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ほんとうに個人的な日本史  作者: 8000Q
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2 駆け落ち、そして「竹島」への移住のこと

竹島からの幸運な引き揚げができた祖父母一家。し待っていたのは、待っていたのは、厳しい現実と原子爆弾の一閃だった。

原子爆弾の一閃により、長崎は完全に違う世界になった。そこに住む人も、そこにあったものも全てが、以前からそうであったかのようにして存在していた・・・・

 私の母方の祖父、森重之は、大正2年(1913年)1月に生まれ、昭和8年(1933年)長崎巡査看守志願者養成所を20歳で卒業。そしてその後長崎市油屋町にあった派出所で勤務する。

 その派出所に土地を貸していたのが中野家(祖母の実家)であった。中野家は二代前から、この油屋町で飲食店(ちゃんぽん屋か?)を商っていたようである。ということは江戸時代から明治時代の時代が移る頃、この地に移り住んだことになるが、もともとは紀州和歌山の鯨漁の盛んな村(太地村か森浦村?)に住んでいたが、結婚を機縁として長崎へ移り住んできたと聞く。紀州の鯨漁と長崎の五島の鯨漁が何か関係があるかもしれない。

 ところが1936年、2.26事件を始めとして不穏に世情が進んでいく頃、食糧不足で店をたたむことに。そして店の跡地を派出所用地として提供。この真新しい派出所に祖父が勤務し始め、街中の呉服屋へ奉公に通う中野家の長女キミ子(祖母)と出会い、二人は<結婚>することになる。

 この<結婚>に対する祖父の実家、森家の反対は熾烈であった。というのも、森家が嫁として欲しいのは、家業である農業をきちんと担ってくれる女性であった。森家は明治の御一新以前は、武士の家柄であったようである。そして明治以降は、その広大な土地を背景にして農業を営んだ。そしてそれから60年以上農業を家業として営み、米や野菜、果物に卵に牛乳に至るまでの十分な自足自給の体制を整えていた。農業に転身してからの二代にわたるその労力は並大抵のものではなかっただろう。したがって祖父は、警察官ではなく、将来は家業を引き継いで農業をやるべく決定されていた。

 ところが祖母は長崎市内の中心部の街っ子。百姓仕事はしたこともなければ、そもそも土いじりさえしたことがなかったのではないだろうか。これを妻と認めることは、農家を継いでもらうには非常に都合が悪い。そういうわけで、日並郷の森家からは反対の声が強かったのである。

 しかし、である。そもそも、どうして祖父は警察官になっているのか。将来は農家を継ぐ、と決定されているのならば、最初から家業である農業をやらせてておけば良かったのではないだろうか。他に兄弟がいなかったのだろうか。

 調べたらその理由が分かった。祖父は養子(同郷の岩永家の三男)だった。祖母の父(実際には養父)には子どもがいなかった模様で、困った森家は、代々教師を輩出している地元のもう一つの名家、岩永家からその三男の重之を養子として迎えた。したがって、重之は森家の唯一の跡継ぎだったのである。とはいえ、急に決まった養子縁組だたったので、重之の夢であった警察官にならせたうえで、森家に戻るということだったのだろう。

 その後、祖父と祖母は、結婚を認められないまま、駆け落ち状態になる。祖父は、油屋町の派出所から、長崎市の野茂半島の三和町派出所に転勤。そして戦争色が深まってゆく1938年3月、辞令により朝鮮大邱署へ異動を命じられる。当時の情勢は、大東亜戦争へと走りだそうとする直前だった。ドイツやイタリアは欧州において戦争を開始しており、日本も中国とは交戦中。ソビエトとの間にはノモンハン紛争(歴史的には事件とされている)が勃発していた。祖母たちが、そんなきな臭い情勢下でも朝鮮総督府への異動を決断したのは、二人で森家へ戻ることはできなかったからではないだろうか。


 祖母は以前、「おばあちゃんたちは竹島から引揚げてきた」といっていた。しかし、現在領土問題で話題になっている竹島は、住むにはあまりにも狭すぎる。ましてや派出所を置く必要などない。そういうことで、竹島に住んでいた、という祖母の記憶は、何かの勘違いだろう、と思っていた。稀に出てくるその話題には適当に応対して、調べようともしなかった。

 しかし、祖母の死後、大事に保管されていた書類を見て分かったのは、祖母が竹島といっていたのは、以前は竹島といわれていた島で、現在でいう韓国の鬱陵島(うつりょうとう、ウルルン島)のことであった。ちょっとややこしいが、現在、領土問題で竹島といわれている件の島は、鬱陵島を竹島と呼んでいた関係で、当時は松島ともいわれていたようである。要は、竹島=現在の韓国領鬱陵島、松島=現在の竹島、ということで、祖母の記憶は確かだった。祖母は正しかった。


 祖父と祖母。二十歳台の若いカップルが朝鮮総督府から配属された派出所は、日本から離れた異国、朝鮮半島。そこからさらに東へ130キロほど離れた火山島だった。半島と違って日本人は、ほぼいない。この孤島で祖母たちは、巡査の仕事と自活のための農業を送り続けたことになる。

 生活ぶりは非常に厳しかった模様で、子育てと農業の仕事をしながら、日々を送った祖母の記述によれば、「お七夜のお祝いを産婆さんに出せなかったため、自分の着物を質入した」り、「日々の食べ物を得ることもほんとうに厳しく、背中に子どもを背負いながら慣れない農作業をこなし」、「落ちてくるようなきれいな星空の下、泣きながら、真っ暗な中を毎日家に帰っていた」とある。

 こういう中に、子どもの死を受け入れなければならなかった。祖母達はこの鬱陵島での生活のの間に、1939年4月2日に長男(秀男)を、1941年次男重治を(1942年死亡)、そして1943年、三男孝信を授かっている。次男重治の葬式の時の写真が残されている。朝鮮式の葬式の写真である。生後二ヶ月にして死んでしまった次男。この時の光景を写真に撮って残そうとした夫婦の思いは、推して知るべきだろう。

 当たり前であるが、電気もガスも水道もない。物資の補給も途絶えがちで、生活は一切、自給自足状態であったのかもしれない。長崎の街育ちの祖母は、相談する人さえ誰もおらず、その行き詰まった状況で、数度実家に手紙を書いている。そしてその手紙に応じ、祖母の父は、わざわざ鬱陵島まで人を遣って、祖母を迎えにやらせたようである。しかし、祖母は駆け落ち気味できたせいもあるのか「ここで帰ったら悔しい」からという一念で踏みとどまり、1945年4月までの7年間、この島で生活しきっている。

 

 さて、鬱陵島へ配属されたときこそ、見ず知らずの絶海の島で、大変な思いをしたらしいが、村で唯一の派出所であり、唯一の巡査となれば、年月を重ねるごとに少しずつ生活にも余裕が出てきたようである。半島から遠く離れた火山島ではあったが、そのために警察上部層からの統制は非常に緩く、祖父母は二人の子どもとともに、戦火とは無縁の、幸せな生活を送っていたと思われる。

 しかし、そういう時期に、引き揚げをしている。この引き揚げというのは、しかし、敗戦後の引き揚げではなかった。祖母の一家は、終戦直前の1945年4月末日、朝鮮総督府の巡査を辞職して、家族で帰国していた。祖母達が日並郷森家への帰郷を決意したのは、義母、すなわち森家の母の訃報が届いたからである。その頃の祖母は、秀男、孝信、という二人の幼子に加え、私の母も体内にいた。ようやく慣れた生活を一切捨てて、やったこともない田畑作業に牛の世話、掃除洗濯に子育て、十数人分の三食食事、風呂は五衛門式なので薪をの準備もしなければならない・・・。

 「でもね、おばあちゃんたちは、まだまし。引き揚げの人たちはほんとうに大変だったとよ」。祖母の生前は分からないままだったが、今なら少しは分かる。この台詞を聞いた時には、祖母達が引き揚げてきたのが敗戦前とは知りもしなかった。だから(え?おばあちゃんたちも引き揚げでしょ?)と心中で思っていた。

 祖母は、敗戦後の引き揚げの人たちの凄惨な事件と犯罪と苦労を、うわさを超えたレベルで知っていたように思う。どこの誰が被害にあったのか口に出すことはなかったが、祖母は本から得た知識ではなく、身近な体験話として知っていたように思う。内容は決して語らなかった。そして、朝鮮人に対して異常な恨みを持っていた。

 祖母は、多くの日本人が引き揚げ時に惨殺されたことも知っていたし、当時福岡にあった、二日市の保養所のこと、そしてそれに類した施設があったことも知っていた。二日市の保養所とは、引き揚げ者専用の堕胎施設である。無残な体験を経た少なからずの引き揚げ女性達は、引き揚げ船の上から海へ身投げをする女性たちを見ながら帰国し、この施設でこっそりと堕胎手術を受け、そして帰郷していった。朝鮮半島からの引き揚げの体験は、記録が存在する。

 祖母たちは1945年4月末に朝鮮の鬱稜島から引き揚げてきた。当時の祖母たちからすれば、断腸の思いで決意して帰ってきたと思うが、今から考えると、この引き揚げは、幸運で最良の選択だったといえる。もし、4ヶ月ほど遅れた敗戦後の引き揚げとなったら、祖母達一家は、絶海の孤島から日本へ帰り着くことはできなかっただろう。権力者として存在していた日本人夫妻は、島を離れるどころか、おそらく人知れず残酷な事実を経て、母も私もこの世に生まれることがなかっただろう。


 さて、祖母一家は、1945年の5月には故郷の時津町日並郷へ帰っていたわけだが、祖母たちが多忙の極みのような生活に少しは慣れてくるころ、祖母のその後の生活を、決定的なものにする事件が発生する。1945年の長崎。大きな歴史的事件を連想できるだろうか。そう。原爆投下である。祖母たちは帰国して少し落ち着いてきた3ヶ月後に私の母和子が生まれ、その1ヶ月後の8月9日、原爆の一閃にさらされることになる。

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