1 足の裏の赤あざと変死した伯父
私の右足の裏の真ん中あたりに三角形の赤い痣がある。そんなに大きくはない。しかしなにかの拍子に足の裏を見られたらすぐ、「これ何?」と言われるほど、目立つ存在だ。
1968年10月、私は長崎市で生まれた。やや大きめの家はあるが、地方ではそんなに珍しくもない。収入も平均並み。いわゆる中産階級。貧しくも豊かでもない、そんな平均的な家庭だった。父は、鉄鋼系職人で、長崎ではお決まりのような三菱系企業で働き、母は専業主婦。家は駅や繁華街からは少し離れた郊外にあり、家の片側には山があり、そこでカブトムシやクワガタムシを取りに行ったり、七つ川という池が七つもある川で遊んだり・・・。そう。長崎では、いたって普通の家庭であった。
しかし、普通の、という家族は存在しない。誰にも知られずとも、それぞれの家庭は固有の特殊な歴史を持ち、したがって特別である。
幼稚園の頃だったと思う。ある日、祖母と母に連れられて、ひいおばあちゃんの家に行った。それまでも何回かいったことがある。ひいおばあちゃんは足が悪く、立つことはできなかった。家は、長崎の繁華街、浜町のすぐそばにあり、近くをチンチン電車が走っていて、賑やかだった。ひいおばあちゃんの手元には、なぜかいつも手動式の殺虫剤があった。都会なのに近くに大きなお寺があったから、虫が入ることが多かったのかもしれない。そして、虫を嫌うお年寄りというのも珍しかった。
さて、家に着いて挨拶なんかをすませると、ひいおばあちゃんはすぐ「見せてみんね」といった。私の母は、優しく僕の右足をとって、靴下を脱がせた。ひいおばあちゃんは、私の足を皺だらけの手にとって、じっと見た。そして、「こいは(これは)、ヒデオの生まれ変わりばい」と言った。
なんのことか全く分からない私が、祖母の方を見ると、祖母は私の方へ手を合わせ、拝んでいる。母は、いつものようにニコニコ微笑んでいる。それから、ひいおばあちゃんは、「ここにこう、あっか墨ばつけたと(赤い墨をつけた)。親指でこげんしてさ(こういうふうにして)。生まれ変わってこんね、といいながらさ」といって、涙目になって私の右足裏に親指を何度もつけていた。
記憶はこれしかない。この不思議な記憶について、それまで祖母にも母にも聞いたことがなかった。
そこで、祖母の死をきっかけに母に聞いてみた。すると意外と簡単に答えが返ってきた。
ヒデオ・・・森秀男というのは、亡くなった長兄であった。母の兄弟は兄が一人だけだと思っていた。しかし実際は、母は四人目であり、上には三人の兄がいたらしい。その長兄が秀男。とても親孝行な兄で、勉強もできたが、農家であった森家の跡継ぎをするために農業高校を出て、祖母の農作業を手伝っていたらしい。近所でも評判の孝行息子で、おてんばな妹(母)を短大までやってくれたのも、その秀男伯父であった模様である(当時の長崎の女性としては、無駄に高学歴ということになる)。
しかし、その秀男伯父は、21歳の時に変死している。秀男伯父が発見されたのは、たばこ屋の前の細い側溝だった。そこに横向けに入って、溺死していた模様である。
車を飛ばしてその現場を実際に見に行った。タバコ屋はとうの昔に閉店だったが、看板だけは残っており、溝もそのままに残っていた。その溝は、深さも横幅も30センチくらいしかない。こんな細さでは、うつ伏せにも仰向けになることもできない。だから伯父は横向けで発見されたのだろうが、しかし健康な成人男性が溺れて死ぬというのはおかしい。もしかして、殺人とか、そういう犯罪に巻き込まれていたのではないのだろうか。
当時のことを知っていた地元の高齢者に聞いてみた。すると、たしかに不思議な出来事ではあったが、事故だったようである。警察が現場検証に来て、側溝に転がり落ちた拍子に眉間を強打したのが直接の死因、と判断されたようである。大雨が降っていたので、もし気を失って溝にはまれば、呼吸も難しかったかもしれない。
すぐ側の路上で筵の上に寝かされた秀男伯父の遺体は、生きているかのように綺麗な身体だったそうで、その側に、すっかり憔悴しきって座り込んでいる祖母がいつまでも座り込んでいたそうである。この時、祖母の夫(僕の祖父)は既に他界しており、跡取り息子として周囲からも期待されていた長男を亡くした祖母の無念は、想像もできない。祖母が死ぬまでこの件を一度も語ることがなかったことからも、その思いは察せられる。
警察が検証したということは、おそらく殺人その他の事件性はなかったのだろう。タバコを買いに来た伯父は、雨の日にうっかり階段から滑って転倒し、側溝の縁で急所を打ち、そのまま溝にはまり込んで溺れて死んでしまった、と。しかし、それにしてもやはりおかしい。タバコ屋は気が付かなかったのだろうか?こんな狭い側溝に成人男性が溺死するほどの水がたまりうだろうか?
タバコ屋のすぐ近くに河童地蔵と呼ばれるお地蔵さんがひっそり祭られてある。カッパ地蔵の前の、実に細い溝。それが現場。当時の店の前は、今とさほど変わっていないらしい。タバコ屋自体はとうの昔に閉店し、店の前には四段の階段があった模様だが現在はない。そして、その前の溝は当時のままに残っている。階段は多くはないから、雨の日に足を滑らせたとしても、あるいは万一後ろから誰かが押したとしても、手をついたりできるそうなものである。
伯父は泥酔していたか、あるいは病気か何かで憔悴しきっていたのではないだろうか?そうでないと、いきなり側溝の縁で手も付けずに眉間を打つというのは変である。しかし、よくよく聞いてみると、その秀男伯父は、深酒をすることも決してない、まじめな人物だったらしい。
そこでさらに聞き回ってみると、伯父は精神を患っていた模様で、精神科に通院していたようである。そして亡くなった当日も、その病院の帰りだったようで、その頃、かなりのうつ状態だったようである。それで憔悴しきっていて、反応も鈍っていて・・・ありえないことではない。
しかし、元気に明るく農作業をやっていた人が突然うつ状態に?親戚には精神病を患ったものはいないため、秀男伯父のそれは遺伝的なものではないだろう。何か事件があって、それがきっかけでうつ状態になったのかもしれない。
秀男伯父たちが住んでいた家、つまり母の実家には<開かずの間(部屋)>があった。
母の実家は、長崎市内から車で40分ほど行った、時津町日並郷にある。外観は古い田舎の家だったが、中は立派な柱や梁を有する旧家で(築120年以上といわれていた)、私が小学生の頃まで五右衛門風呂があった。大きな釜の底を薪で焚いて湯を沸かし、上に浮いていた丸いふたを沈めて入るという入浴体験は楽しかった。トイレは、戸外にある汲み取り式であり、柄の長いひしゃくで排泄物をくんで、畑にまくということをやっていた模様である。玄関を入ると舗装されてはいたが、土間があり、屋内の天井は異様に高く、天井の梁が錯綜しているのが見えた。縁側も庭も広く、その庭の田植機に並んで木造の農機具も置いてあった。
そんな田舎の旧家だが、<開かずの間>というのは、高齢や病気で人が最期を迎えるときに使用するところなので、決して入ってはダメと言われていた。囲炉裏がまだ残る団欒室。その奥にはテレビや大きなタンスがあって、その裏に確かにある障子とそのの開閉を、人工的に邪魔していた。その障子の奥こそが、その部屋、開かずの間の入り口だった。
実は子どもの頃、私はこっそり覗いたことがある。夏のお盆、お墓詣りにみんなで行く途中、わざわざ引き返した。そして親たちがいない留守の間に、テレビをずらして障子を少しだけ開けて、その隙間から中を見てみた。しかし、そこは驚くほど何もなかった。小さな曇りガラスから漏れてくる夕刻の光に照らされた薄暗いその部屋には、畳さえなかった。何年間もの、いや、何十年もの間に溜まったほこり以外、何もなかったのである。
しかし、奥に階段があった。それは、屋根裏へと続いていたように思う。二階などない平屋の家だとばかり思っていたが、天井裏にも部屋があったのだ。
これは考えてみれば、不思議なことだ。どうして未だに使われないままなのだろうか?祖母の実家の日並郷という地域は、高齢者が死に臨む特別な部屋があるのは珍しくはなかった。しかし、戦後はそういう部屋はなくなって、普通に使われるようになっていた。この開かずの間も、活用すれば部屋数は一部屋増える上に二階の部屋まで使えるようになるはずである。どうしてか?
親族の記憶と近所の人々の話を総合すればこうなる。
天井裏の部屋のようなところで最後に死を迎えたのは、1945年8月に亡くなった、祖父。原因は、原爆症。当時、原爆症に対する偏見は非常に厳しかったため、表面上は、腸チフスとしてここに幽閉され、水も与えられることなく、そのまま死を迎えた模様である。
この介助をしたのは誰であったか。もちろん祖母も介助をしたであろうが、祖母の多忙さと年齢からすれば、当時すでに中学生であった秀男伯父も深く介助に関わったに違いない。そしてそれは、非常な心理的負担を強いただろう。また、介助をしたということで、その後、原爆症に対する熾烈な差別を受けたであろう。原爆症に関しては、当時、感染する不治の病で子孫までそれは移ってゆく、とされていたようで、集落の中でのバイ菌扱い、とか、交際や結婚の拒否などは普通になされていたようである。また、敬愛する父を幽閉してしまったという記憶も、その後、異常なまでの負担になったのではないだろうか。
秀男伯父は年齢を重ねて差別にさらされるうちに、あるいは父の死に関わったという事情が分かってゆくうちに、その心理的負担は重くのしかかっていったかもしれない。そしてこれが、伯父がうつ病を発症させる原因ではなかったか。
この日並郷という地域。長崎市内爆心地からは直線距離で9キロほど離れており、原爆の被害は比較的軽微だった模様である。母は1945年7月生まれであり、原爆が投下された日は、まだ一ヶ月の乳児だった。その母の証言によると、原爆の一閃があった時、その烈風で、実家の旧式の大きな雨戸が全て外れ、室内に吹き倒れてきたという。もし雨戸が倒れたところに母が置かれていたら命はなかったが、偶然にも雨戸を開け放したところにいたから助かったらしい。母の兄は、原爆が落ちた後に降った放射能を含んだ黒い雨にさらされ、毛髪は全て抜け落ちて危篤状態になったが、その後、病院へ行くこともなく生きながらえている。
母もその兄も原子爆弾被爆手帳を持っているが、現在も元気にしている。実家の近所の人たちも原爆症で亡くなったという話は全く聞かない。ここからしても、祖父が急性の原爆症にかかって死亡というのはありえない話である。これはどういうことだろうか。
その前に、祖母と祖父の歴史を少し遡ってみる