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小説を途中で書くのをやめるとどうなるか  作者: アン・マルベルージュ
11/13

伏兵現る

 良太は目の前で起こったことを受け入れることができなかった。

 沙希が消えた。文字通り跡形もなく、最初からそこには誰もいなかったかのように。

「嘘だろ……?」と思わず良太の口から漏れる。

 ふらつきながら立ち上がり、テーブルの反対側、少し前まで沙希が座っていた場所へ回り込む。当然、沙希はいない。呆然とした表情で、沙希がさっきまで座っていた、今は誰も座っていない椅子を生気の無い目で見下ろす。

 ふと、良太がテーブルの上に視線を向けると沙希が使っていたノートとペンだけは消えずにいた。

 良太はノートを開いた。ノートに書き込まれた内容は消えることなく残っていた。

 それを見た瞬間、良太の目から涙が溢れ始めた。その場に座り込み、ノートを抱きかかえると、良太は大声で泣き出し始めた。そして、そのまま夜明け頃に泣き疲れて眠りに落ちた。

 翌朝。良太は窓から差し込む朝日で目を覚ました。外からは車の音や、子供の声が聞こえてくる。

 意識がはっきりしてくるにつれて、目に違和感があることに気づいた。立ち上がり、鏡の前に立つ。良太の白目は真っ赤に充血し、目の周りは赤く腫れていた。今日もバイトだが、とてもではないが人前に出られる顔ではない上に、バイトに出られる精神状態ではなかった。

 店長に「体調が悪いので休みます」と連絡し、ベッドに体を預けるように倒れ込む。

 ベッドの上から天井を眺めていると、自然と毎晩沙希と手を繋いで寝ていたことが思い出されてくる。良太は天井から目を逸らし横になると、涙で滲んだ目を腕で拭った。涙が滲みて痛かった。

 睡眠時間が十分ではなかったこともあり、いつの間にか良太は眠りに落ちていた。次に目を覚ましたのは夕方だった。

 目を覚ました良太は、虚ろな目でそのままただ視界に入るものをじっと眺めていた。喪失感で何もする気が起きなかった。頭の中はこのまま消えてしまいたい。そのようなネガティブな感情でいっぱいだった。

 だがそんな状態でも腹は減る。空腹に抗えず、良太はベッドから起き上がった。疲労と空腹で足に力が入らなかった。

 おぼつかない足取りで冷蔵庫の前に向かい、冷蔵庫を開ける。チルド室の中を覗き込んだ良太は底にあったものを見て顔を歪ませて泣き出し始めた。そこには、ラップに包まれた以前沙希が作り置きしてくれた料理があった。

 その作り置きの料理以外にも、良太の部屋は沙希が確かに存在していたもので溢れていた。キッチンに置かれた調理器具、二人分の食器、沙希のために購入した服。それらが視界に入るたび、良太は嗚咽を漏らした。


 沙希の残してくれた料理を平らげ、良太は今までの人生で一番心を込めて「ごちそうさまでした」と手を合わせた。

 これで未来永劫沙希の作ってくれた料理を食べることはできなくなってしまった。良太は胸に小さな痛みを感じた。しかしだからといって食べずに腐らせてしまったり、冷凍庫にしまい込む事は沙希も望んでいないだろうと良太は自分を納得させた。

 満腹になり、わずかではあるが良太の心に余裕ができてきた。だが、沙希のいないこの世界で生き続けていくことに意味があるのかと考えると無気力感が全身にみるみるうちに広がっていく。良太は再びベッドに倒れ込み、目を閉じた。満腹になっていることもあり、目を閉じてしばらくしていると意識が徐々に遠のいていく。その刹那。一つの疑問が良太の脳裏によぎり、良太は勢いよくベッドから起き上がった。

「なんで沙希は消えたんだ?」

 倉田が消えたのは小説を書き終えた後だった。そのため良太は書きかけの小説の登場人物がこの世界から消える条件は『小説を書き終えること』だと思いこんでいた。しかし、沙希は小説を書き終える前に、そもそも続きを書く気もなかったのに消えてしまった。

 良太はノートパソコンを立ち上げると、小説が保存されているフォルダを開いた。そのフォルダの一番上には『キッチンナイフ・ガール』のファイルが来るはず……だったが、一番上に来ていたのは倉田が主人公の『俺は夕焼けの港に静かに佇む』だった。

 その後も良太はノートパソコンのハードディスク内をくまなく探したが、『キッチンナイフ・ガール』のファイルはどこにもなかった。

「沙希……なんで消えちゃったんだ?」

 良太はノートパソコンの前で絡ませた両手に額を押し付けながら問いかけるように呟いた。

 その時、良太のノートパソコンが通知音を発した。良太が頭を上げディスプレイを確認すると、通知には『武田文学社文庫編集部 水野です』と表示されていた。

 その通知を見て良太は自分の小説が出版されるチャンスを掴んだことを思い出した。だがそれを思い出したことによって良太は面倒くさくてたまらなくなってきた。ただでさえ沙希が消えてしまったことが堪えているというのに、そんな状態で重要なことを決めたくなかった。

 良太がしかめっ面でだるそうにため息をつくと、今度はスマートフォンの通知が鳴った。

「今度は何だよ?」

 乱暴にスマートフォンを拾い上げ通知を確認すると、清水からのメッセージだった。

『佐藤さん体調大丈夫ですか?』

 良太はどう返信するか少し悩んだが、『ありがとう。ちょっと疲れが出たかな。大したことないよ』と返信した。

 清水からの返信はすぐに来た。

『大したこと無くて良かったです! 私今バイト終わったのでこれから佐藤さんのお見舞いに行きますね』

 そのメッセージを見た良太は思わず「は?」と間抜けな声を漏らした。

「……なんだって!」

 良太は素早く座っていた椅子から立ち上がると、見られては困るものを片付け始めた。沙希がいた間、二人で部屋をある程度は整理していたが、部屋のあちこちに沙希がいた痕跡が残っていた。清水は良太と沙希との関係を知っているとはいえ、流石に一緒に住んでいたことまでは話していなかった。

 素早くかつ丁寧に、沙希が着ていた服などを収納にしまい込んでいく。

少し前まではそれらを見るだけで目から涙が溢れてきていたというのに、しまい込んでいる間は何故かそういった感情が湧いてこなかった。

 沙希がいた痕跡を隠し、荒れ始めていた室内を掃除し終えた直後、チャイムが鳴った。

「きたか……」

 良太は一度大きく深呼吸をして玄関まで歩いていき、ドアを開けた。そこにはレジ袋を下げた清水が立っていた。

「あ、佐藤さん思ったより元気そうですね。よかったです」

 良太の姿を見るなり、明るい声で清水が言った。

「うん、ぐっすり寝たおかげで良くなったよ」

 良太はわざとらしく「もうすっかり元気!」と言いたげなポーズを取った。

 それを見て清水は少し笑うと、

「あ、もう元気になったなら微妙かもしれないですけど、これお見舞いです」

 何かが入ったレジ袋を良太に差し出した。

 良太はレジ袋を受け取りながら中身を一瞬確認する。中にはゼリー飲料やアイスなど、風邪を引いた時に欲しくなるようなものが入っていた。

「わざわざありがとう」

「いえいえ」

 清水は微笑を浮かべると、

「そういえば今日は沙希ちゃんいないんですね?」

「うん、今は出かけてて……」

 まさか消えたと正直に言うわけにも行かず、とりあえず「出かけている」とその場を切り抜けるために答えたところで、良太は何かがおかしいことに気づいた。清水に沙希と一緒に住んでいることを話したことがあっただろうか?

「あっ!」

「やっぱりそうなんですね~。いつからなんです? いつからなんです?」

 清水は楽しそうに意地悪そうな笑みを浮かべながら良太ににじみ寄った。意地の悪そうな表情を浮かべていても彼女は絵になる。

 良太は内心頭を抱えたくなった。また面倒くさいことになってしまった。

 どうするべきか。良太はこの場をどう切り抜けるか少し考えた結果、とりあえず清水には一回上がってもらい、お茶でも飲んでもらってる間に「沙希は友達の家に泊まると連絡が来た」と清水に話すことにした。

 良太は一歩下がって清水から距離を取ると、

「ま、まあ、立ち話もなんだから、お茶でも飲んでかない?」

 手で上がるように示した。

 それを聞いた清水は非難するような冷たい口調で、

「え、佐藤さん沙希ちゃんがいないからっていきなり浮気ですか?」

「いやいや、違うって」

 良太は大げさな身振り手振りを取って否定した。思わず額に汗が滲む。

 それを見た清水はじっと冷たい表情で良太を見ていたが、一気に表情を崩して笑い始めた。

「クスッ……フフ……。佐藤さんって本当に分かりやすいですね」

「なんだ、冗談か。驚かせないでよ」

 良太は安堵のため息をつき、弱々しく言う。

「まあまあ、いいじゃないですか。お邪魔します」

 清水は楽しそうな口調で笑いながら靴を脱ぎ、家に上がった。


「へえ、意外にキレイにしてるんですね」

「それ、沙希を最初に部屋に上げたときも同じことを言われたよ」

 良太はお茶の準備をしながら苦笑した。

「ということは佐藤さんって元々きれい好きなんですね。ポイント高いですよ!」

「あーうん、ありがとう。コーヒーで良かったよね?」

 清水に主導権を握られないよう良太は話題をそらした。

 その後も部屋のあちこちを興味深そうにうろつく清水に、良太はどことなくやり辛さを感じながら準備を済ませるとテーブルにコーヒーの入ったマグカップを置き、清水に座るように勧めた。

 席についた清水は、まるで日差しを浴びているかのような気持ちよさそうな表情でコーヒーの香りを吸い込む。

「わあ、いい香り。これ佐藤さんが買ってきたんですか?」

「いや、これは沙希が近所のコーヒーショップから買ってきたんだよ。ホントにいい香りするよね」

 良太も部屋に漂う落ち着きを与えてくれるコーヒーの香りを鼻孔に感じながら席につく。

「それじゃ、いただきますね」

 清水はどこか優雅さを感じさせる上品な手付きでコーヒーカップを持ち上げると、コーヒーを一口飲んだ。その一連の動作に良太は育ちの良さを感じた。

 思わず見とれていた良太の視線に気づいた清水は、

「どうしました?」と柔らかい笑顔を返した。

「なんていうか、清水さんってお嬢様なのかな? って思って」

「そんなことないですよー。普通の家庭ですよ」

 清水はどこか余裕を感じさせる表情でやんわりと否定した。

「本当? そういうふうにうちは普通っていう人に限って普通じゃないんだよなー」

「本当普通ですよ。家だって駅から結構歩いたところにありますし。夏は駅に向かうだけで汗だくになっちゃうんですよね」

 あくまで自分の家は普通の家庭だと強調したそうに清水が答え、もう一口コーヒーを飲む。コーヒーカップを口から離したところで、マグカップが気になったのか眉間に皺を寄せて凝視する。

「このマグカップってもしかして?」

「沙希のだね」

 それを聞いた清水の表情が険しいものに変わった。

「ダメですよ。佐藤さん」

 清水は小さい子供を叱るような口調で、

「彼女のマグカップを他の女に使わせるなんて言語道断ですよ?」

「はい、すみません」

「よろしい」

 清水は満足げに頷くと、

「佐藤さんのそういうどこか抜けたところ好きですよ」と小さくつぶやくと、何事もなかったかのようにマグカップを口に運んだ。

 小さくつぶやいた言葉を良太は聞き逃さなかった。確かにさっき清水は自分のことを「好き」と言った。おそらくは、そういう意味の「好き」では無いだろう。だが、もしそういう意味の「好き」だったとしたら。清水は確かに美人だし、話も合うが、沙希がいなくなったから次には清水と……というのはいくらなんでも不誠実にもほどがある。

 良太がそのような気の早すぎる事を考えていると、

「そう言えば、三次審査の結果いつでしたっけ?」と少し前につぶやくように言ったことは特に意味がなかったかのように清水は話題を変えた。

「あ、そっか」

 良太は清水には出版社から賞とは別に出版したいという連絡が来たことをまだ話していなかった事に気づいた。

「実は少し前に出版社の編集者から賞とは別に出版したいって電話があったんだよね」

「え、本当ですか!?」

 清水は驚いたように形の良い目を大きく開き、良太に向かって身を乗り出した。その表情は驚きと興奮が混じっていた。急に距離を詰めてきたことで良太の心臓の鼓動は早くなった。

「ほ、本当です」

 良太は困惑しながらも清水から少し距離を取った。

「おめでとうございます! すごいじゃないですか!」

 清水は目を輝かせ、何度か小さく手を叩いた。声のトーンが高くなっていた。

「ただ、実はまだ待ってもらってる状態なんだよね」

 清水の喜び具合に水を差すようで良太は申し訳無さを感じた。

「えっ、どうしてですか?」

 清水の反応には少し困惑が混じっているようだった。

 良太は返答に詰まった。元々はどちらかといえば辞退しようかと考えていたが、それによって沙希と喧嘩をしてしまった。その後沙希とは仲直りできたので沙希と話し合った上でどうするか決めようと思っていた矢先、沙希は消えてしまった。そんな状態でこのような重大な決断をする気が起きず今に至る。と正直に答えるわけには行かなかった。そもそも正直に話したところでこのような話を信じてもらえるとは思えなかった。

 良太が「どうしてって言われても」と清水から視線を逸らせて場を持たせようとしていると、

「もしかして、沙希ちゃんと喧嘩しましたか?」

 思わず良太は視線を上げ、清水に視線を向ける。清水は見つめたものの全てを見抜いてしまうかのような鋭い目つきをしていたが、良太と視線が合ったことに気づくとその目つきはいつもの柔らかいものに変わった。そして両手で頬杖をつくと、

「やっぱり。沙希ちゃんを話題に出そうとしないから怪しいと思ったんですよね」

 リラックスした表情で笑った。

「まあ、そんなところかな」

 良太は淡々とした口調で答え、話題をそらそうとした。

「佐藤さん」

 しかし話題を変えようとしたのを咎めるかのような、穏やかだがどこか強制力を感じさせる声で清水が佐藤の名前を呼ぶ。

「出版社からの申し出を受けましょう。そして……」

 清水は見つめられた男は誰一人例外なく魅了されてしまうような艶やかな表情で良太を見つめた。

「私と付き合いましょう」

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