反転
「ちょっと、清水さん、何言ってるの」
良太は思わず苦笑を浮かべた。清水は自分と沙希が恋人関係にあることを知っている。それに清水が恋人がいると知っている男に手を出すような女性とは思えない。
良太はこのどことなく居心地の悪い空気を変えるべく話題を変えようとしたが、
「冗談じゃないですよ」
清水はそうはさせまいと良太を誘っているような表情でじっと見つめた。清水の夜の海のような黒い瞳に見つめられ、良太は思わず見とれてしまう。
清水は頬杖をつくのをやめて椅子から立ち上がった。そして向かい合って座っていた良太の後ろに回り込み、良太の肩に両手を乗せた。そして良太の顔と清水の顔の高さが同じになるように体を曲げた。清水の顔が、良太の顔に息が当るまでの距離に近づく。
「え、ちょっと」
「ふふっ、ドキドキしてる」
清水が艶のある声で良太の耳元でつぶやく。清水の放つ色香に勝てず、良太の心拍数はみるみるうちに早くなっていく。
「冗談だったらこんなことしませんよ?」
良太の耳元で清水がささやくと、清水は良太の耳に向かって息を吹きかけた。良太の背筋に快感が走り、表情が快感で歪む。いつの間にか良太の呼吸は荒くなっていた。
このままでは完全に清水に主導権を握られてしまう。良太は意を決し、清水を振りほどいた。
「清水さん、俺たちは恋人じゃないんだからそういうことは……」
そして諭すような口調で清水に語りかけた。
だが清水の反応は良太の予想とは全く違うものだった。
「意気地なし」
「えっ」
清水の雰囲気が変わっていることに良太は気がついた。育ちの良さそうな柔和な雰囲気は完全に消え去り、どこか冷たい雰囲気を漂わせていた。
清水は良太から少し距離を取ると、独り言を言うかのように話し始めた。
「佐藤さん、私って美人じゃないですか。だから昔からモテるんですよ。モテるって良いことかも知れないですけど、大変なんですよ? 毎回毎回断るのは面倒だし、同性からも妬まれるし。それに寄ってくる男はどいつもこいつもつまらない男ばかり。面白そうな男はそもそも私を口説こうとしないんですよ。中途半端に賢いから私を口説いてもムダって思ってるんでしょうね。あ、でもその時点でつまらない男ですかね。アハハ。あ、でも佐藤さんも正直最初はそのつまらない男の一人だったんですよね。オドオドしてて男らしくないし。だけど小説書いてる人って今まで出会ったことないからちょっとだけ面白そうだなって思ったんです。彼女できた途端キャラが一気に変わったのも面白かったですし。それでもやっぱり変わりきれてなくてどこかパッとしないのに自分のやりたいことはちゃんとあってそれを実現させる。そして一途。モテない男って何かの間違いで彼女できると調子乗っちゃったりするのに、佐藤さんは相変わらずですよね。私が迫ってきても受け入れようとしない。見た目が良いわけでもないし、冴えないけど、だけどそれ以上に良いところもあって、そういうダメなところが逆にチャームポイントに思えてくる。そういうところが面白くて、佐藤さんのこといいなって思うんです」
言い終えた後清水は、普段よりクールな笑みを浮かべた。
良太は清水にけなされているのか、褒めているのかイマイチ判断がつかなかったが、清水のキャラが普段とは違うことは間違いなく分かった。
「清水さん……なんかキャラ違わない?」
「違うっていうか、これが本来の私ですよ。普段は猫被ってるんです。あっちのほうが男ウケもいいし」
清水はわざとらしく微笑んだ。
「あ、うん……」
良太はなんと答えたらいいのか思いつかず、とりあえず相槌を打った。
「それで佐藤さん」
清水は真剣な表情で良太を見つめた。
「は、はい。なんでしょうか」
良太は思わず背筋を正し、丁寧な口調で答える。
「まず、出版社に連絡しましょう。何度応募しても全くデビューできずに諦めてしまった人から見れば佐藤さんは贅沢です」
清水は良太に向かって「ビシッ」という擬音が聞こえそうなくらいまっすぐに指差した。
「それに、佐藤さん、前に言ってたじゃないですか。一度社会のレールから外れてしまうと戻るのって難しいって。社員になれたくらいですんなり戻れるものなんですか?」
「それは……」
良太は何も言い返せず、清水から視線を逸した。
清水の言う通りだった。一度レールを外れて、レールを外れることを諦めてまたレールに戻ろうとしても一度レールを外れた瞬間、本来走る予定だったレールは撤去されてしまう。だからレールを自分で敷き、そこを走っていかなくてはならない。そしてそうやって敷かれたレールはどこか歪な上に、当然ながら同年代でレールを走り続けていた人たちは自分より遥か前を走っている。それどころか自分より年下に追い越されてしまっている。遅れを取り戻そうにもそう簡単に遅れを取り戻すことはできない。ふとした時に「なぜ自分はレールを外れてしまったんだろう」と過去の自分を責めたくなってくる。こんなことならレールを外れたままがいいのではないかと思うが、レールを外れたまま自分の足で走り続ける辛さを知っているだけに周りと比べて遅れていると感じつつも歪なレールの上を走る方がいいように思えてくるのだ。
「確かに、清水さんの言う通りだよ。折角のチャンスをふいにするなんてもし身近な人間がやろうとしてたら『ありえない!』ってきっと思うよ。だけどそれは他人だからだよね。デビューできたはいいけど全く本が売れなくて一人寂しく貧しい生活を送ることになったら、あのとき素直に社員になっていれば……って絶対後悔すると思うんだ。そう思うと、やったデビューだ! って素直に喜べないんだよね」
良太は寂しそうに笑った。
「佐藤さん」
良太の近くに歩み寄った清水はかがみ込むと良太の手を取った。
「だから、私がいるじゃないですか」
「えっと、それはどういう意味?」
清水の発言の真意が分からない良太は照れながら清水に問いかけた。それを聞いた清水は呆れたようにため息をついた。
「はあ~。そこまで行くと鈍いを通り越して病気ですよ、佐藤さん。そのままの意味、ですよ」
しかし清水の表情はどこか楽しそうだった。
次の日の早朝。良太は肌寒さで目を覚ました。布団を被って寝たはずなのに良太の体の上には布団が無かった。良太は「寝相が悪いわけでもないのになぜだろう」と思いながら目を閉じたまま手探りで布団を探した。
しばらくもぞもぞと手を動かしていると手に何かが触れた。しかしその触感は明らかに布団ではなかった。それは手が吸い付くように柔らかく、少しだけ冷たさを感じた。だが『それ』は触れているだけでなんとなく安心感を与えてくれる、いつまでも触っていたくなる肌触りをしていた。
良太は不思議に思いながらもそれを触り続けることをやめることができなかった。しばらく感触を楽しんでいると、『それ』がある方向から「んっ……」という声が聞こえてきた。次の瞬間、良太は『それ』の正体が何であったかを思い出した。
良太はベッドから起き上がり、自分の横で気持ちよさそうに寝ている清水の寝顔を見下ろした。
「やってしまった……」
目が覚めて意識がはっきりとしていくにつれて、遅効性の毒が徐々に体内に回っていくように良太の中で後悔の念が強くなっていく。思わず頭を抱えたくなる。
良太は世の男達がその場の勢いでしてしまうというのがどうしても理解できなかった。しかし、昨晩身を以て人間の中途半端な理性では『その場の勢いには逆らえない』ということを学んだ。
(しちゃったものは仕方がない。今後どうするかはこれから考えよう)
良太は半ば開き直ったように前向きに考えることにした。清水を起こさないように静かに布団から抜け出すと、水分補給をするために冷蔵庫に向かった。冷蔵庫から昨日清水が持ってきたスポーツドリンクを取り出して飲んでいるとチャイムが鳴った。
良太はこんな早朝に誰だろうと思いながら玄関へ向かった。アマゾンで何か頼んだ記憶はない上に、そもそも宅配便にしても早すぎる時間だ。
怪訝に思いながら良太が玄関を開けると、そこには10歳前後と思われる男の子と女の子の2人が立っていた。




