透かしてみせた。前穂の人が手を横に振ったので、今度は耳元に持っていってクルクル回した。

「うん。良い曲だ」

 マスターは言い切った。

「違う違う」

 前穂の人は連呼してマスターの腕を取り、揺すりながら槍ヶ岳上空を指差した。槍ヶ岳山頂、穂先の祠にはCDプレイヤーがあった様だ。知らなかった。

 マスターが踏み台に乗って手を伸ばすと、極々小さく鳴っていたモーツァルトがぷっつりと切れ、本当に静かな春になった。そしてくるくる回しながらCDをプレイヤーにセットした。

 どこからともなく登場したリモコンを取り出して再生ボタンを押すと、シャカシャカという音がスピーカーから流れ出し、春の店内に響き始めた。しかし十秒程で二曲目になった。その曲はさっきよりも短い五秒程で終わり、三曲目は十五秒程の前奏後、『アー』と叫んで終わった。結局全部で何曲あったのか判らなくなってしまったが、アルバムを聞き終わるのに三分もかからなかっただろう。

「良いアルバムだ」

 マスターは感心した様に大きく頷いてそう言ったが、前穂の人は本気にしなかった。

「ちゃんと一曲掛けて!」

 そう言いながら奥穂高岳山荘めがけて手を伸ばし、リモコンを奪いにかかった。マスターはリモコンを高く掲げて譲らない。代わりにCDケースを渡した。

「お奨めはどれよ」

 さぁ言えと、挑戦する様に聞き返した。

 前穂の人はリモコンを獲るのを諦めたのか、手を引っ込めると、六曲目の何とかという曲を指差した。聞いたことのない曲だった。

「ワンフレーズだけね」

 マスターはそう言ってリモコンを操作すると、お奨めの六番目の曲を掛けた。やはり聞いたことのない曲だった。

 曲がかかると、マスターはリモコンを置いてコーヒーを淹れ始めた。すると前穂の人はすかさずリモコンを奪取し、前穂の横に立てた。マスターがこちらを見たので、空のコップを持ち上げて振ると、微笑んで会釈した。

 コーヒーが入るまで、前穂の人はCDのジャケットを指差し、いかに製作が大変だったかをマスターに語った。マスターはうんうんと頷きながら、コーヒーとジャケットを交互に見ていた。

 話を聞いて、アルバムを作るには膨大な時間と、手間が掛かっていることが判った。しかし冷たい様だが、曲自体はそれほどでもなかった。話をしている間に八曲目になっていた。飽きたので帰ることにした。

 今日、カメラ屋さんでプレスしてもらった金色のCD。マスターの真似をして、アルバムと同じ様にひとさし指でクルクル回しながら電球にかざしてみた。すると何本かの筋が見える。なるほど、これがデジタルかと納得して鞄にしまい、お会計に立った。

 八曲目からリモコン争奪戦が始まっていたが、会計中は休戦となった。しかし上高地へ帰るほんの短い間に戦局は大きく変わった。後で何が起きたのかは判らない。曲がブツリと切れた。一瞬の隙を突いて、マスターの勝利に終わった様である。

 カランカランというカウベルの音がしたのと同時に、元気の良い歌謡曲がスタートした。「あ、懐かしい」と思った時にはもう扉が閉まり、音楽は聞こえなくなった。続きを歌うことは出来たが、曲名までは思い出せなかった。

 マスターがクラッシック以外のCDを掛けたことに驚いた。ふと、窓辺にあるプランターの向こう、春風に揺れる花の奥に、燕岳の人が驚いた様子で顔を上げているのが見えた。まだ日が高かったが、夕日を映した様な真っ赤な目でスピーカーを見つめていた。

「この曲、元気になれるよね」

 そう呟いて店を離れた。

 店からそう離れてはいない所に住まいがある。家に帰ると金色のCDを取り出し、何処にしまうかを考えた。

 昨日デジカメで夕日を撮影すると、初めてフィルムエンドのマークが点灯した。そこで今日はカメラ屋さんに行って来たのだ。今までに撮影した写真は三百枚程。中には大切な写真もある。下手に蓋を開けて、フィルムを感光させてしまったら台無しなので、そのまま店に持って行った。

「すみません、デジタルフィルム下さい」

「えっ?」

「これに合う奴です」

「そういうのはありません」

 見た事のない店員にそっけなく言われた。

「ありゃ、古いカメラだからですか?」

「いえ、そういう訳ではありません。SDカードならありますよ」

「いえ、現金で払います」

「え? いや、デジタルフィルムという物はありません」

「おや、でもデジタルテープはあるじゃないですか」

「そ、そうですね」

 店員に笑われた。デジタルフィルムが存在する可能性について一応の理解を示したものの、目はまだ笑っていた。

「とにかくデジカメのフィルムがない様なので、何とかして下さい」

「写真を消せばフィルムは要りませんよ」

 肩幅より少し広く間を取って、両手をカウンターに付けて言った。自信を持ってそう言われ、コイツはとんでもない店員だと確信した。口には出さなかったが。

「うーむ。では『現のみ』でお願いします」

「プリントではないのですか?」

「いえ、現像だけで結構です」

 なんだ、この店員は『現像のみ』も知らんのか。仕方のない奴だ。

「判りました」

 本当に判ったのか怪しいものだが、手馴れた手つきでデジカメの蓋を開けようとした。

「あ、巻き戻してないです!」

 慌ててそう言ったが、店員はニコニコして取り合わなかった。蓋を開け、小さなデジタルフィルムとおぼしき物体を別の機械に入れた。そして金色に輝くCDをセットすると、現像らしき操作を始めた。

「暫くお待ち下さい」

「では、明日また来ます」

 フィルム一本といえど、三百枚以上の現像だ。時間がかかろう。そう思って立ち去ろうとすると、あわてた様子の店員が、カウンターを飛び出して来た。

「すぐ、出・来・ま・す・か・ら」

 両手を上下にパタパタと動かし、細かく言葉を区切りながらそう言い直した。腕を捉まれてカウンターの前に引き戻された。店員は現像作業の続きにかかった。

「このCDに焼いておきましたので、データは消して良いですか?」

 数分後、店員が尋ねて来た。CDはプレスだろうと思ったが、細かいことは気にしない。

「はい」

 この質問に選択の余地はないと悟った。勇気を振り絞って言った。店員は手馴れた操作でデジカメを操ると、全消去を選択して迷わず押した。

「はいどうぞ」

 一丁上がりと聞こえた。こいつ押しやがったと思いながら、その場でデジカメを操作すると、確かに全ての写真が消えていた。あの車の写真も消えていた。あぁ、夕日よさようなら。思い出よさようなら。

「写真にしたい時は、このCDを持って来て頂ければいつでも焼き増しが出来ます」

「判りました」

 慰めにもならない言葉を掛けられた。うっかり判りましたなんて言ったが、実は余り判っていなかった。何番を何枚と指定する術がなかったからだ。

 そして今、金色のCDは手のひらにある。鞄をこたつの横に置きながら考えた。見掛けはCDであるが、これはフィルムであろう。悩んだ挙句、音楽CDの棚ではなく、ちゃんとケースにしまった方が良いと帰結した。

 襖を開けるとカメラケースとフィルム棚がズラッと並んでいる。乱雑に林立する三脚を退けて、湿度三十%に保たれた防塵機能付きのフィルム専用棚へ保存することにした。カビが生えたら困る。そう思った。

 フィルム棚の端に、ふと初めて登った山のフィルムを見付けた。パラパラとめくると、青空の下、にこやかにスイカを食べる合戦小屋の写真と、雨降る燕岳山頂で顔をしかめる写真に目が留まった。山の天気は変わりやすいものだ。

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