反骨精神と酒
倉田の進捗管理の元、良太が小説を書き始めてから三日が経過していた。
倉田の進捗管理はおよそ進捗管理と言える代物ではなく、倉田が決めた日ごとの目標に達するまでは眠る事も許されないという狂気じみたものだった。
最初の二日は倉田の決めた目標を何とか達成することができていたが、創作というものはどうしても波がある。三日目に入り、執筆速度にブレーキがかかり始めた。
「どうした、全く目標に届いていないようだが?」
ノートパソコンのディスプレイを横から覗きながら倉田が言った。良太が使用しているエディターには現在何文字か表示できる機能がついている。それによって倉田は進捗を管理していた。
「すみません、今日はどうも筆が乗らなくて。もう時間も遅いですし、今日はもう書ける気がしなくて」
「ダメだ。目標を達成できていない」
立ち上がろうとした良太を、倉田が視線で押し留めた。
「そうは言っても、創作ってどうしても波があるんです。決まった時間で決まった量を書き進められるわけじゃないんですよ?」
「言い訳するのか?」
倉田の冷たい声と表情に良太は縮み上がった。
「いや、そういうわけじゃないですけど。明日もバイトだし」
「それが言い訳だと言っている。お前はできない理由を並べ立ててどうやったら今日は書くのをやめることを出来るかしか考えていない。
「そんなこと言ったって、今日はまだ十行しか書けてないんですよ?」
良太は訴えかけるような表情で倉田を見つめた。
「逆に聞きたいが、なぜ十行しか書けていないんだ? アイディアが思いつかないのなら少し気分転換に散歩でもしてくればいい。それでも書き進められないのならば今の展開にムリがあるのかもしれない。いっそのこと少し前から書き直すだとかいくらでも手があるだろう? お前はこの数時間何をしていたんだ?」
良太は「お前の態度を見てると、とてもじゃないけどそんなことできそうな空気じゃなかった」と言いたいのを必死に堪えた。それに倉田の言うことにも一理ある。
「はい、すみませんでした」
倉田にどんな言い訳をしてもムダだろう。少しでも睡眠時間を確保できるようにするため、良太は再び執筆に取り掛かり始めた。思いの外倉田と言い合いをしたのが気分転換になったのか、数分前とは打って変わって筆が乗るようになってきた。この調子ならば一睡もせずにバイトに行く羽目は回避できそうだ。
深夜2時を回った頃、ドアが開く音がした。反射的に視線を向けると、コンビニのレジ袋を手に下げた倉田だった。集中していて気づかなかったが、いつの間にか倉田は外に出ていたようだ。
「飲め」
良太の横にやってきた倉田がレジ袋の中から栄養ドリンクとエナジードリンクを取り出し、机の上に置いた。
「あ、ありがとうございます」
良太が内心「意外とこの人優しいところあるな?」と思った瞬間、良太の頭の中に別の疑問が生じた。
「あの、お金どうしたんですか?」
「俺の世界にも金はある。俺の物語の舞台も日本だしな」
「な、なるほど」
しかし同じ日本とはいえ、それって大丈夫なのかという別の疑問が湧いてきたが、良太は気にしないことにした。
十日目。連日の睡眠不足が祟り、パフォーマンスの低下が目立ち始めていた。明け方まで書き続けても目標に達することができず、倉田に土下座をして何とか睡眠時間を3時間確保したこともあった。
進捗状況はといえば、七日目から倉田の決めた目標より遅れが生じていた。そのため八日目から良太は店長に頼み込んで勤務時間を短くしてもらった。それでも進捗状況の遅れを取り戻すことができず、十日目から勤務時間を更に短くし、執筆作業に充てていた。そのおかげもあり、少しずつ遅れを取り戻し、物語は終盤に突入していた。
「調子はどうだ?」
倉田がいつものように横からディスプレイを覗き込む。なんとエディターに表示されている文字数は、いつの間にか進捗目標に到達していた。
「いつの間に。一体どうしたんだ?」
「どうです倉田さん。これが俺の実力ですよ!」
良太は半分寝ている顔で笑う。死んだ魚のような目をしている。
「……待て。カーソルを少し前に戻せ」
良太の表情がなにかに怯えるような表情に変わった。
「いいから戻せ」
良太は倉田から目をそらし、一向にカーソルを移動させる気配がなかった。
「どけ」
「あ!」
倉田は良太をデスクの前からどかせると何行か前にカーソルを移動させた。良太は大量の空白文字によって文字数を誤魔化していた。
「おい、どういうことだ」
良太は下を向いたまま何も答える気配がない。
「おい」
次の瞬間、良太は下を向いたまま拳で机を強く叩いた。狭いアパートの室内に、鈍い音が響き渡る。
「どうして俺がここまでしなきゃいけないんですか? 俺は所詮アマチュアですよ? ここまでして新人賞に間に合わせなきゃいけない理由ってなんですか? どうしても間に合わせなきゃいけないなら、どうしてもっと早く俺の前に現れてくれなかったんですか?」
「今更だな。今頃そんなことを疑問に思ったのか?」
動じた様子もなく、淡々とした口調で倉田が問いかけた。
「答えてくださいよ」
感情を押し殺しているが、怒りに満ちているのがすぐに分かる声だった。
いつもならば倉田にビビってしまう良太だが、我慢の限界だった。なぜ自分がここまでやらなければやらないのだろうか。
「じゃあ、やめるか」
「……え?」
予想外の答えに、良太は面食らった。
「生憎だが、お前が納得できるような答えはない。やめたければやめろ。今までよく頑張ったな。あすもバイトがあるんだろう。早めに寝ればいい。……だがな、そうやって自分の殻を破ろうともせずに出来ることを出来る範囲でやってるうちは何も変わらない。気がつけばお前はまた小説を書かなくなるだろう。そしてまた何も変化のない、かと言って状況が好転する気配のない平凡な日常に戻るのだろうな。まあ、それもいいだろう。俺には関係のない話だしな」
倉田は良太に背中を向けると玄関に向かって歩いていく。
良太は腸が煮えくり返る思いだった。散々無茶振りをされたあげく、ここに来て急に突き放したような態度だ。
「ふざけるなよ!」
良太はアパートを出ていこうとする倉田の腕を掴むと、倉田を振り向かせた。倉田の腕が想像以上に太く恐怖を感じたが、恐怖心を押し殺し、倉田に向かって胸の内をぶつけはじめた。
「小説をもう書く気のなかった俺に散々無茶させといて、ここに来てそれはないだろう? 戻れよ。ここまでコケにされて、黙ってられるかよ。やってやるよ」
「フッ、そうか。じゃあ、もう少し頑張れ」
倉田は良太に気付かれないようにしてやったり。という表情を一瞬だけ見せ、あっさり部屋の中に戻った。
闘争心に火のついた良太は席につくと過去にない勢いでキーボードを叩き始めた。しかしその闘争心は結局一日しか続かず、次の日には弱音を吐き始めるのだが、十日目に大幅に進捗を取り戻したおかげで締め切りに間に合わせることができたのは言うまでもない。
倉田が良太の前から消えて一ヶ月が経過した。
小説を書き上げた直後は睡眠不足と過労によって体のあちこちにガタが来ていたが、一ヶ月が経過し、体調も元に戻りつつあった。
気がつけば良太の日常も倉田が現れる前とほぼ同じ状態に戻り、良太にはあの二週間は本当に現実だったのか疑わしく感じるようになっていた。しかし、ノートパソコンの中に残っている小説のファイルと、出版社から送られてきた応募完了通知のメールがあれは確かに現実だったと物語っていた。
その日は良太が血が滲む思いで書き上げた小説の応募先、武田文庫ハードボイルド小説新人賞の一次審査の結果発表の日だった。
バイトから上がった良太は事務所でタイムカードを切ると、椅子に腰を下ろすと即座にスマートフォンで結果発表ページを表示させた。だが、下にスクロールする勇気が湧いてこない。あれほど一生懸命書いた小説がもし一次審査も通過できなかったらと思うと怖くて手が動かないのだ。
そうしているうちに頭の中に様々な事が思い浮かぶ。あそこの表現はイマイチだったのではないか。あのエピソードは蛇足だったのではないか。ハッピーエンドにするのが癪で倉田が最後は逮捕されるバッドエンドにしてしまったが、今日日バッドエンドは流行らないのではないか。そもそもプロットから……。
良太が椅子に座ったまま身動きが取れずに固まっていると、退勤した清水が事務所に入ってきた。タイムカードを切ると、何やら様子がおかしい良太に気づき、「どうしたんですか?」と声をかけてきた。そしてすぐに今日は良太が以前話していた新人賞の一次審査の発表日であることを思い出した。
「もしかして、ダメでした?」
気遣うような表情で、清水は良太の顔を覗き込む。
「い、いえ、それが、怖くて、まだ見てないんです」
良太は恥ずかしそうに俯いた。
「大丈夫ですよ。佐藤さんならきっと一次審査くらい通ってますよ! じゃあ、一緒に結果を見ましょう」
「えっ?」
そう言って清水は良太の横に座った。清水が座った瞬間、柔らかな甘い香りが良太の鼻孔をくすぐり、良太は思わずドギマギした。だがそれを清水に悟られないよう必死で平静を装い、「じゃ、じゃあ見ますよ!」と言ってから一気に画面をスクロールさせた。しかし、それでも良太は結果を見ることができずにいた。
「あ、佐藤さん、通ってますよ!」
良太が決心を付ける前に結果を見てしまった清水が嬉しそうな声で言った。
「え、ホントですか?」
良太が恐る恐るディスプレイを見ると、確かに一次通過作品のリストに『俺は夕焼けの港に静かに佇む 佐藤良太』と書かれていた。
良太は思わずため息をついた。一次審査は小説として体を成していれば通過できると一般的には言われているが、だからこそもし落ちていた場合はそれ未満のものという烙印を押されたことに他ならない。だからこそもし一次審査も通過できなかったらと思うと怖くて仕方がなかったのだ。
「佐藤さん、おめでとうございます」
清水はまるで自分のことかのように、嬉しそうに笑った。
「あ、ありがとうございます。といっても一次だからこれからですけどね」
言葉とは裏腹に良太は照れ臭く笑った。やはり清水のような可愛い女の子に祝福されて喜ばない男なんていない。
「そうだ、せっかくですし、お祝いしませんか?」
清水は手でグラスジョッキを持ち上げるような仕草をした。
「えっと、飲みに行くってことですよね?」
良太は念を押すように清水に問いかけた。ジョッキグラスを持ち上げるような仕草をして、まさかタピオカドリンクでも飲みに行くとは思えなかったが、勘違いだったら恥ずかしい。念の為の確認だった。
「当たり前じゃないですか~。何言ってるんですか」
清水は可笑しそうに笑った。
「マジかよ……」
良太は清水に聞こえないように小さい声で呟いた。良太は女性から飲みに誘われるのは生まれて初めてのことだった。
「何か言いました?」
「あ、いや、何も言ってないですよ! 行きましょう!」
いつの間にか良太のテンションは不自然に上がっていた。
「わかりました。じゃあお店の前で落ち合いましょう」
「は、はい!」
清水とは気がつけば職場で休憩時間や退勤時間が重なれば雑談で盛り上がることはよくあったが、二人でこの様なことは初めてだった。
30分後、良太と清水はバイト先近くのダイニングバーにいた。雑居ビルの二階にあるため少し手狭だが、装飾に木を多く使っているためか、どことなく安心感を与えてくれる店内をしていた。
「へえ、こんなところあるんですね」
良太は無意識のうちに店内のあちこちを見回していた。良太は正直この手の店が苦手だ。値段の割に手抜き感のあるサラダ、小皿に申し訳程度に盛り付けられた料理。メニューを見ているだけで損した気分になってくる。
「二人なんですけど、空いてますか?」
「はい、大丈夫ですよ。こちらにどうぞ。二名様ご案内です!」
若干挙動不審の良太に対して、清水は当然ながら挙動不審になっている様子はまったくなかった。
席に着き、しばらくするとビールが二人分運ばれてくる。良太は普段ビールを飲むことは殆どないのだが、清水に合わせて自分も飲むことにした。
「じゃあ、乾杯しましょうか」
「あ、はい」
ジョッキを軽くぶつけ、お互いビールを口に運ぶ。良太は軽く口に含む程度飲んだだけだったが、清水は飲みっぷりが良く、おいしそうに一気に半分以上を飲んでしまった。
「清水さんって結構飲むんですね?」
見た目とは裏腹な飲みっぷりに驚きながら良太が言った。
「そうなんですよ」と清水は気持ちよさそうにため息をついた。
「ビールって『お酒飲んでるな』って感じの味がするじゃないですか。それが本当に好きで」
「なるほど。普段よくこうやって飲みに行くんですか?」
「たまにですかね。普段は家で飲んでることが多いです。やっぱり家だと周りを気にせず飲めるじゃないですか」
清水は早くも顔が赤くなり始めていた。
「そうなんですね……」
会話が止まり、沈黙が訪れる。今までは気に留めていなかった周りの客の会話が、良太には急に聞こえてきたように感じられた。
ある程度気心の知れた相手ならば、多少沈黙が訪れたところで別に気にならない。しかし、相手は同じ職場の人というだけの関係だ。職場でよく話すとは言っても、やはりそれくらいの仲では沈黙は気まずいものだ。
良太がこの沈黙をどうしようと考えながらビールをちびちびと飲んでいると、「そういえば」と清水が沈黙を破った。
「佐藤さんって、誰に対しても敬語ですよね?」
「まあ、そうですね」
「どうしてですか~?」
清水の表情はいつの間にか、酔っぱらい特有の締まりのない笑顔に変わっていた。
「どうしてですかって言われても」
良太は返事に困った。敬語ならば誰に対しても失礼ということはないからだとか色々理由はあるが、「こいつ何タメ口使ってんの?」と相手に思われるのが怖いというのが一番の理由だった。だがそれをそのまま伝えてしまっても問題ないものか。そんなことを考えていたら、良太はますますどう答えるべきか分からなくなってきた。
「佐藤さん、私より年上なんですから、気にせずタメ口で話してくれてもいいんですよ?」
「いや、逆にタメ口で話すほうがなんか気を使うんですよね」
「ふ~ん。そうなんですね」
清水はニヤリと笑った。
「じゃあ、今から佐藤さんは敬語禁止! もし敬語が出ちゃったらここは佐藤さんのおごりで! いいですね?」
良太はできればノーと言いたかった。だがそんなことをしてしまったら場が白けてしまうのは間違いないだろう。良太はそのルールを飲むことにした。
「で、では、今から敬語をやめるけどさ、不自然でも笑わないでよね?」
若干不自然なイントネーションで、良太がやりづらそうに言った。それがなぜか清水のツボに入った。
「佐藤さ~ん、なんですかそれ! 不自然にも程がありますよ!」
清水は楽しそうに笑った。
「いや、しょうがないでしょ。慣れてないんだから」
良太は気恥ずかしさから顔が赤くなったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「佐藤さんって面白い人ですね」
「そ、それは、ありがとう…ご」
「あ、今ありがとうございますって言いそうでしたよね今! 惜しかったなあ」
「危なかった!」
酒の勢いか、タメ口効果か分からないが、会話がスムーズに進み始めていた。気がつけば2時間が経過し、酒があまり強くない良太もビールを何杯も飲んでしまっていた。
「あ、もうこんな時間ですね。そろそろ帰りましょうか」
清水が左手に付けた腕時計を見ていった。もうすぐ23時になろうとしていた。
「あ、うん。そうだね」
良太は残念そうに答えた。良太は心から楽しいと思えるひとときを過ごせたのは久しぶりのことだった。ずっとこの瞬間が続けばいいのに。そう思えたほどだった。
結局なんとか敬語禁止を守り抜くことができたので割り勘で会計を済ませ、店の外に出る。二人で最寄り駅に向かおうとしたところで、横からどこかの高校の制服を着た女の子が現れ、二人の進路に立ちふさがった。
「やっと見つけたよ、パパ」