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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

奪還のアガートラーム ~そちらの都合で命を奪って行ったのに、立場が逆になった途端に助けてって言われても、もう遅い。簡単には死なせないのでご覚悟を~

作者: 古河夜空

思いついたが吉日。というわけで書いてみました。

短編にしては少々長めですが、お付き合い下さい。


 今、当たり前にある日常が、明日も訪れるとは限らない。

 代り映えのしない今日。

 退屈にも思える繰り返し。


 だがそれは、失って初めて気づく、掛け替えのない宝物──。



 少年は、変わり果ててしまった幼馴染の姿。

 さっきまで、お互いに笑い合っていた筈なのに。

 くだらない話をしていた筈なのに。


 何故?

 どうして?


 悲痛な絶叫が響き渡る地獄のような景色の中、少年は喉から血を流しながら、絶叫した──。



   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 「ヤバいッ、遅刻しちまうぞ!」

「もう、待ってよ、ナーザ! 置いていくなんて酷いよ」


 ナーザと呼ばれた銀髪の少年が廊下を走る。

 品の良いデザインで、きっちり着こなせばスマートな印象を与えるはずの学園指定の制服なのだが、ボタンの上二つが外されていたり、腕が捲られていたり、かなりラフに着崩した格好だ。

 襟元から覗く白い素肌には、薄っすらと汗が滲んでおり、息もやや粗かった。


 一方で、その少年を追いかけるのは、美しく手入れされた絹糸のような金髪が印象的な少女だった。

 学園指定の女性用制服をきちんと着こなし、長い髪を揺らしながら、バタバタと廊下を走っている。

 あまり運動が得意ではないのか、少年以上に息を切らしており、走るスピードも遅い。

 しかし、その容貌は美しく、すっと通った鼻梁に澄んだエメラルドグリーンの瞳、きめ細やかな白肌と、万人が振り返ってしまうような美少女だった。



 少年は、立ち止まって少女──リアを振り返り、溜息を吐く。


「ほら、急げ、もう少しだ」


 ナーザの言葉が終ると同時に、始業を告げるチャイムが鳴り始めた。


「はぁ、はぁ……、ナーザ、速すぎだよ……」


 何とか追い付いてきたリア。

 ナーザは少女の手を取ると、強引に走り始めた。


「ほら、もう一息なんだから、がんばれ!」

「うえぇぇっ?!」


 休む間も無くまた走り出す二人。

 リアの頬が赤く染まっているが、体力の限界近くまで走っているからなのか、急に手を繋がれて驚いたからなのかは、判然としなかった。



 チャイムの最後のベルが鳴り始める。

 その瞬間、ナーザは教室の扉を勢いよく開いた。


「よし、セーフ!」


 何とか教室に滑り込み、安堵の息を吐いた──その瞬間だった。


 ──バシン。


 ナーザの腕に、何かが当たった感触がした。ナーザが視線を向けた先には、紙製の出席簿を持った担任教師のアナがいた。

 どうやら先ほどの感触は、出席簿で軽く腕を叩かれたもののようだ。


「セーフ、じゃないわよ。もっと余裕を持って登園しなさい」


 アナにナーザが叱られている横に、リアがチャイムギリギリで到着した。


「すいま、せん。アナ先生……。次からはちゃんと、早めに来るように、します」


 息も絶え絶えなリアが、申し訳なさそうに頭を下げた。そして、汗ばんだ額をハンカチで軽く抑えるようにしてふき取る。


「おはよう、リアさん。貴女は良いのよ。寝坊助のナーザさんを起こしていたらこんな時間になったんでしょう? さっさと起きないナーザさんが悪いの」

「何すかそれ。証拠も無いのに扱いの差が酷くないですか? 決めつけは良くないです」

「じゃぁ、違うって言うの?」

「……違いませんけど」

「そうでしょうね。こうも毎日同じ理由で遅刻ギリギリに駆け込んでいるのだから、決め付けではなくて事実に基づいた推測です。そして、身から出た錆です。この扱いが嫌なら、心を入れ替えて、リアさんに感謝して、早く起きるようにしなさい」

「承知しましたー」


 いまいち反省しているのかどうか分からない返事をしたナーザは、リアと一緒に席へと向かい、座る。

 この二人、席も隣同士だった。



「よぉ、相変わらずギリギリだな」


 椅子に座ったナーザの背を、ペンで突っつきながら話しかけるのは、ナーザの悪友、アッサルだ。

 半笑いのような笑みを浮かべ、揶揄う様な視線を向ける。


「煩ぇよ。つぅか、アッサルは良く早く来れるな。寝る時間、俺と大して変わらない筈だろ?」

「鍛え方が違うんじゃね?」

「は、言ってろよ」


 ナーザとアッサルの会話を聞いていたリアが、溜息混じりでナーザをねめつける。


「やっぱり、また『アストラル・クエスト』をやってたんだね」



 ──『アストラル・クエスト』

 マギ・ネット上で動作する、オンラインゲームの一つだ。

 マギ・ネットとは、ナーザ達が暮らす、ディーナシー王国中の魔術機器が接続されているネットワークであり、多くの情報やコンテンツを得ることができる仕組みだ。王国は、このマギ・ネットを魔術技術の革新として捉えており、近年、その開発に多大な費用を投じている。

 開発は官民一体となって進められており、数あるコンテンツの中で最も有名なものの一つが、体感型のARゲームだ。


 マギ・ネットには魔力を介して接続するのだが、接続の際に、接続者の精神体とも言える“アストラル体”の情報を含めて接続することで、マギ・ネット上にある仮想世界を、現実の世界に似た形で体験することができる。

 この技術を、アストラル・リアリティ(AR)と言い、このAR技術を使って、仮想世界の中に作られた架空の世界を楽しむコンテンツが多く開発された。

 現実の世界に似た世界。そこで、ほぼ現実と変わらない形で得られる新体験。そこで新たな魔術を修得させることができれば、現実世界でも同じような魔術が使えるのではないか? そんな思想の元に開発されたのが、最新のAR魔術教育カリキュラムであり、受講者を飽きさせないように取り入れられたのが、ゲーム要素だ。


 最近では、よりゲーム要素の強いものが数多く開発されたが、その中大ヒットとなったのが、『アストラル・クエスト』である。


 ユーザは、『アストラル・クエスト』で提供されている、オープンワールドの世界の中で、多くのキャラクターやユーザ達と交流し、クエストという形で提供される試練を乗り越えていき、様々な魔術やスキルを身に着けていく。


 ナーザとアッサルは、そんな『アストラル・クエスト』に、どっぷり嵌っていて、毎日睡眠不足に悩まされているのだ。



「今、ランキングイベントが佳境なんだよ。俺達のパーティ、一昨日、ランク一位になったんだ。でもまだ二位と僅差だから、もうひと踏ん張りしねぇと」

「だな。折角ここまで来たんだから、何としても天辺取ってやる。俺達が最強だって知らしめてやらないとな!」

「おう。そのためにも、学園では確り休まないと」

「そうなんだよ。でも一限はアン先生の魔術理論だろ? ちょっと寝れないよな」

「ああ、二限の歴史学が狙い目だ」

「もう……」


 楽しそうに笑う、ナーザとアッサル。

 リアは、二人を見ながら、何度目か分からなくなった溜息を吐く。


「そうだ。リアっちはやらないの? 『アストラル・クエスト』 アカウントは持ってるっしょ?」


 アッサルは、ナーザ越しにリアを見て首を傾げた。


「んー、私は自分のペースでやってるから。トップ争いするようなパーティだと足手まといになっちゃうよ」

「そんなことないって。リアっちなら大歓迎なのに。 なぁ、ナーザ?」

「ああ、それはそうだけど。無理に誘うなって」

「えー。そんなつもり無いし。寧ろ感謝してほしいくらいなんだけど。て言うか、感謝しろよコノヤロウ」

「は?」


 アッサルを睨むナーザ。

 その隣で、リアは頬を染め、急にテキパキと講義の準備をし始めた。


「はーい。では授業を始めます。 四大元素理論の一七五ページを開いてください。あと、宿題も確認するから、プリントを机の上に出して下さい」


 アン先生の声が響くと、教室の喧騒は一気に静かになっていく。

 ナーザ達も渋々ながら会話を中断し、教科書を開いた。



   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 「四時限目がアン先生の魔術理論系の講義だと、どうしても眠ってしまうね」


 困った、困った、と、全く困っていなさそうな台詞を堂々と宣うのは、きっちりと制服を着こなした、金髪の美青年だ。

 ブレザータイプで、細部にも拘りが見え隠れする制服だが、ネクタイの色で学年が分かるようになっている。

 この青年のネクタイは藍色なので、最高学年となる三年生だ。


 ここは学園の食堂こと、カフェテリア。

 昼休みの今は、多くの学生で賑わっている。

 そんなカフェテリアの一角に、四人掛けのテーブルで、ランチを取っているのが、この青年を含む四人だ。


 青年以外の三名は、ナーザとリア、そしてアッサル。

 そして、この青年は、ナーザの兄である、ダーザである。


「昼休み明けの五限がアン先生になるよりマシじゃないですか?」


 アッサルが、ちぎったパンを口に運びながら突っ込んだ。

 パンの他にも、サラダやスープと、学園のカフェテリアにしては豪勢な料理が並んでいる。


「確かに、お腹が満たされた五時限目もきついんだけど、糖分が足りていない四時限目になる方が、僕はつらいかな。アン先生はかなり細かい理論まで説明してくれるから、しっかり頭を働かせておかないと面白い話を聞き逃してしまう。それなのに、糖分不足からくる眠気が来るのだから、困ったものだ」

「兄貴らしい感想だよ。あの難しい理論を面白いなんて言ってるの、多分兄貴だけだと思うぜ?」

「流石、学園始まって以来の天才様でいらっしゃる」


 ナーザとアッサルの言葉に、ダーザが思わず苦笑した。


「何を言うんだい。ナーザもアッサルも、ちゃんと理論を一から勉強すれば、理解できる筈さ。アン先生の講義は素晴らしいよ」

「いや、無理だし。無謀だし。というか、まずやる気が起きねぇし」

「そうそう、それな。やる気を出せるって、ある種の才能だと思いますよ、マジで」

「もう……。偶にはダーザさんの言うことをちゃんと聞いて、勉強も頑張ってみたら?」

「そうだぞ、リアの言う通りだ。リアだけが僕の味方だよ」

「ダーザさん……」


 よよよ、と泣き崩れるダーザに、やや苦みの混ざった微笑みを向けるリア。

 しかし、向ける視線には、傍から見ても分かる優しさを帯びていて。


 そんなリアを、ナーザは眼を細めて、見るともなしに見ていた。


「でも、理解できる筈だって言うのは本音だよ。だって、二人とも、『アストラル・クエスト』であれだけのポテンシャルを発揮できてるんだ。才能は間違いなくあるよ。全財産賭けても良い」


 ダーザは人差し指をピンと立てて、ナーザとアッサルを交互に見遣る。

 二人とも、ダーザに褒められて悪い気はしないのだろう。どこか落ち着きなく視線を彷徨わせながら、口許を緩くした。


「……っていうか、全財産て何だよ。一○○○ゴールドも無いだろ? 殆ど『アストラル・クエスト』に課金してスッカラカンなんだから」

「む。弟よ、それは言わない約束……」

「だったら、ランチくらい自分の小遣いで払ってから言えって」

「少なくとも次の小遣いまではゴチになります」

「開き直んなし」


 兄弟のやり取りを見つつ、アッサルは笑った。

 リアも、困ったように笑いながらも、特に口を挟むようなことは無かった。


「しかし、冗談ではなく、アストラル体の能力はかなり鍛え上げられている筈だから、現実世界でも成長した実感は得られているだろ?」

「確かに、身体強化魔術なんかは実感ありますね」


 アッサルは、自分の手を握ったり、開いたりしながら、呟くように口にした。

 ナーザも思い当たるところはあるようで、首肯して見せる。


「もう、体育の講義だと、どんな内容でも二人に敵う人いないもんね」

「そうだろうね。何せ、『アストラル・クエスト』のトップパーティ、“ダーナ”のツートップだからね」


 ダーザの言葉に、リアは不思議そうな視線を、ナーザに向けた。


「『アストラル・クエスト』で鍛えると、本当に現実世界でも強くなるんだよね……。未だにちょっと信じられないけど」

「まぁ、そうだな。実際、俺達みんな強くなってるし」

「そうなんだろうけど、『アストラル・クエスト』って、多分ほとんどのクラスメートがやってるのに、ナーザ達以外で目に見えて強くなってる人たちってあんまり見ないよね。それに、マギ・ネットでもあんまりそういう話は出てないから、ナーザ達が特別なのかな、って思っちゃうの」


 リアはそう言うと、フォークにくるくるとトマトソースのパスタを巻き付けて口へ運ぶ。

 ナーザ達が一度に取る量の半分程度の分量を、丁寧に、ソースが口許に付いてしまわないよう、ゆったりとした所作で。


「そふぇは、やりふぉみふぁふぁの違ひ、ふぁね」

「兄貴、食ってから言えって」


 まだ口にパスタが残っている状態で喋り始めたダーザを、ナーザが半眼でねめつける。

 ダーザはナーザの方に「ごめんごめん」と、手のジェスチャーで示しながら、もう片方の手でグラスを取り、水と共にパスタを一気に流し込んだ。


「それは、やり込み方の違いだね。ゲーム性が強い『アストラル・クエスト』は、装備や一部のスキルを課金によって得ることができる。当然、キャラクターの強さは、キャラクター自身のステータスに装備やスキルを上乗せした総合力で決まるから、お金さえかければ強くなれてしまうのさ。 ──お金さえ、かけてしまえば、ね……」

「うわー、なんかダーザさんの言葉に闇を感じる……」


 アッサルが、若干引き気味に笑う。


「しかし、私たち“ダーナ”は、そんな強くなるための重課金は良しとせず、『アストラル・クエスト』本来の目的である、アストラル体の鍛錬によるスキルと経験の蓄積に則って、しっかりと鍛え上げた上で強さを身に着けているからね。装備は二流……いや、三流でも、ステータスとスキルが超一流であれば問題は無いと言うことさ」

「でも、兄貴の課金は止まらないんだけどなー」

「弟よ、あの美しき見た目のイベント限定・猫耳水着セット装備、欲しいとは思わないのか?! 私たちがどんなに鍛錬してもたどり着けない境地が、そこにあると言うのにッ」

「小遣い全部突っ込んでまで欲しいとは思わねぇよ」

「くぅ……ッ。弟が冷たい。──しかしッ、あと頭装備の猫耳付き麦わら帽子だけなのだ! それだけがなかなか出ないんだっ」


 涙ぐむ兄を、突き放す弟。そんな兄弟のやり取りを見ながら、リアは困ったように溜息を吐いた。


「馬鹿と天才はなんとやら、って聞くけど、ダーザさん見てると、なるほどねーって納得しちまうなぁ」


 アッサルが、グラスの水を飲み干して、残念なものを見るような視線を、ダーザに向けた。


「ダーザさんは昔からこんな感じだから」


 リアは困ったようにそれだけ言って、残りのパスタを口へと運んだ。



   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 「はっ、はっ、はっ……」


 ナーザは、家の近くの公園で走り込みをしていた。

 大きな池が中心にある公園で、芝生広場もあったり、小高い丘もあったりして、ちょっとしたピクニックもできる景色の良い広い公園だ。

 ナーザは、学校が終わるとすぐに家に帰り、この公園で走り込みをするのが日課になっていた。


 公園を一周すると、四キロメートル程になるが、ナーザはこれを毎日五周している。

 それも、かなりのスピードで。


 ナーザの家に一番近い公園の出入り口が、スタート地点であり、ゴール地点だ。

 公園の案内板があるのが目印の出入り口を視認すると、ナーザは一気にスピードを上げた。


 既に二○キロメートル近く走り込んだ後だと言うのに、同年代の短距離競技選手と遜色ないスピードを出して駆け抜ける様を、散歩に来ていたご老人が思わず振り返る。


「がんばれよーぃ」


 毎日ここで走り込みをしているナーザとこのご老人は、顔見知りだ。

 ナーザも、ご老人に手を挙げて答えつつ、公園の案内板まで一気に走った。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 案内板に左手を付き、右手は自分の膝について、前屈みの姿勢を取りつつ、息を整える。

 滴る汗を手の甲で拭おうとすると、頬にひんやりとした何かが、急に張り付いてきた。


「はい、濡れタオル。氷魔術で冷やしてあるから気持ち良いでしょ」


 ナーザが視線を向けると、そこには幼馴染のリアの笑顔があった。


「サンキュー」


 遠慮なく、良い香りがする白タオルを手に取り、汗を拭く。

 適度に冷やされ、濡らされているタオルで汗を拭くと、とても心地よかった。


「今日も来てたんだな、リア」


 ランニング用の袖なしシャツに、ジャージという恰好のナーザに対して、リアは私服だった。

 学園から一度家に戻り、着替えてからここに来たのだろう。

 あまりボディラインを強調しない、緩めのカットソーに足首あたりまでの丈のフレアスカートを合わせたコーディネート。リアらしい、可愛らしくもあり、控えめな着こなしだった。

 肌の露出は殆ど無いが、緩やかな風に揺れる布が、側面のボディラインをぼんやりと表す。


「散歩のついでだよ」

「いつも同じ理由だな」

「そ、そんなこと無いよ」

「別に良いよ、理由は何でも。助かってるから」


 ナーザは笑いながら、冷えたタオルで顔を拭き、首筋に当てる。次第に呼吸も落ち着つき、汗も徐々に引いてきた。

 リアはそんなナーザの様子を、飽きること無く見ている。

 両手を後ろに組み、一歩、離れた場所で。ナーザに当たる風の邪魔にならないように。


「この走り込みも、『アストラル・クエスト』の為なんだよね?」

「まぁな。アストラル体の鍛錬に、肉体の強化は有効だから。それに、強化魔術も、ベースの体力が向上すれば結果的に強くなるし」


 リアの質問に答えるナーザ。

 ただ、リアは、聞くまでも無く、ナーザの答えを知っていた。ナーザも、リアが質問の答えを分かっていることを承知している。

 毎日では無いにせよ、リアがこの質問をするのは初めてではないからだ。


 そしてリアは、ナーザが走り込み以外にも、様々な筋力トレーニングや魔術の訓練をしていることも知っている。


「ナーザは早々に飽きちゃうと思ってたんだけど、凄く続いてるよね、鍛錬」

「そうだな、俺も驚いてる。なんだかんだ、俺に合ってたんだと思う」


 ナーザがこうして『アストラル・クエスト』で成果を出すために鍛錬を初めて、もう三年になる。

 元々、魔術の素養も、フィジカルも恵まれていたナーザだったが、こうして鍛錬を行うようになって、見違える程成長していた。


「筋肉も凄くついてきたね。ちょっと触ってみても良い?」

「ぅえ?」

「わ、何その反応。ちょっと失礼じゃない?」

「いや、別に構わないけど、汗がつくぞ?」

「それくらい別に気にしないよ」


 リアは、それ以上ナーザが反論しないのを了解の意と取ったのか、控えめに彼の二の腕に触れた。

 最初はおっかなびっくり、軽く指先で触れただけだったが、少し慣れれば人差し指と親指で筋肉を軽く摘まむように触れる。

 ナーザは、思った以上に細い彼女の指の感触に、こそばゆく感じる微妙な居心地の悪さと、胸の内にじんわり広がる嬉しさの相反する感情に葛藤しつつ、何とか動かずにリアの指に耐えた。


「……満足か?」

「うん。凄く固かった」

「さいですか」

「うん。やっぱりナーザは男の子なんだね」

「……」


 「そう言うリアは、女子なんだな」と、思わず口にしかけた台詞を、ナーザはすんでのところで飲み込んだ。

 会話の空白に、リアが首を傾げてナーザを見上げる。

 ナーザは、そんなリアの視線を一度受けると、少しだけ頬を赤くしながら視線を切った。


「ほら、そろそろ帰るぞ。あんまり遅くまで散歩してると心配されるだろ?」


 リアの返事を待たずに歩き始めるナーザ。

 リアは、小走りでナーザとの距離を縮め、横に並んだところで歩き始める。

 ナーザも、リアが追いついた時には歩調を緩め、彼女の速度に合わせるように歩き始めた。


「別に、少し遅くなっても心配はされないよ。お母さん、ナーザと一緒にいるの知ってるし」

「そ……っか」

「うん。実際、頼りになるボディーガードだよねー」


 にしし、と綺麗な白い歯を見せて笑うリア。

 手は後ろに組んだまま、やや前屈みになってナーザを見上げる視線。


「まぁ、そうだな」


 空が茜色に染まる。

 夕方、長い二人の影が、道路に伸びていた。


「あ、でも最近またちょっと物騒になってきてるよね。 王都の魔術研究所で大量失踪騒ぎがあったし」

「確かにな。ストレンジャーの仕業だっけ?」

「噂ではね。王様は否定しているけど」


 ナーザ達が住む、ディーナシー王国。その王都にある魔術研究所で、研究員が大量に行方不明になったことが、ここ最近大ニュースとして取り上げられ続けている。

 行方不明になった研究員の数は、実に三○○人以上。その日出勤していた研究員や建物の清掃員、たまたま研究所に訪れていた商人などがまとめて行方不明になった怪事件だ。


 ディーナシー王国では、魔術研究所の大量失踪事件の前にも、まるで神隠しにでも遭ったかのように、人々が失踪する事件が続いている。

 その何れも、未だ解決には至っていない。

 いつしか人々は、超常の存在であり、別次元に住む『ストレンジャー』に誘拐されたのではないかと噂し始めるが、ストレンジャーに誘拐されたという証拠も、そもそもストレンジャーという存在の証拠すらも無いのが現状だ。

 ただ、マギ・ネットを中心として、そんな真偽の分からない噂が拡散し続けた結果、国王自らが『ストレンジャーは居ない』との声明を発表し、勅命で一連の失踪事件の調査隊を結成するなど、今王国で一番大きな事件となっている。


「まぁ、王都はここから結構離れてるし、大丈夫だろ。各街の憲兵隊も見回りを強化してるって言うし、必要以上に警戒しても仕方ない」

「そうかも知れないけど……。いつも落ち着いてるよね、ナーザは」

「そうかな?」

「そうだよ。……でも、そういう所、なんか安心するけどね」

「何だよ、それ」


 「えへへー」と笑顔を見せるリア。

 リアの笑みに釣られるように、ナーザの表情も優しさが混じる。


 周囲は住宅街。時刻は夕食の準備の頃合い。多くの家から食欲を刺激する良い匂いが漂ってくる。


 程なくして、ナーザ達は一軒の家の前で立ち止まった。

 黒く塗られた鉄の門。その向こうには庭が広がっていて、奥には少々大きめの建物が見える。

 ただ、この辺りの家はどの家も同じような大きさと造りになっており、この家が特別大きいというわけではなかったが。


「んじゃ、ナタリアさんによろしくな」

「うん。折角だし、寄っていく?」


 リアはそう言って、すんすん、と目を閉じて漂う匂いを確かめた。


「多分、今日の夕食はビーフシチューだよ。ナーザの大好物だよ?」

「凄ぇな、分かるのかよ」

「流石にこの距離で分かる筈無いじゃん。でも、当たってる気はする」

「勘なのかよ!」


 思わず突っ込みつつ、笑うナーザ。

 リアも釣られて笑った。


「流石にそこまで世話になるのもな。今日は帰るよ」

「ざーんねん。じゃぁ、気を付けて帰ってね」

「あいよ。……っていうか、隣だからそうそう気を付けることも無ぇけどな」

「それでもだよ。 あと、『アストラル・クエスト』やり過ぎないようにね」

「それは、なかなか難しい相談なぁ。 んじゃ、またな」

「うん。また、明日」


 ナーザはそう言うと、隣の自分の家へと歩き始める。

 途中、振り返ると、リアはいつも通りまだ門のところでこちらを見ていた。

 目が合うと、嬉しそうに手を振っている。


「中入れって」


 少し大きな声でそう言うけれど、リアは聞き入れず、首を横に振った。

 そして、一際大きく手を振る。


 ナーザが、小さく溜息を吐きながら、手を振り返すと、リアは嬉しそうに笑った。


 結局、ナーザが家の門に入るまで、リアは自分の家の門に入るらなかった。



   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 「――と、言うわけで。 私達のパーティ、“ダーナ”のランキングトップを祝して、乾杯!!」

「かんぱーい!」

「兄貴、声デカいって」

「あはは、お疲れ様です」


 とある昼休みのカフェテリア。

 多くの学生が昼食をっている中に、ダーザ、ナーザ、アッサル、リアの四人は居た。


 昨日の夜中に終わったランキングイベントは、ナーザ達の“ダーナ”がトップで幕を閉じたのだ。

 今日はその打ち上げで、ここに集まった次第である。


 手に持っているのは、カフェテリアで購入した炭酸入りのジュースだ。決して、アルコールではない。

 琥珀色で、ちょっとしゅわしゅわしているジュースだ。

 ランチメニューに加えて、いつもは頼まないちょっと豪華なドリンクを一緒に頼み、四人はテーブルに居た。


「しかも、アッサルは槍士(ランサー)部門で堂々の二位、ナーザは剣士(グラディエーター)部門で、何と一位! 鼻が高いよ、僕としては」


 ダーザは、非常に上機嫌だった。


「それを言うなら、ダーザさんは賢者(セージ)部門の不動のトップじゃないですか。そろそろ殿堂入りも見えてきてるんじゃないです?」

「僕のことは良いんだよ。今回の大躍進は、アッサル君とナーザの成長が、やはり大きいからね」


 ダーザとアッサルの会話を聞きながら、リアは隣に座るナーザに声を掛けた。


「今回、みんな本当に凄かったんだ。 ナーザも、おめでとう」

「ありがとう。……って、何かこそばゆいな。言っても所詮ゲームだから」


 ナーザのその言葉に、ダーザが過剰に反応した。

 バン、とテーブルを強く叩いて拳を握る。


「所詮ゲーム。されどゲームだ。特に、AR魔術教育カリキュラムの側面がちゃんとある『アストラル・クエスト』で成果を残せたのは大きい。実際、色んな所からスカウトメールが来てるだろう?」

「え、そうなの?!」


 驚くリアを横目に見つつ、ナーザはポケットから掌サイズのマギ・ネット端末を取り出した。

 これは、所有者の魔力を動力として動作する魔術機械であり、マギ・ネットに接続して情報を検索したり、同じ端末を持っている相手にメッセージや音声を届けたりすることができるものだ。

 ナーザは手慣れた手つきで端末を操作して、『アストラル・クエスト』の自分のアカウントに来ているメッセージの一つを開いて、リアに見せた。


 リアは端末を受け取ると、メッセージを読み始める。


「てっきり出来の良い迷惑メッセージかと思ってた。兄貴、これ本物なんだ?」

「本物だとも。僕もランキングトップになるまで貰ったことが無かったから、最初は偽物だと思ったけど、そういったものは『アストラル・クエスト』の運営側がちゃんと弾いているらしい。だから、まだメッセージボックスの中にあるなら、紛れも無く本物さ」


「凄いよ、ナーザ。これ、王国騎士団からのスカウトだよ! アッサルにも来てるの?」

「ああ、来てたな。王国騎士団と、この街の憲兵隊から来てたっけ。 ナーザと同じく偽物だと思ってたから、放置してっけど」

「二人とも凄いよ!」


 自分の事のように喜ぶリアを見て、ナーザもアッサルも、今更ながら恥ずかしくなったのか、微妙な笑みを浮かべて互いを見遣った。


「ほらほら、リア、褒めるのは良いけど、二人とも顔が真っ赤だ。少しは手加減してあげないと」

「ちょ、何てこと言うんすか、ダーザさんっ」


 アッサルが抗議の声を上げるが、ダーザは何処吹く風。

 グラスを傾けながら、ランチとは別に、全員がつまめるように注文していた、バスケットに入ったフライドポテトを摘まみ、食す。

 リアは、そんなアッサルと、何も言わず視線を逸らしているナーザを順番に見て、笑みを深くした。


「でも、本当に凄いね。これで、学園を卒業しても安泰だね」


 そう言いながら、ナーザに端末を返すリア。

 ナーザは受け取った端末をポケットにしまいながら、僅かに眉を顰めた。


「まぁ、嬉しくはあるし、興味が無いわけでは無いけど、別に騎士になりたくて『アストラル・クエスト』やってるわけじゃ無いしなぁ」

「それな! 俺も、何かちょっと違うなーとは思うんだ。鍛錬は面白いし、自分の技術が上がってるのは嬉しいんだけど……」

「ははっ、別に今すぐ答えを出す必要はないよ。卒業までまだ二年あるんだし、ゆっくり考えると良いさ」

「兄貴が珍しくまともなことを言ってる……」

「失礼な」


 代り映えのしない日常ではあったが、ナーザはこの日々が嫌いでは無かった。

 魔術に関すること以外にはだらしないが、色々と世話を焼いてくれる兄、ダーザ。

 五年ほどの付き合いだが、胸を張って親友だとも言える悪友、アッサル。

 そして、いつも自分達の傍にいて、笑ってくれるリア。


 特に仲の良い四人と、気心の知れたクラスメート。

 厳しいながらも、優しさをもって導いてくれる、アン先生をはじめとする教師陣。


 当然、嫌なことだってあるけれど、どこにでもありそうで、ここにしか無いこの日常が、ナーザは嫌いでは無かった。


「ナーザ? どしたの、ニコニコして」


 ナーザの顔を覗き込むように、隣のリアが見上げてくる。

 少し自分の思考に埋もれていなナーザには、それが不意打ちになった。

 急に眼前に現れた、見知った可愛らしい顔に、ナーザの顔が赤くなる。


「何でもッ、無いし」


 そう言って、ふぃと、視線を外し、カフェテリアの外──学園の中庭に目を向けるナーザ。

 一年を通して、専属の庭師が丁寧に手入れしている見事な庭の景色が見えた。


 その瞬間。



 ──セカイが真っ白に染まった。



   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 「──ぐッ」



 ナーザが最初に感じたのは鋭い痛みだった。

 どこの痛みなのかは定かではないが、間違いなく何かがおかしい。そんな嫌な予感のする痛みだった。


 ゆっくりと、意識が覚醒していく。

 まず、目に入ってきたのはタイル張りの床だった。

 霞んだ視界がはっきりしていくにつれて、自分がカフェテリアの床に倒れていたことに気付く。


「一体何……っづッ」


 起き上がろうと腕に力を入れた瞬間、明らかな激痛が走った。


 今度はゆっくり、体を起こしていく。

 まず腕を動かし、手を床に付き、力を入れ──


「グ……ッ」


 なるほど、体中がおかしいが、特に右手首に鋭い痛みがあると、ナーザは理解した。だが、外傷は無いように見える。骨にも異常はなさそうだ。──しかし、確実に、痛みはそこに存在した。

 今度は手首に力を入れないように注意して起き上がる。

 まるで全身が酷い筋肉痛に見舞われたような感覚の体を鞭打って、周囲を見ると、自分のすぐ横に幼馴染が倒れていることに気付く。


「リア? リア! しっかりしろ」


 声を掛け、彼女の鼻先に手の甲をやる。

 僅かに吐息を感じる。どうやら、気を失っているだけのようだ。

 ナーザはひとまず胸を撫で下ろし、さらに周囲を見まわした。


「兄貴、アッサル、大丈夫か?」


 すぐに、テーブルの向こう側に倒れている二人を発見したナーザは、リアを避けるようにしてテーブルを回り込み、二人に声を掛け、呼吸を確かめる。

 こちらも、気を失っているようで、息はしているようだった。


「……それにしても……」


 改めて、周りを見る。

 カフェテリア自体の景色は、自分が知っているものとほぼ変わらなかった。メニューも、セルフサービスのウォーターサーバも、配膳カウンターも、テーブルも。

 ただ、そこに居た全ての人間は、床に倒れるか、机に突っ伏すように倒れるかしている。

 目を覚ましている者は、ナーザ以外には居なさそうだった。


「一体、何が起きたんだ? ……何かが起きたのは間違いなさそうだけど」


 カフェテリアの窓を見る。そこには、中庭の木々が見えたが、空は真っ白だった。

 ついさっきまでは、雲一つない青空だったというのに、今は白一色で覆われている。

 雲では無さそうだ。ただ、それ自体が発行しているのか、辺りは昼間と同じように明るい。


 その時、ナーザは自分の足元から声が聞こえた。目を向けると、ダーザが苦しそうに呻いている。


「兄貴、大丈夫? どこか痛むところは?」


 軽くダーザをゆすると、彼はゆっくりと目を開いた。

 最初は焦点が合わない様子で、どこを見ているのか分からなかったが、暫くするとナーザをしっかりと捉えたようだ。


「あ、ナー……ザ?」

「ああ、俺だよ。大丈夫?」

「っ……、どこもかしこも痛む感じだね。だけど、まぁ、何とか大丈夫。……何が起きたんだ?」

「分からない。気が付いたらみんな倒れてた。 一応、リアとアッサルは無事そうだ。息はしてる。他の皆はまだ確認してないけど」

「そっか。それは、何より……」


 顔を顰めながら起き上がろうとするダーザの手を取るナーザ。優しく手を貸し、彼の体の負担にならない程度に引き上げつつ、彼が体を起こすのを手伝った。


「ありがとう。これは……全身筋肉痛と言うか、滅多打ちにされた後みたいと言うか……、全身くまなく痛い感じだね。魔力欠乏症の症状にも似ているかも知れない」

「俺も。起きたらこんな感じだ。後、外を見て」

「……これはこれは」


 空が真っ白の景色を見て、ダーザが額に手を当てた。

 何をどう表現して良いのか分からず、小さく溜息を吐いている。


「何かが起きているのは間違いなさそうだね。あれは……魔術結界? それにしてはあまり見ない術式が使われている気がするけど」

「そうなのか? 俺には良く分から……」


 ナーザの言葉が途中で止まった。

 それは、ダーザが白く発光しているように見える空──本人曰く魔術結界──に、釘付けとなってしまったからだ。

 魔術が絡むといつもこうだった。たとえ隣で大声を出そうと、それに気づかない程の集中力で没頭する。ぶつぶつと、独り言を呟きながら、術式を読み解き始めたら簡単には止まらない。

 そのことを知っているナーザは、まさに魔術結界らしきものに集中し始めたダーザへ話しかけるのを諦めたのだ。



「ほう。この中で意識を保っている者がいるとは、驚きだ」


 不意に聞こえてきた声に、ナーザは構えた。

 相変わらず術式に夢中のダーザを背にし、アッサルやリアも庇う位置に立ち、声がした方を睨む。


 そこには、重厚な全身鎧(フルプレートメイル)を纏った何者かが立っていた。カフェテリアの入り口からこちらを見るように立つその者は、真っすぐにナーザの方へ体を向けている。

 特注なのだろうか。鎧の継ぎ目は魔力を帯びた布があり、装備者を完全に覆い隠すものになっている。兜の部分は顔まで完全に覆う形となっており、目元だけがガラスのような半透明の素材でできているようだった。

 故に、その者が男性か女性かも分からない。見た目の身長は一七○センチメートル程だから、男性でも女性でもあり得そうな身長だ。


 その者は、手にマチェットを巨大化させたような大剣を持っている。サイズは明らかに両手剣だが、右手だけで軽々と持っていた。


「誰だ」


 ナーザは右足を引き、半身になって全身鎧と対峙する。

 何があっても対応できるよう、体内の魔力は解放し、相手の死角になる右手に集中させた。

 力を入れると右手首に激痛が走ったが、痛いと分かっているなら驚くことも無い。ナーザは、表情には出さず、痛みも理性で抑え込んで右手を力強く握る。


「答える義理は無い。──ほぅ、意識を保つだけあって素晴らしい魔力量だ。我が国の筆頭魔術士に勝るやも知れん」


 ナーザは心中で舌打ちした。

 相手は魔術士らしく、魔力を感じることができるらしい。

 仕方なく右手に集中させていた魔力はそのままに、残りの魔力を体内で循環させ、身体強化術を自身に施す。


「兄貴、そろそろこっちに戻ってきてくれってッ」


 後ろのダーザにだけ聞こえるような声量で伝えるが、そもそも大声で怒鳴ったところで切れない集中を、この程度の声かけで切らすことなどできるわけが無く、ダーザはまだ術式を見つめたままだった。


「抵抗されても面倒だ。二人とも、眠ってもらおう」


 全身鎧の何者かは、そう早い動きでは無かった。

 ガシャガシャと、鎧の音を響かせながら、ナーザへと迫ってくる。

 だが、ナーザはその場から動くことはできない。自分の後ろには、兄であるダーザや、リア、アッサルがいるのだから。


 鎧の騎士が、右手に持つ大剣を振り上げた。

 片手で軽々と振り上げ、そのまま振り下ろす様は、剣術を知ったものの剣筋であり、常人に見切るのは難しいであろう速度を以てナーザへと迫る。


 ──だが。


「遅ぇよ」


 ナーザは、強化した左手の甲を大剣の側面に合わせ、勢いを殺すのではなく、横へ逸らすように軽く押した。

 それだけで、大剣の剣筋はナーザから僅かに外れた軌道へと逸れる。

 その隙を逃さず、引いていた右足を踏み出しながら、右手に込めた魔力を、全力で全身鎧の顔面目掛けて放った。


 ナーザが一番得意としているのは剣だが、身体強化した状態での拳打は、岩壁すらも崩す威力がある。日々の鍛錬と、『アストラル・クエスト』で培った経験で、そのくらいはやってのけるだけの魔術と体捌きを得ているのだ。


 ナーザの右拳は、吸い込まれるように全身鎧の兜へと向かい──



 ──ピタリと止まった。



「なっ?!」


 鎧に弾かれた訳では無い。

 兜に当たる直前の、何も無いはずの空間でピタリと止まった拳に、ナーザの表情が驚愕に染まる。

 相手は魔術防御を張っているわけでも無さそうだ。そんな、魔力の流動は無かったし、詠唱していた様子も無かった。だが、現実として、自分の拳は相手に届かなかった。


「ほう、良い動きだ」


 その言葉を聞いた瞬間、腹部に焼けるような痛みが奔る。

 咄嗟に体を引き、直撃こそ回避したものの、大剣がナーザの体を刻んだ傷は、浅くは無かった。

 どくどくと流れる血。左手で抑えるが、抑えきれない程の大きな裂傷が刻まれた腹部。

 制服は既に、真っ赤に染まっている。


「ナーザ、これはまずいことになったぞ!」


 漸く、現実へ戻って来たらしいダーザが、大声を上げた。


「もう十分マズいから。兄貴も手伝えって」

「……む?」


 ナーザの言葉に振り返ったダーザは、その光景を見た瞬間に魔術を発動した。


治癒(ヒーリング)疾風の弾丸(エアロバレット)


 瞬時に二つの全く異なる魔術を発動するダーザ。魔術の申し子、学園始まって以来の天才は、まるで呼吸でもするかのように、複数の魔術を同時展開する。

 ナーザの腹部の傷が一瞬で塞がり、全身鎧を数メートル後方へと弾き飛ばす。


「いつの間にお客様が」

「兄貴が術式に没頭してる間にだよ」

「……ただ呆けているだけかと思ったが、そっちもなかなかの使い手のようだ」


 吹き飛ばされた全身鎧だったが、目立ったダメージを負った様子は無く、変わらず涼し気な声でナーザとダーザへと顔を向けた。

 そして、今度は距離を詰めることなく、その場から二人を見ている。


「まぁ、お客様は良いとして、ちょっとマズいことになったみたいだよ、ナーザ」


 まるで、敵などいないかのようにナーザへ話を始めるダーザ。

 油断しきっているように見えるが、ダーザの周囲には次々と魔法陣が出現し、魔術が発動していく。


「あの空の白い結界は、次元を隔て、此処と何処かを繋ぐ役割があるように思えるね。初めて見る術式だから想像だけど、当たらずとも遠からずというところじゃないかな」


 水の弾丸が全身鎧を穿ち、足元から火柱が立つ。ついでとばかりに頭上から岩塊が落ち、光線が全身鎧の胸部へと放たれる。


「推測するに、今世間を騒がせているストレンジャーの正体が、あのお客様なんじゃないかな。仮に次元を繋ぐ術を使うのだとしたら、三○○人だろうが、一○○○人だろうが、攫って行くのは簡単だろうからね。

 そして、こんな大がかりな魔術を前触れ無しに発動させることに成功しているのだから、かなり高い魔術の技術を持っていると見て間違い無い。これはかなり分が悪いよ」


 思わずよろけた全身鎧の背後から、ぬ、と影が立ち上がり、巨大な鎌となって鎧ごと両断せんと振り下ろされる。

 全てを、ナーザへの会話の裏で詠唱しつつ、即時発動していく様は、見事というより他無かった。


「おのれ、効きはせぬが鬱陶しい……ッ」

「む。お客様が怒っておられる」

「……まぁ、怒るだろうな。て言うか、兄貴の魔術をあれだけ喰らって無傷ってどういうことだよ」

「彼?彼女?の鎧の周りに、見慣れない力場が形成されているようだね。単純な防御系の魔術ではないから、次元を操る術式の応用かも知れない。物理も魔術も、この程度の威力だと簡単に防がれてしまうようだ。流石の技術力と言ったところかな」


 相変わらずマイペースなダーザ。

 ナーザは慣れているが、全身鎧の騎士は苛ついているようで、言葉の端々に感情が表れていた。


「じゃぁ、どうするんだよ、兄貴」

「うーん、正直お手上げじゃないかなぁ」

「諦めるのかよ?!」

「そういう訳では無いけどね。うーん、どうしようか」


 相手に魔術が効かないのであれば、と、ダーザは次々にナーザへバフ効果のある強化魔術を施していく。筋力強化に魔力強化。防御術に抗状態変化術。

 次々と、まるで連続する音楽のように、連弾のように、次々と折り重なる魔術の旋律。

 一見すると、そのレパートリーや多重発動、速度に驚かされるダーザの魔術だが、真骨頂はそこではない。


「まだ、終わらないのか」


 全身鎧の騎士は、終わりの見えない魔術の旋律に驚愕していた。

 そう。これだけの魔術を発動しても、ダーザの魔力は底をつかない。類い稀な魔力量が、連弾の如き多重発動や高速発動を強力に後押しする。

 これこそが、ダーザが魔術の申し子、天才と言われる所以だ。


「これは、驚嘆に値する魔術士だ。こちらには(・・・・・)このような魔術士がいるのだな」

(こちら?)


 その微妙な言い回しに、ナーザは違和感を覚えた。

 だが、その正体が何かを考える暇は無い。


 目の前の敵に対処しなければならないし、リアやアッサル達も助ける必要がある。


 守りながらも打倒する算段を立てているナーザ。

 だが、その時間は唐突に終わりを告げる。


「隊長、準備が整いました」


 カフェテリアに、全身鎧を身に纏った集団が現われた。

 初めに居た者よりも簡素なデザインの全身鎧ではあるが、接合部が魔力を帯びた布で繋がれていたり、目元がガラス状の何かで出来ているというところは共通のデザインとなっている。


「ちっ」


 思わず舌打つナーザ。ざっと見ただけでも、十人以上は居る。目の前の一人相手ですら大変な状況で、この人数を相手にするのはかなり難しいと言わざるを得ない。


「なっ」

「意識があるヤツが居る?」


 ナーザとダーザを見て、新手の者達が、各々驚きの声を上げていた。

 しかし、隊長と呼ばれた者が手を挙げると、全員が口を閉ざし、静寂が訪れる。


「……ふむ。お前達ともう少し遊んでも良かったが、任務が最優先だ」


 隊長らしき者はそう言うと、腰の後ろから白色のオーブを取り出し、床に叩き付ける。

 パリン、と、まるで繊細なガラス細工が砕けるような音と共にオーブが砕け、そこから膨大な魔力が、まるで巨大な竜巻のように吹き荒れた。


「これは……ッ」


 ダーザが即座の防御魔術を展開するが、異変は別の所で起こった。


「あ、ああああああああっッ」

「がああああっ!!」


 突然、リアやアッサル、カフェテリアに倒れて居た生徒達が苦しみ始めたのだ。

 今まで静かだったカフェテリアに、大音量の絶叫が響き渡る。


「リア! アッサル! ――! ぐがああッ」


 リアの近くにしゃがみ込んだナーザだったが、右手首に激痛が走り、その場に蹲ってしまう。

 ダーザも、心臓のあたりを押さえ、その場に蹲っていた。


「こ、れは……ッ」


 ダーザは自分の胸を見て、驚愕する。

 あろう事か、心臓あたりが金属となっており、その部分が徐々に、肩や腹部へと広がっている。


「変、質?」

「そう。良く分かったな。お前達はその命を燃やし、文字通り道具となるのだ。我々に使われるためのな」


 隊長格の愉悦に歪む声を聞き、ダーザの表情に初めて焦りが見える。

 ダーザは咄嗟にマギ・ネットの携帯端末を取り出して操作を始めるが、リアの隣にいるナーザを見て目を見開いた。


「くそ……がッ。ふざけんじゃねぇ……ッ!」


 ナーザは、右手首から金属化が進んでいた。彼の右手は既に人間のそれではなく、まるで剣のように鋭い金属へと変質している。


「今すぐ解除しやが、れッ!」


 ナーザは一気に隊長格に迫ると、まだ無事な左手に魔力を篭め、全力で顔面を殴りかかった。


「馬鹿なっ、まだ動けるのか?!」


 驚き故に、対処がワンテンポ遅くなった隊長格の騎士は、ナーザの攻撃をそのまま受けてしまう。

 ゴギン、と、鈍い音がして、全身鎧の兜がぐるりと回った。その影響で、首元と兜を繋いでいた布が破れる。


「隊長!」


 後ろに控えていた騎士が慌てて駆け寄るが、ナーザは止まらない。


「リア達に、何してくれてんだよ、このクソが!!」


 ナーザの右腕が、肘辺りまで金属化している。

 全身を引き裂かれそうな痛みはあるが、怒りがそれを凌駕したのか、ナーザは止まらなかった。

 蹌踉めく隊長格にタックルを食らわせて転ばすと、馬乗りになって再度左の拳を振り下ろす。


 ゴギン、ゴギ、ガギン!!


 ダーザの強化魔術の恩恵を受けたナーザの左拳は、凶器そのものだった。

 殴る度に兜が、鎧が、拳の形に変形していく。

 最初は、鎧に触れる事すら無かった攻撃が、今は面白いように当たり、確実にダメージを与えていった。


「調子に、乗るなああっ!」


 隊長格の騎士を助けるべく、駆けつけた騎士がナーザを手持ちの剣で斬りつける。そして、別の兵士がナーザを蹴飛ばし、隊長から引きはがそうと試みた。


 ナーザはその全ての攻撃を防いだが、多勢に無勢、後ろに飛ばされる。


「大丈夫ですか?!」


 騎士の一人が隊長格を起こし、兜の向きを直すと、首元に出来た布の切れ目を覆うよう、別の布でぐるぐる巻きにしていく。

 まるで、この空気に肌を晒すことを防ぐように。


「やってくれたな!」


 隊長格の騎士が、慟哭のような声を上げた。

 表情は見えないが、怒り狂っているだろう様子が、声から十二分に伝わってくる。


 ナーザは、隊長格の騎士を睨みながら、膝を付く。

 右腕は、上腕まで金属に変わっていた。


「早く解除しろ!」

「それは無理だな。一度発動したら止める術は無い! お前達は皆、苦しみの末に生まれ変わるんだよ!!」


 見れば、リアは頭を抱えるようにして蹲っている。

 アッサルは左足を押さえながらのたうち回っていた。

 他の生徒も似たり寄ったりだ。

 大絶叫が轟く、まさに地獄絵図。

 ある者は金属へと変化していき、ある者は巻物のような何かに変化していく。誰も彼もが、絶叫しながら、人間ではない何かに変わっていく。


 ナーザは、自分の右腕を見た。

 もう肩の近くまで金属に変わってしまった其れを見て、叫ぶ。


「兄貴、腕を切ってくれ!」


 その言葉に、ダーザが息を飲む。

 目を見開き、弟の姿を見遣る。

 ダーザは何かを言いかけて口を開くが、言葉にすることは無かった。


「早くッ!!」


 ダーザは、ナーザという弟がどんな人間かを良く知っている。

 一度言い出したらなかなか自分の意見を曲げないことも、何もかも。

 本当は駄目なのかも知れない。

 だけど、それ以外の方法は思い当たらない。

 回復魔術も、何もかも、自分に打てる手は自分の体にもナーザにも試してみたが、全て効果が無かった。

 自分が打てる手が無いことも理解していた。


 ――理解できているからこそ、それしか方法が無いことも、分かってしまった。


「ナーザあああっ!!」


 最愛の弟の名を叫びながら、ダーザは風の魔術を放つ。


 せめて一瞬で。


 そう思い、渾身の一撃を放ったダーザ。

 ナーザの右腕が、吹き飛んだ。

 肩から先、全てが切断され、くるくると宙を舞う。

 それはまるで銀色の剣のようであり。肩から舞う血飛沫は、雨の様でもあった。


「ああああああッ!!!」


 ナーザは、宙を舞う己が右腕を左手で掴むと、近くにいた騎士に斬りかかった。


 剣の如きそれは、あっさりとその騎士を縦真っ二つに両断する。


「何っ?!」


 隊長格の騎士が、その様子に驚きの声を上げた。


「この術を止めろって、言ってるだろうがああっ!!」


 ナーザは、また一人、二人と、近くにいる騎士に斬りかかっていった。

 ある者は首がはね飛ばされ、ある者は袈裟懸けに体を切断され、ある者は心臓を貫かれ――。


 片腕の狂戦士が、五つの命を瞬時に屠った。


「ぐっ、任務は既に完了している。総員、退却!」


 隊長格の騎士がそう言うと、騎士達は転移魔術を行使したかのように、その姿を消した。


「待てよ、この野郎!!」


 ナーザが叫ぶ。

 だが、其れを聞く者は居ない。


 そこには、ただただ、生徒達の絶叫が響くのみ。


「クソッ、リア。 アッサル、兄貴ッ」


 力尽きたナーザは、その場に倒れ伏した。

 視界の端には、リアがいた。

 その姿は――およそ人のそれでは無かったけれど。


「リ、ア……」


 左手を伸ばす。

 伸ばしても、リアには届かない。

 彼女は、――彼女の体は、その美しいエメラルドグリーンの瞳と同じ色の石に変化していっていた。

 体は既に無く、美しい球体の石に変化している。

 ただ、見知った美しい顔が、その表面に辛うじて残っていた。


「ナ、ざ……」


 リアの目がこちらへと向けられる。

 彼女も手を伸ばそうとしているのだろうか。カタカタと、石が揺れる。


「だい、じょ……ぶ?」


 ――そして、彼女は完全に変質した。



「ああああああああああああっ!!!」



 ナーザの意識も、そこで途切れた――。



   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 その後のナーザの記憶は曖昧だった。


 街の憲兵隊に助けられ、病院へと搬送され――

 何人もの憲兵隊から話しかけられ、医者に診断され、回復術士に傷を癒され――


 憲兵隊の隊長に質問され、領主に学園の様子を聞かれ――


 色々なことがあったが、その全てに現実感が無く、まるで醒めない悪夢の中を漂っているような、最悪の気分だった。


 大事な人達を守れなかった?

 勿論、それもある。

 しかし何よりも堪えたのは、大事な人達が(・・・・・・)居なくなった(・・・・・・)ことだ。


 気が付くと、カフェテリアには自分しか居なかった。

 リアがいた所にも、アッサルがいた所にも、ダーザがいた所にも――何も無かった。

 皆、何かに変わっていったのだから、変化した何かが残る筈。

 それすらも、無かった。


 まるで、全てが夢幻だったかのように。



 そして、確かに無くなった筈の自分自身の右腕すら、何事も無かったかのように元通りになっていた。

 金属になった筈の腕が、元々の人間の腕として、ちゃんとついていた。


 その事実を突きつけられ、ナーザは全てが分からなくなってしまった。




 やがて、ナーザは王都へ連れて行かれた。

 とある人達に会うためだ。


 起きているのか寝ているのか、生きているのか死んでいるのかも分からない中、ナーザは椅子に座って、誰かを待つ。

 ここが何処なのかも分からない。

 説明を受けた気はするが、全く記憶に残らなかった。


 ぼんやりと見れば、やたら豪華な調度品が並べられている。

 貴賓室のような場所だった。


 ナーザはその部屋の椅子に腰掛け、窓がある方を見ている。

 腰掛けている椅子は、立派なソファが張られていて、とても座り心地が良い。



 不意に、ポケットの中のマギ・ネット端末が震えた。

 何等かの通知が来た証だ。

 こんな状態でも、日頃の癖が出るようで、ナーザは何気なしに端末を手に取り、その画面に視線を落とした。



「よ、ナーザ。元気かい?」



「………………は?」


 ナーザの目に、僅かな光が灯った。



   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 「いやぁ、コツを掴むまで時間が掛かってしまった。これはなかなか維持が難しいね」


 ナーザはごしごしと腕で目をこすった。

 そして、マギ・ネット端末の画面を見る。

 そしてまた、目をこすって、端末の画面を見る。


「どうしたのさ? 目でも痒いのかい?」


 画面に表示されたダーナが、そう語りかけてくる。


「はあ?? 兄貴?!」


 素っ頓狂な声を上げ、椅子からずり落ちそうになるナーザ。

 ぎりぎりの所で踏みとどまり、座り直すと、もう一度画面を見つめた。

 やっぱり、そこには見知った顔がある。


「そう。ダーザだよ。ちょっと肉体は失ってしまったが、何とかアストラル体だけ、マギ・ネット上に待避させることに成功したらしい。『アストラル・クエスト』を利用したんだけど、何とかなるものなんだね」

「いや、意味が分からん……」


 兄が何を言っているのか、どういう理屈なのか、そもそも画面に映っているのが兄なのか。自分はまだ夢を見ているのか。

 あらゆる思考がナーザの脳内を駆け巡るが、一つ、確かなことは、彼の目に生気が戻って来ていることだ。


 そんな、混乱気味のナーザを、画面のダーザが優しい笑みで見遣るが、不意に、真面目な顔になり、告げる。


「良いかい? この姿を維持するのはちょっと難しいから必要な事を言うよ。全部覚えるんだ」

「え? どういう……」


 ナーザの困惑を無視し、ダーザが続ける。


「やはりあいつ等はストレンジャーと呼ばれている連中で間違い無さそうだ。次元を繋ぐ結界を張り、その中の命を何らかの方法で道具に変え、それを彼らの次元に持って行ってしまった。だから、リアも、アッサルも、僕の体も彼らの次元に取り込まれてしまったよ」


 ダーザの口から語られる内容は、信じ難い話だった。

 「嘘だろ?」と言いかけるが、ナーザはその言葉を飲み込み、ダーザの言葉に耳を傾ける。一言一句、逃さぬように。


「次元を繋ぐ術式の解析を僕なりにやってみた結果を、この端末のメモに残してある。それを踏まえ、術式を完成させるんだ。そうすれば向こうの次元へこちらから行くことも可能になる筈だよ。

 それと、ナーザが一人こっちの世界に残ったのは、変質していた右腕を切り飛ばしたことで、変質を避けられたことが原因のようだ。

 もし、また彼らが襲ってくるなら、対抗魔術ができるまではこの方法で切り抜けるしか無さそうだね。

 あ、ナーザの右腕は、一応くっつけておいたけど、金属化したところは直せなかった。今は治っているように見えるけど、魔力を通すと金属に逆戻りすると思う。 ごめんよ、ちゃんと治せなくて」


 ナーザは、見た目だけは元通りになっている自分の右腕を見た。

 力を篭めれば、当然だが曲がる。拳を握ることが出来る。だが、少しでも魔力を流すと、右腕は肩から指先まで全てが金属と化した。あの時見た自分の腕が、夢でも幻でも無かったのだと、思い知らされた。


「僕はこれからもこの端末に居続けようと思うけど、こうして話すのはどうも難しいみたいで、期間限定になりそうだ。

 消えてしまうのか、また時がくればこうして話せるのかは分からないけど、僕はずっと、ナーザを見ているよ」


 優しい、兄の笑顔だった。

 目頭が熱くなるのを、ナーザは感じた。

 涙が零れそうになるのを、堪え、滲む視界で兄を見る。


「――でもね、僕はナーザには生きて欲しい。ナーザとして、この世界で生きていて欲しい。復讐する必要なんて、無いからね」

「ッ ――兄貴!」


 ダーザの姿が、ぷつり、と消えた。

 そこには初めから何も無かったかのように。


 涙が溢れた。

 胸がかき乱された。


「あああああああっ」


 マギ・ネット端末を握りしめ、年甲斐も無く泣き叫んだ。

 全てが自分の妄想のようにも思えたが、確かに存在する右手の感触が、現実だと叫んでいるように思えた。




 ナーザが一頻り泣いた後、部屋の扉が開かれる。

 そこに現われたのは、壮年の男性二人だった。


「ほう。抜け殻だと聞いていたが、そうでも無さそうだぞ」

「そのようですね。何があったかは分かりませんが、良い傾向でしょう」


 落ち着いたデザインの上品な洋服を身に纏い、美しい宝飾品を身に纏った男性の言葉に、騎士服の男性が答える。

 ナーザは、涙の痕を腕で拭い、突然部屋に入ってきた二人を見た。


「ああ、そのままで良い。非公式の場であるし、君はまだ病み上がりだろう」


 上品な洋服の男性は、そう言いながらナーザの向かいの椅子に腰を下ろす。

 騎士服の男性は、そのすぐ横に移動し、立ったままナーザへと視線を向けた。


「案内した者から、今置かれている状況を理解できていないかも知れないと報告を受けているから、改めて自己紹介から進めよう」


 騎士服の男性は、そう言うと一歩前へ出て、手を自分の胸に当てた。


「私は王国騎士団特務隊隊長のリーアム・オブライエン。そして、こちらがアルド国王陛下です」


 その紹介を聞き、ナーザはすぐに、慌てて椅子から降り、その場に跪いた。


「あぁ、良い良い。さっきも言ったが非公式の場だ。座りたまえ。頭も下げんで良いぞ」

「……ありがとうございます」


 ナーザは少しだけ躊躇いを見せたが、椅子に座り直した。今度はソファに背を預けるようなことはせず、姿勢正しく座り、アルド国王へと顔を向ける。

 四一歳。前国王が若くして崩御したため、それでも在位十年以上の実績を持つアルド国王。

 緩くウェーブしたライトブラウンの髪に、同色の手入れされた髭。強い意志が宿る碧色の目つきは鋭いが、キツい印象は無かった。

 寧ろ、何処か優しさすら感じる彼の佇まいに、ナーザは息を呑んだ。

 椅子の肘掛けに肘を当て、親指と人差し指で自分の顎を撫でながらナーザを見る碧眼。


「うむ。報告とは随分違うようだ。なかなか気骨のある若者じゃないか」

「そのようです」


 口角を引き上げるアルド国王に同調するリーアム。

 特務隊隊長であるリーアムは、金髪の長髪をオールバックにして、後ろで一つに束ねている。

 騎士服の上からでも分かるほど、体はしっかりと鍛えられている。そして、ただそこに居るだけで場の空気が変わるような、強者の風格を兼ね備えた人物だった。


 アルド国王は、ナーザの様子に気を良くしたのか、口角の笑みはそのままに、体を前に乗り出して話を続けた。


「回りくどいのは好かんから、早速本題に入らせて貰う。

 君が何処まで聞いているか――いや、覚えているかは知らんが、君を王城(・・)に呼んだ理由は一つだ。君が巷でストレンジャーによる集団拉致事件と噂されている事件で、唯一拉致されな(・・・・・・・)かった被害者(・・・・・・)だからだ」


 そして、国王はこの拉致事件について、語り始めた。


 この拉致事件は、正式には『次元孔拉致事件』と呼ばれている。それは、事件現場に別の空間に繋がっていると推測される小さな魔力孔――次元孔と名付けられた――が数時間残っているという共通点があることから名付けられた。

 最初に次元孔が観測されたのが五年前。とある山村の教会で観測され、神父が行方不明となったのが、分かっている範囲で最初の次元孔拉致事件となる。因みに、当初は拉致事件では無く、失踪事件だと思われていた。

 それから何度も同様の失踪事件が発生することになるが、一向に行方不明者が発見できないでいた。

 事態を重く見た国王は、近衛騎士団の中から人を集めた特務隊を作り、この事件の解明と、失踪者の行方を捜すよう命令を下した。国民には事件自体を秘密にしたまま。


 特務隊の捜査の甲斐もあり、一連の事件が失踪ではなく、第三者が関与した拉致事件であろうことが確認されたが、依然として被害者は誰一人として見つからず、犯人の行方も不明のままだった。

 そうして事件が未解決でいるうちに、徐々に一度の事件で拉致される人数が多くなってくる。

 直近では、王立魔術研究所での三○○人規模の拉致事件があり、今回、ナーザが巻き込まれた事件では、学園の生徒と関係者、合計五○○人以上が巻き込まれたと見込まれている。


 そんな中、初めて事件現場で発見された“被害者”がいた。

 それが、ナーザだ。


「当初、相当なショッキングな体験をしたのか、最早抜け殻のようだと報告を受けたが、今、君はこうして意思のある目をしている。

 何が君を回復させたのかは分からないが、そのあたりの事も含め、是非、儂達に君の経験を語って欲しい。

 無論、この要求が君にとって、この上ない苦痛を伴うものかも知れないことは、重々分かっている。――それでも、だ。もうこれ以上、我が国民を失う訳にはいかんのだ」


 そう言うと、アルド国王は頭を下げた。

 そして、同時に、それ以上深く、リーアムも頭を下げた。


 彼らが、特に国王が頭を下げる意味を、ナーザは正しく理解している。

 はっきりとした思考を取り戻した今、自分の目の前の光景が、どれだけ異常であり、どれほどの思いで二人が此処に居るのかが、正しく理解できた。


「私はもう大丈夫です。ですから、その……、頭を上げて下さい。全て、お話させて頂きます」


 確かに、国王の言う様に、ナーザはあの光景を思い返すだけで胸の中を掻き乱されるような嫌悪感を覚える。

 しかし、今ここに、自分がこうして存在することの意味も、理解できた。


(上等じゃねぇか。俺がこのクソみたいな感情を飲み込むだけで誰かが助かるなら、飲み込んじまえば良い)


 それだけで誰かが救えるなら、安い代償だと。



 ナーザは、自分の記憶と経験を全て話した。

 全身鎧(フルプレートメイル)の集団に襲われたこと。

 初めは何も攻撃が効かず、一方的にやられたこと。

 見たことも無い術式を発動し、人間を金属や石といった、別の何かに変質させたこと。

 自分も変質しかかっていたが、腕を切り落として逃れられたらしいこと。


 親友や幼馴染み、兄弟が犠牲になったこと。

 敵の隊長格が、“こちら側”、や“任務”など、気になるワードを口にしていたこと。


 事件発生時には、次元を繋ぐ結界が張られていて、変質した者達は彼らの次元に持って行かれてしまったらしいこと。

 その解析を兄が行い、結果が自分のマギ・ネット端末に残されていること。



「なかなか、荒唐無稽な話だな」

「ですね。しかし、これまでの調査結果と符号しますし、これなら、失踪()が全く見つからなかった理由も説明できます。その姿が……違っているのですから」

「うむ。……変質、か。そんな事が、本当に可能なのか?」


 国王は、眉間に深い皺を三本刻み、すぐ隣に立つリーアムを見上げた。

 リーアムは、その端正な顔を顰めるが、一度、小さく首を縦に振った。


「できなくは無いと考えます。――例えば、魔物にも、人を石や金属に変える術を使うものがいます。変質という観点だけで言えば、これらもその一つと言えるでしょう。 そして、その術により石に変えられた者を使って石器を作ったり、金属を何か別の――例えば武器に加工することも、出来るとは思います。

 ――尤も、人の道を踏み外した、外道の所行であることは間違いありませんが……」


 そんな狂気の研究は、リーアム自身は聞いたことも無いし、類似する思想を持った人間にも心当たりは全く無いという。


「あと、ナーザ君の兄君の考察は、実に素晴らしいですね。詳しいことはこのメモをしっかりと読み解き、我々の調査結果を組み合わせる必要がありますが、恐らく次元を渡る術式は、近く再現できると思われます」

「ほう。ダーザ君――だったか、彼の残したメモは、それほど優れたものなのか?」


 国王は、顎髭を弄りながら、改めて、ナーザから渡されているマギ・ネット端末を操作し、件のメモを読み始めた。


「儂が読んでも理解できる気はせぬが、リーアムが言うのであれば、それは正しいのであろうな」

「はい。近衛魔術士団と連携すれば、次元術式の解明にそう時間は掛からないでしょうし、それを応用した幾つかの術――そうですね、例えば防御術や結界術、転移術、といった術式も作り出せる可能性があります」

「なるほど。――我が国の魔術史が十年単位で進みそうな発見になりそうだな」

「はい。場合によっては一○○年単位での発展となる可能性も秘めています。完成の暁には、秘匿すべき案件と考えます」


 国王とリーアムの会話を聞いていたナーザ。

 国家機密となりそうな術の話を、ただの学生である自分が聞いていて良いのかとも思ったが、もう後に引くことはできないし、その気が全くない、全く起きないことを理解していた。


(ごめん。兄貴……)


 未だ、二人で話している国王達の言葉が、どこか遠くの喧騒のように聞こえた。

 ナーザの心の中にあるのは、ダーザやリア、アッサル達の事ばかり。

 ダーザには、この世界で生きて欲しいと言われたけれど……。


(アイツらから、リア達を取り戻せる(・・・・・)可能性があるなら、俺は──!)


 そう思った瞬間、ナーザ椅子から下り、土下座していた。

 国王達からしてみれば、急にナーザが土下座したように見えたため、相当驚いているようだ。

 一方で、ナーザはそんな国王達のことは気にせず、額を床に打ち付け、懇願する。


「お願いします!私を特務隊に――この事件の調査に入れて下さい!

 次元術式の実験台にでも何でもなります。奴らの所へ乗り込むなら、私を連れて行って下さい! この手で、リア達を――幼馴染み達を取り戻す機会をお与え下さい! お願いします!」


 そのナーザの迫力は、数多くの豪傑や神算鬼謀の策士達を相手にしてきた国王やリーアムも、一瞬遺棄を呑むほどのものがあった。

 何気なく、自分の手を見た国王。ソファの肘掛けに置いていた手が、いつの間にか握られている。

 意図して作る表情以外は、態度すら変えることが無いよう、己を律して日々政務に臨んでいる筈なのに、と──。


「ふむ。どう、思う? リーアム」


 国王は口端を三日月形に引き上げ、リーアムを見上げた。

 リーアムは国王を一目見て、小さく笑いながら目を閉じる。


「現時点で、特務隊のメンバが不足している訳ではありませんが、陛下が敵陣地に乗り込むこともお命じになるのであれば、実働部隊を中心に人員が不足しております。何分、今は捜査が主体の人員構成となっております故」

「なるほど。 では、入隊試験はどうする?」

「後ほど手配します。明日にでも実施しましょう。 実力があれば良し。無いにしても、彼の経験は貴重です。命の保証はできかねますが、先遣隊とメンバとしてであれば使いどころは十分あるかと」

「よし。そのように手配せよ」


 国王は、ナーザへと向き直った。

 肘掛けに肘を置き、頬杖を突く格好でナーザを見つめる表情は、どこか楽し気だ。


「聞いての通り、ナーザ君の腕次第にはなるが、最低でも使い捨ての水先案内人であれば席は用意できるようだ。儂としては、前途ある若者は、しっかりと成長した後に国の為に働いて欲しいとは思うが、どうする?」


 当然。ナーザの答えは決まっていた。


「今すぐに、お願いいたします」

「決まりだな」


 国王は笑いながらそう言うと、ゆっくりと立ち上がる。


「リーアム。ナーザ君は君に預ける」

「承知いたしました」


 リーアムが頭を軽く下げる。

 その様子を笑いながら見た国王は、上機嫌で部屋を出ていった。


 パタリ、と扉が閉まると、部屋は静寂に包まれる。


「もう良いですよ、ナーザ君。立ってください」

「はい」


 ナーザは言われた通り立ち上がると、そのまま、リーアムに頭を下げた。


「ありがとうございますッ」


 礼を言うナーザを、リーアムは緩く首を振りながら答える。


「いいえ。仮に、ナーザ君が今の話をせずとも、捜査に協力してもらえるように調整する心算ではありましたので。 ですが、今、君が選んだ道は、それよりも過酷ですよ」

「はい、分かっています」


 そう、躊躇いなく口にするナーザを、リーアムは笑って見つめた。

 そして、ナーザへと近づき、肩に手を置く。


「詳しい話をしましょう。ついてきて下さい」


 リーアムはそう言って、この部屋を後にする。

 ナーザも、彼に従って、部屋を出ていった。



   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 「一体オマエは何なのだ?!」


 そう叫ぶ男は、顔の右半分がまるで炭化したかのように真っ黒になっており、ひび割れていた。

 立派な衣服をその身に纏い、高価な宝飾品で着飾っても、視線がその顔にくぎ付けとなってしまう程に、異様な様相だ。


「何って、よく知ってるンだろ?」


 全く動かない顔の右半分とは異なり、怯えを如実に表す左半分の顔を歪め、目の前に立ちはだかる男を見上げる。


 その男は、動きやすさを重視した鎧を身に纏っている。

 そして、右腕は、右肩から手の先までを覆う白銀のガントレットを付けており、右手には同色の美しい剣を携えていた。


「あ、銀の腕(アガートラーム)……ッ」

「その名は嫌いなんだ。訂正しろ」


 アガートラームと言われた男が、剣の切っ先を、相手の左目に突きつける。

 あと一センチメートル前に押し出したなら、左の眼球に届くという至近距離まで詰められた、怜悧な切っ先。

 突きつけられた男は、左目を見開き、固まった状態で、辛うじて口だけを動かす。


「ナーザ……」

「……ふん」


 銀の腕の男──ナーザは、不機嫌そうにそう言うと、突きつけていた剣を引き、肩に担ぐようにして持ち直す。


「帝国の急先鋒と言われたフィルも、こうなっては形無しだな」

「黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇっ!!」


 フィルは、動く顔の左半分に怒りを露わにし、ナーザを睨みつける。

 ただ、腰を抜かし、床に倒れたままの恰好では、その迫力は殆ど無いに等しかったが。


「お前と関わってから、全てが台無しだ! 顔はマテリアル化して戻らないし、それが理由で婚約も破棄になった! 俺がッ、帝王になる道も閉ざされた」

「マテリアル化……、あぁ、変質のことをお前たちはそう呼んでいたんだったな」


 ナーザは独り言でも言うかのように、小さな声で呟きながら、自分の右腕を見た。

 魔力を流すと変質する己が右腕。ガントレットのように見える白銀は、鎧などではなく、自分の体そのものだ。

 今では、その魔力の流し方を工夫することで、剣を作成することも可能となった。


 ──あの日、得た、忌まわしき力。


「お前が帝国に攻め入って来てからは、私の立場すらも危うくなった! なぜあの時殺しておかなかったのか、マテリアル化させなかったのか、口だけで戦う術など何も持たない腑抜けた老人たちに、顎で使われるようになったのは、お前のせいだ!」

「知らねぇよ。全部自業自得だろうが」


 ナーザは、右手の剣で、フィルの左肩を貫いた。

 喚きたてながら、涙を流し、血を撒き散らし、叫び続けるフィル。

 ナーザは、舌打ちを一つして、フィルの顔を蹴り飛ばす。


「喚くな」

「あ、あが……」


 口の中を切ったのか、口からも血を流し始めるフィル。床に倒れ伏す背中に、ナーザは冷たい視線を向けた。


「お前たちが俺達の世界に来なければ、俺達を、マテリアル化なんかしなければ、俺がこうして帝国に殴り込む必要も無かったンだよ。 テメエらが吹っ掛けてきた喧嘩だろうがッ」


 ナーザが剣を振り上げる。

 それを見たフィルが、「ひぃ」と怯えた声を上げた。


「そこまでだ、ナーザ君」


 ナーザを止めたのは、リーアムだ。

 ナーザと同じく、動きやすさを重視した鎧に、マントを付けている。マントの留め具の部分には、幾つもの勲章が付けられていた。


 ナーザの肩に手を置いたリーアム。ナーザは肩越しにリーアムを見ると、深呼吸をする。


「すいません。隊長」

「構わないよ。君の心中は察するに余りある」


 ナーザは、横にずれ、リーアムがフィルと対峙するスペースを作った。

 リーアムはそのままフィルに向かって進み、床に倒れたままの、血塗れの姿を見下ろした。


「フィル・ゲーリオン。帝国の急先鋒だった君をこの手で殺したいのは山々だが、そうすると、此処にいるナーザ君が飲み込んだ激情を無駄にしてしまう。

 それに、君達が言うところのマテリアル化だが、解除するためには、術式発動者の生き血が必要なようでね。全部で、一八五三人分のマテリアル化解除に付き合ってもらうまでは、命を保証せざるを得ないのだよ」

「良かったな。暫くは生かしておいてくれるってよ」


「ひぃ、た、助け……ッ」


 リーアムとナーザの言葉に、フィルは文字通り真っ青になった。

 逃げようとしているのか、バタバタと足が動いているが、腰が抜けているせいでまともに立てないでいる。


 そうこうしているうちに、この部屋に駆けつけてきた兵士達が、魔術拘束具でフィルを縛り上げ、動けないようにしてしまった。


「ああ、心配は無用だよ。公式には、君はここで戦死したことになる予定だ。後始末は、帝国側が適当にやってくれるだろう」


 既に猿轡まで嵌められ、言葉すら発することができなくなったフィルは、うー、うー、と言葉にならない声を上げるだけ。

 ただ、この場には誰もフィルの返事に耳を傾ける者はいなかった。


「連れていけ」


 リーアムの言葉で、兵士がフィルを連行する。

 リーアムもこの場を立ち去ろうと踵を返したが、動こうとしないナーザを振り返った。


「ナー……」


 呼びかけた声が、途中で止まる。

 ナーザは、懐から取り出した、エメラルドグリーンの美しいオーブを手にしていた。


 見る者の心すら洗われるような、美しい光を湛えたオーブ。──リア・ファイル。


(七年、か──)


 リーアムは、回顧する。

 初めてナーザと出会ってから、実に七年もの月日が流れていた。


 激動と言っても差し支えなかった七年を、ナーザはどのような思いで生き抜いてきたのか、と、考える。

 マテリアル化した腕を武器に変え、帝国を相手にし続けてきたナーザ。

 それは全て、マテリアル化してしまった幼馴染や兄弟、親友を救うためだった。


 帝国からは銀の腕(アガートラーム)と恐れられ、王国では悲劇の英雄と讃えられる彼の後ろ姿を、リーアムは見つめていた。



「先に戻っているよ」


 それだけ声を掛けて、リーアムは踵を返す。


 ナーザは、リーアムの言葉に何も答えはしなかった。

 ただ、目元には、窓から差し込む夕日を受け、僅かに光る涙が浮かんでいた。




お付き合いありがとうございました。

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泣いて喜びます。★でも、★★★★★でもっ。


また、お時間がありましたら、下記の方もご一読頂ければ幸いです。

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