家族を奪われた悪役令嬢の母は復讐ですべてを取り戻す ~愛する家族への道は幾万の犠牲で舗装されている~
「ああ……あの子は、悪役令嬢だったのね」
王太子殿下をはじめとする煌びやかな見た目の「攻略対象」に、誰からも愛される「ヒロイン」。
そして、お話にほんの少しスパイスを加える「悪役令嬢」。
貴族の子息が通う学園を舞台に繰り広げられる「乙女ゲーム」の記憶に、わたしはただ茫然と呟くしかありませんでした。
なぜわたしは、今まで思い出さなかったのでしょう。
もっと前に思い出せていれば、娘は、夫は、死なずに済んだのに。
愛しい夫と何よりもかわいかった娘の墓の前で、わたしは何度もあの時のことを思い出しました。
悔やんだところでもう遅いのだと分かっているのに、そうせずにはいられなかったのです。
すべての始まりは一月前。
娘の婚約者である王太子殿下が先触れもなく屋敷を訪れたことがきっかけでした。
「突然の来訪、申し訳ない。ブレンネン侯爵」
「いえ、お気になさらず。
ヒルデも最近は、殿下にお会い出来ないことを寂しがっておりました。
娘の婚約者が娘に会いに来ることに眉をひそめる親がどこにいるというのでしょう」
「気遣いを感謝する」
急な来訪を詫びる殿下に、夫が穏やかに言葉を返しました。
殿下への気遣いもありましたが、その言葉はほとんど本心です。
当時の娘は、外では普段通りに振る舞っているものの家の中では塞ぎがちでしたから。
芯の強い娘が塞ぎ込むなどめったにないことでしたが、無理もないでしょう。
あの時、娘と同年代の令嬢や子息の間で「殿下は婚約者とは別の令嬢に夢中だ」という噂が急速に広まっていたのですから。
彼女たちの母親を通して調査したところ、噂は事実のようでした。
さいわいだったのは、殿下が寵愛している少女が男爵令嬢ということでしょうか。
男爵令嬢という身分では愛妾にしかなれませんから。
すでに根回しは済ませてありますから、噂はじきに消えるでしょう。
噂が耳に入らないようになれば娘の心も少しは落ち着くはずです。
あとは陛下や王妃殿下とお話しして、殿下に婚前の軽率な行動は慎んで頂くようお願いするだけになっていました。
「ヒルデとの婚約を破棄させてもらいたい」
殿下の言葉を聞いた途端、血の気が引いていくのが分かりました。
娘は、あの子は今どんな思いをしているのでしょう。
「理由をお聞かせ願いたい、殿下」
気を失いかけたヒルデを支えたわたしの耳に、怒りに満ちた夫の声が届きます。
口は出しませんでしたが、わたしも同じ気持ちでした。
青い瞳を一瞬泳がせた後、殿下が口を開きます。
「ヒルデがローゼマリーにした仕打ちを省みた結果だ。
同じ貴族の令嬢を感情の赴くままに害するような女性を、将来の王妃とするわけにはいかない」
「ローゼマリーというと、殿下が親しくお付き合いされている男爵令嬢のことですね。
彼女にヒルデが何をしたと言うのです」
「それを見るがいい」
その言葉と共に、殿下の従者が何巻きかの羊皮紙を差し出しました。
それらに目を通した夫の表情が、みるみるうちに険しいものになっていきます。
「舞踏会での誹謗中傷、すれ違いざまの嘲笑、ドレスの汚損……。
この程度のことで、ヒルデとの婚約を破棄するというのですか」
「それだけではない。
先日、ローゼマリーが学園の階段から突き落とされた。
幸いにも私がいたから怪我はなかったが……その際、私は見たのだ。
学園ではヒルデしか持ち得ない、その黒髪を!」
王太子殿下は、すでに娘を犯人と決めつけておられるようでした。
確かにこの世界で黒髪の人間は滅多にいません。小国である我が国の貴族で黒い髪を持つのは私とヒルデくらいでしょう。
ですが、魔法や髪粉で髪色を変えることは出来ます。
それに……殿下はすっかり忘れておられるようですが、ヒルデはこの一か月間休学しているのです。
先日起きた事件に関与できるはずもありません。
「殿下。髪の色のみで娘を犯人と決められるのはいささか早計ではありませんか。
第一、ヒルデはこの一か月間王城で王太子妃としての教育を受けておりました。
学園の卒業後に殿下の隣に立つ者としてふさわしくあれるように。
常に誰かが傍にいたヒルデが、どうやって学園にいる男爵令嬢を突き落とすことが出来ましょう」
夫もわたしと同じように考えたのでしょう。
娘の無実を根拠と共に訴えましたが、殿下の冷ややかな目に温度が戻ることはありませんでした。
「例えそうだったとしても、私の心はローゼマリーにある」
「殿下……」
殿下の言葉を聞いた途端、ヒルデが今度こそ気を失いました。
それを見ても眉一つ動かさない殿下を見れば、その心が既に離れてしまったことは容易に知れました。
「昨日、ローゼマリーがフリーレン侯爵の養女として認められた。
すでに彼女が私の婚約者となることは決まっている。
今回はただ、それを通達に来ただけだ」
フリーレン侯爵家は、ブレンネン侯爵家の政敵でした。
恐らく、全てはフリーレン侯爵家が仕組んだことなのでしょう。
そうでなければ、侯爵家が男爵令嬢を養女とするなどあり得ませんから。
「失礼する」
立ち上がった殿下は、そのままこちらを一度も振り返ることなく部屋を出て行きました。
殿下に婚約を破棄されて以来、ヒルデは部屋に閉じこもるようになりました。
声をかけても返事はなく、食事もほとんど摂りません。最後に声を聞いたのはいつだったでしょう。
それでも、あの子が生きているだけまだ幸福だったのかもしれません。
殿下とヒルデの婚約破棄が正式に発表された日、あの子は自ら命を絶ちました。
昨年の誕生日に殿下から贈られた首飾りを身に着け、窓から身を投げたのです。
恐らく、耐えきれなかったのでしょう。
愛しあう二人を引き裂こうとした悪女として名を広められたことに、殿下にふさわしい女性であろうとしてきたこれまでの努力が無に帰したことに。
なにより、愛していた相手と結ばれる可能性が一切なくなったことに。
婚約自体は政略の為に結ばれたものでしたが、あの子は本当に殿下を愛していたのです。
けれど、あの子の死を悲しむ余裕はありませんでした。
あまりにも唐突な婚約破棄と娘への配慮不足。
それらを抗議するために王宮へ赴いた夫が、物言わぬ遺体として帰ってきたのです。
「何故……」
「急病とのことです」
呆然と立ちすくむわたしに、王宮から派遣された騎士がそう告げました。
まだ若く、前日までは健康だった夫が急病?
それは、一体何の冗談なのでしょう。
夫の葬儀を終えた後、わたしは全ての気力が抜け落ちてしまったようでした。
さいわい、侯爵家のことはかねてより跡継ぎとして迎える予定だった妹の次男が取り仕切ってくれていましたから心配はありません。
別邸に籠ったわたしは、ただ息をしながらひたすら家族で過ごした思い出に浸っていました。
ブレンネン侯爵家の長女であるわたしとヴァルム伯爵家の三男であった夫は、この国の貴族としては珍しくない政略によって結ばれた夫婦です。
ですが、わたしは夫を愛していましたし、夫もまたわたしを愛してくれました。
彼がくれた愛情は燃え上がるような激しいものではなく、木漏れ日のように穏やかなものでしたが、確かに愛だったと思います。
そんな夫との間に授かったヒルデは最愛の娘であり、命に代えても護らなければいけない存在でした。
あの人に似て何事にもひたむきで熱心な性格の為か刺繍が得意だったあの子は、少しでも時間があると窓辺の椅子に腰かけて針を動かしていました。
わたしはそんな娘を見ながら絵を描くことが好きで、けれどちっとも上手くないものですから横から覗き込んだ夫が「おや、これは子犬かな? それとも子猫かい?」なんてからかうのです。
光景だけは鮮明に思い出せるのに、それをもう一度見られる機会は二度とありません。
最愛の二人を失ったわたしは、もはや生きながらにして死んでいるようなものでした。
転機が訪れたのは、ある雨の日の朝。
しとしとと降り続く雨の中、いつものようにあの人とヒルデの墓へ向かった時のことでした。
その日は雨が降っているせいか陰鬱で、どこか胸騒ぎがしました。
ヒルデが婚約破棄された時の胸騒ぎと、同じものです。
二人の墓の前で祈りを捧げながら、わたしはもう何回目かになる問いかけを繰り返しました。
何故このようなことになってしまったのか。
たった一月前までは笑い合っていたはずの夫と娘が、何故いなくなってしまったのか。
その時、わたしは思い出したのです。
王太子殿下をはじめとする煌びやかな見た目の「攻略対象」に、誰からも愛される「ヒロイン」。
そして、お話にほんの少しスパイスを加える「悪役令嬢」。
貴族の子息が通う学園を舞台に繰り広げられる「乙女ゲーム」の記憶を。
「ああ……あの子は、悪役令嬢だったのね」
貴族なら誰しもが通う学園に入学したヒロインが、その美貌と魔力を高位の貴族子息や殿下に見初められて恋をする。
それが、わたしが思い出した「乙女ゲーム」の内容でした。
ヒルデは殿下のルートにのみ現れる悪役令嬢でした。
ヒロインと殿下の仲を引き裂こうと邪魔をし、最後には惨めに退場させられる役です。
その後は物語に登場しませんが、エンディング後に進めるトゥルールートで末路が明かされます。
愛する殿下から婚約を破棄されたヒルデは心を病んで自殺。
ブレンネン侯爵は激しく抗議を行いますが、それが殿下の気に触れて彼の護衛である騎士団長の子息――私の妹の長男――に斬られて死亡。
すべてはヒロインを手駒として王妃の外戚になろうとしたフリーレン侯爵の差し金であり、ヒロインと殿下は力を合わせて巨悪に立ち向かうことで愛を深める……というものでした。
「乙女ゲーム」の題名や、殿下以外の攻略対象のルートの内容は思い出せませんでした。
分かったのは、一連の流れがすべて脚本通りであるということだけ。
――それが分かったところで、もうどうしようもありませんが。
どうして早くに思い出さなかったのでしょう。
思い出してさえいれば、きっと何らかの手を打てたはずなのに。
それとも、あの子が生まれた時点で既に全ては決まっていたのでしょうか。
あの子が、夫が何をしたのでしょう。
もし二人とまた会えるのなら、わたしはどんなことでもします。
そう、どんなことでも。
「その思い、事実か」
次第に強まり続ける雨の中、傘を差す気力もなく立ち尽くすわたしの耳に覚えのない声が届きました。
あわてて辺りを見回しましたが、誰もいません。
それはそうです。ここはブレンネン侯爵家の為に作られた墓地。
侯爵家の関係者以外は……今となっては、わたし以外は立ち入れぬ場所なのですから。
「誰です、姿を見せなさい!」
震えを抑えて鋭い声で名を問うと、目の前で不意に火柱が上がりました。
思わず後ずさったわたしの前で炎が次第に形を変えていきます。
やがて人の形になった炎が、口と思しき部分を動かしました。
「私はイフリートだ。この国の人間なら知っているだろう」
「イフリート……」
それは、この国を守護しているとされる炎の高位精霊の名でした。
目の前の炎から感じる力強くも豊富な魔力からして、その言葉は事実なのでしょう。
「失礼いたしました。ご無礼を、どうかお許しください……」
とっさに地面へ膝をついたのは、この国の住民として幼いころから教え込まれてきた精霊への畏怖のためでした。
精霊――特に高位の精霊の怒りを買えば、国すら容易に滅びると言われていますから。
今は命などどうでもいいのですが、幼いころからの習慣というのはなかなか変えられないようです。
「そのように些末なことなどどうでもよい。
私は、お前が先ほど願った言葉が事実かと尋ねたのだ」
「もちろん、事実です。
夫と娘に再び会えるのなら、わたしのこの命も侯爵家の財産も全て捧げます」
わたしの答えを聞いたイフリートは、低い笑い声をあげてその身体を揺らしました。
「その願い、叶えてやってもいい」
「本当ですか?!」
それはわたしにとって救いの言葉でした。
怪しさを感じなかったとは言いません。けれど、縋らずにはいられなかったのです。
「もちろんだとも。お前が生命を捧げればな」
「わたしの命など、いくらでも捧げます!」
「そうではない。私が求めるのは、お前以外の命だ」
「……わたし、以外?」
イフリートから告げられた言葉が何を示しているのか……わたしにも理解できました。
つまり、他人の命を捧げろと言っているのです。
「どれほど捧げればよいのですか」
迷いはありませんでした。
殺人などもちろんしたことがありませんが、先ほどの言葉に偽りはありません。
わたしには二人以上に大切な人などいないのです。どうして躊躇う必要があるのでしょう。
「一人につき、十万人だ」
「十万人……」
つまり、二人を蘇らせるには二十万人の生命が必要になります。
王都に住まう全ての人々を合わせた数が十三万人ですので、だいたい王都と主要な地方都市を二つほど合わせたくらいでしょうか。
全て捧げ終えるのに一体どのくらいの年月がかかるのでしょう。
いえ、そもそも途中で捕らえられることなく完遂できるでしょうか。
考え込むわたしに、イフリートがそっと囁きました。
「臆することはない。私が力を貸してやろう。
私はお前のように、か弱い姿をしながら憎しみを煮えたぎらせる人間を間近で見るのが好きなのだ。
もちろんこれは、お前が望めばの話だ。決して無理強いなどしない」
イフリートの好みはともかく、その提案はとても魅力的でした。
国をも滅ぼすと言われる高位精霊の力を借りれば、二十万人を捧げることも可能でしょう。
「わかりました。どうか、力をお貸しください」
「その言葉、しかと聞き届けた」
炎の身体がゆらりと揺れ、わたしの身体に深紅に輝く光の粒子が降りかかりました。
同時に、人間とは異なる膨大な魔力が感じられるようになります。
これが、イフリートの力なのでしょうか。
「お前に渡したのは私の力のほんの一部だが、人間を殺すにはそれで十分だろう。
せっかく力を貸してやるのだから、楽しい復讐劇を見せてくれ」
「復讐劇……?」
それまで考えもしていなかった提案に息を呑むと、燃え盛る炎がゆらりと揺れました。
「そうだとも。まさか、お前の大切な者を奪った者達が幸福になるのを黙って見届けるつもりか?
あの者達さえいなければ、お前の夫も娘もまだ生きていたろうに」
イフリートの言葉を聞くうち、それまで悲しみに追いやられていた憎しみがふつふつと湧き上がってくるのを感じました。
わたしは今まで、すべては「乙女ゲーム」のことを思い出せなかった自分が悪いのだと思っていました。その気持ちに変わりはありません。
でも……たとえこれまでの一連の騒動がシナリオ通りだったとしても、実際に行動したのは彼らです。
殿下にローゼマリー、それにフリーレン侯爵。
彼らが生きていては、二人を蘇らせても再び危害を加えられる恐れがあります。
妻として、母として、愛する人に危険を及ぼすものを排除して何が悪いのでしょう。
それにどのみち、二十万人を捧げるには王都の人間は皆殺しにする必要があります。
この国はさほど大きくありませんから。
それならば、力を貸して下さるイフリートの要望に応じた方がよいでしょう。
「わかりました……ご期待通りの復讐劇をお見せいたします」
「期待しておるぞ」
炎の身体が楽しげに揺れ、火花がぱちりと飛びました。
復讐を決行する場は、殿下とローゼマリーの婚約が正式に披露される舞踏会にしました。
そこなら夫と娘を殺した人々が全員集まるはずですから。
なにより、彼らがもっとも幸福な瞬間に地獄に落としたかったのです。
娘は学園を卒業してすぐに殿下と結婚する予定でした。
婚約破棄をされる直前、つまり卒業直前のあの時期、娘はまさに幸せの真っただ中にいました。
その娘を地獄に突き落としたのです。
同じことをされても文句など言わないでしょう。
舞踏会の当日は晴れやかな夜空が広がっていました。
まるで殿下とローゼマリーを祝福しているかのようです。
もちろん、どれほど空が綺麗でもわたしがこれからすることに変わりはないのですが。
「楽しみにしている」
出会ったとき同様に人型の炎の姿を取っているイフリートが笑って囁きました。
舞踏会にはそぐわない喪服姿の女に、この国の一般男性よりも背の高い炎が寄り添っている光景は明らかに異様ですが、それを気にする者はいません。
わたしとイフリートには認識阻害の魔法が掛けてありますから、よほど高位の魔法使いか魔術師でもなければ存在に気づきもしないでしょう。
実際、招待状を持っていないわたしが横を通り過ぎても門番や周囲の貴族は誰も疑問を抱いていないようでした。
夫や娘と共に何度も辿った道を通って、舞踏会が開かれている大広間へと向かいます。
「皆の者。聞いて欲しい。
このたび正式に、第一王子であるわたしとフリーレン侯爵の娘ローゼマリーの婚約が認められた」
大広間に入ると、ちょうど殿下がローゼマリーとの婚約を発表したところでした。
フリーレン侯爵の大きな拍手に続いて、会場にいる人々が皆笑顔で手を叩きます。
王家と侯爵家の婚約を祝う場に招待されて、それを拒む貴族などいないでしょう。
そうと分かっていても、わたしは彼らを憎まずにはいられませんでした。
けれど、それ以上に喜びで満たされていました。
これで、イフリートに彼らを捧げる事への躊躇いがなくなるのですから。
今日の主役である二人のすぐ目の前で認識阻害の魔法を解きました。
わたしに気づいたローゼマリーが悲鳴を上げ、殿下が鋭くこちらを睨みつけます。
「何故ここにいる!」
ローゼマリーを背に庇う姿は、まさにおとぎ話の王子様のようです。
その優しさを、どうしてヒルデに向けてくださらなかったのでしょう。
思えば、殿下は初めからヒルデを好いていないようでした。
娘の手紙には一行二行の事務的な返事が返ってくるのみで、観劇などに誘うのはいつも娘の方から。
贈り物は欠かされませんでしたが、いつだったか殿下から贈られたアクセサリーを身につけていった娘に対して「珍しい石を使っているな」と声をかけたことがあったそうなので、恐らく使用人に任せきりだったのでしょう。
政略結婚が常識とはいえ、王侯貴族も感情のある人間。
わたしと夫が愛し合えたのとは逆に、どうしても合わないこともあるでしょう。
けれど、それでも最低限の気遣いはあってしかるべきだったのではないでしょうか。
今更そのようなことを考えても、仕方がありませんが。
「突然の来訪、申し訳ありません。フランツ殿下。
婚約の祝いに、ぜひお贈りしたいものがございまして」
「招かれざる客が、よくものうのうと「祝い」などと言えたものだ。
誰か、この者を捕らえよ!」
先ほどまでの華やかな空気はすでに消え、場は騒然としていました。
わたしの甥であり、シナリオ通りなら夫を殺した騎士団長の子息が殿下とローゼマリーの前に立ち、剣を構えています。
ほかにも多くの兵が慌しい足取りでこちらへ来ようとしているのが視界の端に入りました。
招待されていない人間がこの場にいるのはもちろん問題ですが、わたしが殿下に婚約破棄されて自ら命を絶ったヒルデと、それに抗議して斬られた夫の身内だからこれほど警戒されているのでしょう。
警戒されたところで、意味などないのですが。
さあ、そろそろ終わりにしましょうか。
わたしは昔から、風の魔法が得意でした。
夫からはよく「君を怒らせたら、それこそ嵐が来るな」とからかわれたものです。
「フランツ殿下、ローゼマリー嬢。婚約おめでとうございます。
恋の炎に焦がれたお二人に、ブレンネン侯爵夫人たるわたしから祝いをお贈りいたしましょう」
イフリートの力を借りて発生させた炎を風の魔法で煽り、わたしを中心に渦巻かせると広間は一瞬にして火の海になりました。
悲鳴と怒号、そして肉の焼けた匂いが辺りに充満します。
わたしから少し離れた位置にいた人々はいっせいに出口へ殺到しましたが、熱せられた扉を開くことは出来ず、折り重なって死んでいきました。
王宮魔術師たちは喉を焼かれたせいか魔術が発動できず、無抵抗に倒れていきます。
時折水の魔法を放つ貴族もいましたが、炎の勢いが衰えることはありませんでした。
「何故だ。何故このような残酷な真似をする!?」
ただ、殿下とローゼマリーだけは無事でした。
殿下はこの国でも有数の魔法使いですから、とっさに魔法障壁を張ったのでしょう。
騎士団長の子息の姿は見当たりませんでした。今の魔法で焼け死んだのかもしれません。
もう少し炎を強めれば障壁を破れますが、放っておいてもじきに魔力が尽きるはず。
イフリートの要望に沿うのなら、すぐに殺してしまうよりも後者の方が楽しんでいただけそうです。
それまでの暇つぶしとして、殿下の質問に答えることにしました。
「先に仕掛けたのはそちらでしょう」
「私は何もしていない。ただ婚約を破棄しただけだ!」
「ヒルデも何もしていませんでした。
婚約破棄の正当性を主張するなら、何もしていない殿下が復讐されるのも正当ではありませんか」
殿下は返す言葉がないようでした。
実際のところ、わたしの主張に正当性があるかどうかはどうでもいいのです。
わたしが正しかろうと間違っていようと、殿下はこの場で死ぬのですから。
「……わ、わかった。ヒルデのことは謝ろう。その名誉も回復させよう。
だから、私とローゼマリーは……」
「もう遅いのです、殿下」
そのとき、殿下の魔力が切れました。
とっさにローゼマリーを庇おうとした殿下を炎が呑み込みます。
悲鳴は聞こえませんでした。
どのくらい経ったでしょう。
炎が消えた時、辺りにはもう何もありませんでした。
豪奢なシャンデリアも、贅を尽くした食事も、華やかな服を身に纏っていた貴族たちも、すべて等しく灰に還ったのです。
「素晴らしい出来映えだ」
無彩色の世界の中で唯一鮮やかな色を纏ったイフリートが感嘆の声を上げました。
どうやら、満足して頂けたようです。
今回殺した人間だけでは二十万人はおろか十万人にも届かないでしょうが、復讐自体は果たせました。
あとは、罪もない人々をイフリートに捧げていくだけです。
「魔力はまだ潤沢ですから、あとは片端から火をつけて王都を燃やしましょう。
今はまだ夜。全員とはいかないでしょうが、多くの人を殺せるはずです」
「……ほう。復讐を終えても止まらぬつもりか」
わたしの言葉を聞いたイフリートが、意外だと言いたげな声で呟きました。
まるで、わたしが本当に二十万人を殺すとは思っていなかったかのように。
……まさか、からかわれたのでしょうか。
「罪のない同族を殺すことに躊躇いを感じていない様子だったから、珍しいと思っただけだ」
わたしの考えを読み取ったのか、イフリートはそう言って首らしき箇所を横に振りました。
「私はこれまでお前のような女に力を貸し与えてきたが、そのほとんどは復讐を終えるともう殺したくないと言い出すか、精神が壊れて碌な反応を示さなくなる。
お前のように、冷静に罪のない者共を殺そうとする女は珍しい。
無理矢理その身体を動かして、嫌がる様を見ながら虐殺させていこうと思っていたのだが」
「興が冷められたのでしたら申し訳ありません」
ここで謝るのは何かおかしい気もしますが、ただの人間であるわたしが高位精霊に逆らえるはずもありません。
深々と頭を下げると、イフリートは低い声で笑って身体を揺らめかせました。
「予想とは違ったが、これはこれで面白い。もう少しだけ力を貸してやろう。
魔力を貸す以外、私は手を出さない。お前の好きにするといい」
言葉が終わった途端、わたしの中にある精霊の魔力が倍ほどに膨れ上がるのを感じました。
これだけあれば王都を全て焼き尽くすのも容易いでしょう。
「しかし、なぜそこまで躊躇がない」
「躊躇はあります。わたしにも良心はありますから。
ですが、娘と夫を蘇らせる為ならそのようなもの、いくらでも捨てられます」
そもそも、わたしの願いは復讐ではなく二人の蘇生です。
復讐を終えたからと言って、どうして本来の目的を諦める必要があるのでしょうか。
そう言うとイフリートは「そうだな」と独特の笑い声を漏らしました。
「では、見せてくれ。お前が私欲のために罪なき人間を絶望させていく様を」
「もとより、そのつもりです」
灰塵と化した王城を後にしたわたしは、王都の広場にある時計台へと上りました。
本来なら鍵がなければ時計台の中には入れませんが、わたしは風魔法の使い手です。
中から登らなくとも、王都で最も高いと言われる時計台の頂点に立つことが出来ました。
時計台の上から見下ろした王都はとても綺麗でした。
王城が燃えた騒ぎが伝わったのか、多くの人々が明かりを持ってこちらへ駆け付けてきている為です。
地上でちらちらと瞬く明かりはまるで星のようでした。
そんな光景を見下ろしながら、わたしはイフリートから貸し与えられた魔力を解放しました。
風の魔法で炎を遠くまで広げていくにつれて、逃げ惑う人々の姿がはっきりと映し出されます。
声は聞こえませんが、右往左往している光たちを見る限り地上は混乱しているようです。
「あまり多くの人が逃げないといいのですが……」
計算上、王都にいる全ての人を殺せば夫か娘のどちらかを蘇らせるだけの命は捧げられます。
ですが、逃げる人のことを計算に入れると少々足りないかもしれません。
その時は地方都市も焼けばいいだけですが、移動時間のことを考えると出来るだけ多くの人をここで殺しおいた方が得策です。逃げられないうちに手早く焼きましょう。
わたしの愛しい家族を取り戻すために。
一週間後、王都は灰になりました。
逃げた人は思いのほか少なく済みました。イフリートの魔力の扱いに慣れてきたので、途中からは王都全体を炎の壁で覆って人々を閉じ込めることが出来ましたから。
わたしに立ち向かってくる人もいましたが、すべて死にました。
高位精霊であるイフリートは、一瞬で国を灰に変えられると言われています。
その力の一部を借りているのですから、使い方さえ間違えなければ遅れは取りません。
「まさかこれほど短期間に多くの人間を殺すとはな」
今日までにわたしが捧げた数は約十一万人。
イフリート曰く、正確には十一万千七百二十六人だそうです。
細かな数はともかく、これで二人のうちどちらかを蘇らせることが出来ます。
さすがにここまで早く人を殺しつくせるとはイフリートも考えていなかったようで、その口調をとても楽しげでした。
「私を楽しませてくれた褒美として、先に一人と会わせてやってもよい」
「本当ですか?!」
事がすべて終わらなければ二人に会えないと思っていたわたしにとって、それは嬉しい知らせでした。
一人だけとはいえ、失った家族にいち早く会うことが出来るのです。
「無論だ。さあ、目を閉じるがいい」
その言葉に従って、わたしは固く目を閉じました。
傍にあったイフリートの魔力が膨れ上がり、よく知った気配が現れます。
微かな衣擦れの音に早く目を開けたい気持ちをこらえ、わたしはただひたすら待ち続けました。
「……ヴィンフリーデ。目を開けてごらん」
聞き慣れたその声に瞼を開けると、ぼやけた視界に愛しい蜂蜜色が映りました。
次第にはっきりと見えてくるその姿は、間違いなく夫のものです。
けれど、どうしてでしょう。どこか違和感を感じます。
姿も声も魔力も気配も、紛れもなく夫だというのに。
「ああ……レオ」
だからでしょうか。彼に駆け寄ることを一瞬ためらってしまったのは。
再会の喜びとぬぐい切れない違和感がないまぜになってしまったのです。
夫はそんなわたしにいつも通りの足取りで近づき、髪を撫でてくれました。
怜悧な顔立ちとは裏腹に暖かな手は、次第に薄れてしまっていた記憶にあるものと全く同じものです。
「会いたかったよ、ヴィンフリーデ」
夫の優しい言葉に、久しぶりに呼ばれた名前に、わたしはただ頷くしか出来ませんでした。
声が詰まって、上手く話せなかったのです。
「……だけど、君には一つ謝らないといけない」
「謝る……?」
琥珀色の目を伏せて、夫が呟きました。
一体何を謝るというのでしょう。
「君も気づいているだろう。私は変わってしまった」
こちらを見つめた瞳には、ひどく悲しい色が宿っていました。
「私は一度死んだ。その時のことは今でも鮮明な記憶として頭に残っている。
ヒルデの名誉を取り戻せなかった悔しさ、君を一人残していくとわかった恐怖、私を殺した甥やそれを命じた殿下への強い怒りと憎しみ……。
あれほど人を恨み、憎み、その死さえ願ったのは初めてだった。
私は変わってしまった。もう、君が愛してくれた私ではないのかもしれない」
「そんなこと、関係ないわ!」
辛そうに俯く夫の手を握って、わたしは何度も首を横に振りました。
どうしてわたしはあの時、駆け寄るのを躊躇ったのでしょう。
確かに夫は誰かを恨んだり憎んだりすることのない、穏やかな人でした。
その怜悧な顔立ちから受ける印象とは裏腹に、心の暖かな人でした。
そんな夫が人の死を望んだのは、確かに変化と言えるかもしれません。
でも、それはわたしも同じです。
いえ、願っただけの夫と違って実際に手を下したわたしの方が変わったと言えるでしょう。
それでも、どんなに変わっても彼はわたしの夫です。わたしが愛した人です。
「あなたがどれだけ変わっても、あなたは私の夫よ。
喜びのときも、悲しみのときも、死がふたりを分かつまで一緒と誓ったもの」
「ありがとう、ヴィンフリーデ」
涙と嗚咽でうまく出せない声を駆使してなんとか気持ちを伝えると、夫はそう言ってわたしを抱きしめてくれました。
夫から感じる気配は確かに少し違います。
でも、この温もりは間違いなく夫のものでした。
「……あともう少し頑張れば、ヒルデも蘇るの。また、家族三人で過ごせるわ。
だから、あなたは先にアストルム王国へ向かって。
そこなら安全なはずだから」
当初の予定では、夫と娘を蘇らせたあとは隣国であるアストルム王国に逃れるつもりでした。
この国は周囲を険しい山脈に囲まれているため、他国と交流するには魔道具を使うか、馬を一月ほど走らせるしかありません。
転移装置や通信装置のような交信用の魔道具と馬車は王城を焼いた後ですぐに焼き払いました。
わたしの姿を見た者は全て殺しています。
隣国に王都の焼失が伝わるのはかなり後になるはずですし、それを行ったのがわたしだと知られることはまずないはずです。
アストルム王国はこの国と文化もさほど変わらないので、家族三人平穏な暮らしを営める予定でした。
さいわい、夫はこの国で唯一転移魔法が使えますから移動に問題はありません。
人が焼ける光景と匂いと悲鳴を聞くよりも、あの国でのんびりと身体を休めてほしい。
それが蘇ったばかりの夫に対するわたしの願いでした。
ですが、わたしの提案を聞いた夫は首を横に振りました。
「私もここで共に戦おう。
精霊の力を持っている君には必要ないかもしれないが、手助けくらいは出来るはずだ」
「でも、何かあったら……」
高位精霊の力を借りているので殺される心配はないはずですが、万が一ということもあります。
現に、卒業後は殿下と婚姻するのだと信じていたヒルデの婚約は破棄されてしまったのですから。
なにより、わたしのみならず夫の手まで汚させてしまうことになります。
けれど、夫は穏やかな微笑みを浮かべてわたしの手を握りました。
「ヒルデは君と私の娘であり、君は私の妻だ。
君ばかりに手を汚させるわけにはいかない。私たちは夫婦だろう。
どうかあの子の父親として、君の夫として、再会の手伝いをさせてほしい。
不幸も幸福も、二人で分かち合ってきたのだから」
強い意志を秘めた琥珀色の目に見つめられて、わたしはとうとう頷きました。
あの子はわたしの娘ですが、同時に夫の娘でもあります。夫の言葉はもっともでした。
どうしてそれを止めることが出来るでしょう。
なにより、嬉しかったのです。わたしの行いを夫が受け入れ、分かち合ってくれることが。
それからしばらく、わたしは夫と共に娘との思い出や今後について語り合っていました。
いつしか姿を消していたイフリートのことなど、すっかり忘れて。
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「おやすみなさい、レオ」
「ああ、おやすみ。ヴィンフリーデ。よい夢を」
就寝前の挨拶と共に形の良い額へ口づけると、彼女はスミレ色の瞳を嬉しそうに細めて微笑んだ。
背伸びをした彼女が、私の頬に珊瑚色の唇を寄せる。
互いに唇を避けているのは、ヒルデを蘇らせるまではそうした営みはやめておきたいという彼女の要望と、その身を案じてのことだ。
精霊の力を貸し与えられているとはいえ、彼女は人間だ。
少し前まではごく普通の侯爵夫人だった女の肉体は、一日中動き回るだけで疲労を貯める。
今は気力で保っているようだが、それだけでなんとかなるほど人の身体は強くない。休めるときに休ませた方がいい。
余計なことに体力を割かせては、私の望む殺戮劇を演じさせるのに支障が出る。
彼女が眠りに落ちたのを確認して、私はそっと部屋を出た。
今日の拠点とするために彼女が操る炎から守っていたおかげで、家の中には煤一つ残っていない。
ここなら彼女も快適に眠れるだろう。一日か二日滞在して、身を休ませるのもいいかもしれない。
私も、ここからの景色は気に入っている。
自室と定めた部屋に戻ってカーテンを引くと、窓からすでに灰塵と化した街が見えた。
生物の気配一つしないこの景色を作り上げたのが、あの繊細でか弱そうな女だと誰が思うだろう。
いかにも殺戮とは無縁の幸薄そうな女が不幸になったところで力を貸し、女の反抗を予想だにしていなかった人々が驚き絶望する様を眺める。
それが長く生きてきた私――イフリートの数少ない楽しみだった。
「あの人間どもは傍から見ても愚かだったが、おかげでいい拾い物をした」
精霊である私にとって、この国で起きた出来事を知るのは容易なこと。
王太子が男爵令嬢との恋に溺れていることも、フリーレン侯爵が縁戚である男爵令嬢に王太子を篭絡するよう命じたことも、その目的が政敵であるブレンネン侯爵家を排除するためであることも分かっていた。
どの時代にもある、人間どもの醜い争いだ。
ああいった地味な争いは同じ炎の高位精霊である不死鳥なら好むのだろうが、私の趣味ではない。
だが、彼女には興味があった。
力を貸す対象としてはその境遇も見た目も相応しい。
ほんの少しきっかけを与えれば、あの人間はきっと面白いものを見せてくれる。
だから私は、彼女に偽りの記憶を与えた。
「乙女ゲーム」や「悪役令嬢」というのは、定期的に召喚される異世界の勇者が持ち込んだ知識だ。
もっとも、持ち込まれたのが二百年以上前であることや話の設定がこの世界の人間には好まれなかったことから、この世界ではすっかり廃れてしまっている。
だが、今回の状況にはちょうどいい素材だったので設定を借りさせてもらった。
夫と娘が死んだのは、自分が思い出さなかったせいだ。
だから自分には、夫と娘を取り戻す義務がある。
そんな罪悪感と義務感を植え付けられれば、あとは目の前に甘い餌を下げて力を貸してやるだけでよかった。
嘘はついていない。
私は一言も「蘇らせてやる」とは言っていないし、「変わってしまったあなたでもいい」といったのは彼女なのだから。
この身体も、脳に残った記憶をもとにした仕草も、声も、体温も、紛れもなく彼女の夫のものだ。
たとえ中身が変わっても夫だというのなら、中身が人でなく精霊でも彼女の夫であることは変わらないだろう。
「さて。娘との再会は、どのように演出してやるべきか……」
私の身を一時的に分けて娘の死体に入れてもいいし、他の精霊に手伝わせてもいい。
彼女はきっと喜び、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓うに違いない。
人間は愚かな生き物だ。一度成功したらそれが最善の手立てだと思い込む。
命を捧げることで大切な人を取り戻した彼女には、人を殺す躊躇や罪悪感は既にないはずだ。
夫や娘に危険が迫った時、私が再び「力を貸してやる」と囁けば――今回よりも簡単に彼女は私の誘いに乗るだろう。
今回以上に面白い殺戮劇を見せてくれるに違いない。
彼女が移住を考えているアストルム王国はこの国同様に小さいが、この国と違って他国と面している。
故に、高位精霊の力を持った彼女は好待遇で受け入れられるはずだ。
戦争の道具とするために。
大切な家族を守るためという名目で他国の人間を虐殺させてもいいし、アストルム王国を灰に変えるよう誘導してもいい。
そのあたりは状況に応じて対応を変えるが、どちらにしても私好みの展開が見られるはずだ。
「死がふたりを分かつまで一緒、か。いいものだな」
その誓い通り、私は生涯彼女の隣にあり続けるだろう。
彼女が死ぬか、壊れるまで。