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小説を途中で書くのをやめるとどうなるか  作者: アン・マルベルージュ
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嗚咽と消滅

 沙希を家に連れて帰った良太は沙希と二人でテーブルの前に向かい合って座り、暖かいお茶を飲んでいた。暖かいお茶は心を落ち着かせてくれる。

 沙希も両手で湯呑みを持ち、一口お茶をすすり小さくため息をつく。そして背中を丸め、焦点の合わない目で手に持った湯呑みをじっと見つめている。

 良太には信じられなかった。沙希は二人で何度も来たことのある公園から家までの帰り道を忘れてしまっていたと言っていた。公園から家までは若干距離があるが、道筋は単純で分かりやすい。何か気を引くために嘘をついている可能性もある。だが嘘をつくならばもっと他のことを忘れたと嘘をつくだろう。それに沙希の態度を見ていると、とても嘘をついているとは思えなかった。

「ねえ、良太」

 沙希は手に持った湯呑みを見つめたまま、感情の籠もっていない声で小さく呟いた。

「あの公園って、前に二人で行ったことあるよね?」

「うん。あるよ」

 良太は可能な限り優しい声で、それもわざとらしく聞こえないよう意識して答えた。

「やっぱり」

 沙希は下唇を噛む仕草を見せた。

「私もあの公園に良太と二人で行った記憶があるんだよね。だけど、帰ろうと思ったらあの公園から家までどうやって帰るかが、まるで記憶を切り取られてしまったみたいに思い出せなかったんだよね」

 沙希は手に持っている湯呑みを強く握った。口調は淡々としていたが、記憶がなくなってしまった事に怯えていることが良太には見て取れた。

「きっと俺と言い合ったから記憶が混乱しちゃってるんだよ。俺のせいだね。ごめんね」

 良太は湯呑みを持ったままの沙希の手を自分の手で包み込んだ。沙希の手は少し震えていた。

「違う。良太のせいじゃない。だって今までこんな事……ねえ、私、どうなっちゃうのかな? 怖い……怖いよ」

 沙希の声は震え、目からは涙が流れていた。最初に良太の前に現れた時は妖艶さ、人間離れした力を持つ化け物のような少女だったのが、今の沙希は完全に年相応の少女にしか見えなくなっていた。

「疲れてるんだよ。もう寝よう? 本当は沙希は寝なくても大丈夫だけど、寝たら気持ちが落ち着くかも知れないし」

 良太は沙希の手をほんの少しだけ強く握ると、自分の顔を沙希に近づけながら言った。

「……うん」

 沙希は小さく頷くと、自分の目の周りを手で擦った。流れていた涙は一瞬で蒸発したかのように消え、充血した目も一瞬で元通りになった。

 良太は立ち上がると沙希の前に移動し、沙希に手を差し出した。沙希は何も言わず手を取り、そのまま二人は手をつないだままベッドへ歩いて行った。

 明かりを消し、一人用の狭いベッドに二人で横になって再び手を繋ぐ。沙希の良太の手をにぎる力は、少しだけ強かった。

「じゃあ、おやすみ」

「うん、おやすみ」

 寝る前の挨拶を交わし、二人とも目を閉じる。

 しばらくすると、沙希が寝息を立て始めた。良太の手を握る力は若干弱まったものの、しっかりと良太の手を掴んでいた。

 まだ起きていた良太は首を動かし、沙希の寝顔をじっと眺める。穏やかな寝顔をしている。

 良太と沙希が恋人になって以来、このように二人で一つのベッドで眠るのが当たり前になっていた。それでも、良太は自分の隣で寝息を立てている少女がいる光景を目にするたびに、これは本当に現実に起きていることなのかと疑問を持たずにはいられなかった。

「沙希」

 良太は小さい声で彼女の名前を呼んだ。当然沙希からの返事はない。良太は目を閉じ、これからの事について考え始めた。自分と沙希、お互いの考えにどう折り合いをつけていくか。出版社に行く日をどうするか。それらを考えているうちに良太は眠りに落ちていた。


 次の日の早朝。良太は何者かにベッドから突き飛ばされ、目を覚ました。

「いててて……なんだ?」

 突き飛ばされた痛みと、突き飛ばされた時に打った肩の痛みのおかげで最悪の寝覚めになってしまい、良太は肩をさすりながら不機嫌な表情で自分がさっきまでいた場所を見る。

 そこにいたのは沙希だった。ベッドの横に立ち、良太を見下ろしている。

 沙希は、良太の前に現れたばかりの頃に見せた、背筋の凍るような冷たい表情をしていた。睨みつけられた者は自然と歯が震え出してしまう化け物の様な殺気を全身から放っている。

「あなた誰?」 

 沙希は良太を睨みつけた。

 良太は思わず「ヒッ」と声が漏れてしまいそうになるのを必死で堪えた。

 沙希から発せられる殺気で、床の上で膝をついた姿勢で身動きを取ることが出来ない。しかし、沙希の元へ行かなくてはならない。まるで地球より何倍も重力のある星にいるかのように重い体を何とか引き起こし、

「落ち着け沙希! 俺だよ! 良太だよ!」と目を逸らしたくなるのを我慢しながら沙希に訴えかけた。

「良太……?」

 沙希は不機嫌そうに眉間に皺を寄せたが、一瞬体を硬直させたあと力なくその場にへたり込んだ。その表情は絶望に満ちていた。

 沙希から発せられていた殺気が消え、自由を取り戻した良太は沙希の元へ駆け寄った。

「沙希、大丈夫?」

「ねえ良太」

 沙希は虚ろな目で良太と目を合わせようとせず、小さく呟いた。

「私、良太のこと忘れちゃってた」

 良太は言葉を失った。

「ついさっきまで、なぜか知らない男が自分の横で寝てるって思っちゃてた」

「……」

 良太はかける言葉が見つからなかった。沙希の不安を少しでも取り除かなければならない。しかし、何を言ったとしても沙希の不安を取り除ける気がしなかった。

「私、これからどうなっちゃうのかな? 怖いよ……」

 良太は不安に怯える沙希を抱きしめる事しかできなかった。

 少しずつ、沙希は様々な事を忘れていくようになった。


 その日の夜。バイトを終えた良太は駆け足で自宅へ向かった。本当はバイトを休むつもりだった。沙希があの様な状態でバイトに行く気にはなれなかった。だが沙希は「私は大丈夫だから」と良太を送り出した。

 当然まるでバイトに集中出来ず、逆に他のスタッフから体調が悪いのかと心配される有様だった。

 本当に体調が悪いと嘘をついて早退することも考えたが、良心の呵責に苛まれ結局定時まで働いた。

 だが家に帰ったら沙希がいなくなってしまっているのではないか。そんなことは考えたくなかったが、嫌な予感が脳裏によぎって離れなかった。

 アパートのドアを開け、沙希の姿が目に映った瞬間、良太は全身の力が抜けた。思わずため息が出る。過度の緊張で強張っていた全身の筋肉が一気に緩んでいく感覚があった。

「ただいま、沙希」

 テーブルの上にノートを広げ、何かを書いている沙希に向かって努めて元気よく話しかける。

 沙希が振り向く。まるで初対面の相手に見せるような表情だった。

「良太、だよね?」

 良太は泣きそうになったのを目に力を入れて必死で堪えた。沙希はさらに記憶喪失が進んでいる。

「そう、良太だよ!」

 少し涙が滲んでいた気がしたので目を腕で拭い、口角に力を入れて笑顔を作る。そしてなんとも言えない気まずさを誤魔化すため、沙希が何かを書いているノートに視線を落とす。ノートはびっしりと書き込まれていた。

 沙希は良太がノートを見ていることに気づくと、

「これはね、忘れても思い出せるように思いつく限りの事をノートに書いてるの」

 少し疲れたような笑顔を浮かべると、前髪を触って横に流した。沙希の右手の小指側の側面は、真っ黒になっていた。

 沙希は右手の黒くなってしまっている部分を擦った。一瞬で黒い汚れが消える。

「もしかして今日ずっとそうしてたの?」

 良太は沙希と向かい合うように座り、内心まさかなと思いながらも沙希に疑問をぶつけた。

「そうだよ。だけど、おかげで一つ気づけたことがあるんだ。読んでみて」

 沙希はノートの向きを180度回転させると、良太の前に置いた。

 良太は「これ、読んでいいものなのだろうか」と思いながらノートに目を通し始めた。ノートには家からスーパーまでのルートや、良太の好きな料理のレシピ、良太が好きな女の子の服のタイプなど、読んでいて恥ずかしくなるものから、自分は誰なのかといったパーソナリティなものまで幅広く書かれていた。そして、いくつかの項目については取り消し線が引かれていた。

 良太はある程度ノートに目を通すと首を上げ、

「この線が引いてあるのはどういう意味?」と取り消し線が引かれた部分を指差しながら沙希に問いかけた。

「それは、ノートを見返した時に忘れていなかったところ。ノートを読み直すと、忘れていることが増えていってるんだけど、なぜか忘れないことがあるみたい」

「じゃあ、それ以外のところは……」

 良太は自分の中で何かが崩れていくような感覚があった。

「もう殆ど忘れちゃってるかな」

 沙希の回答に良太は一瞬目の前が暗くなったが、再びノートに視線を戻した。

『家の近くにある公園。良太と何度も行った。ベンチで二人並んで座るのが好き』

『カレー。良太の大好物。具は大きめで、ご飯は固めに……』

『良太。私の大好きな人』

 良太はすがる思いでノートのページをめくっては中身を齧りつくように目を通した。しかし、良太の事について取り消し線が引かれている項目は一つも無かった。取り消し線が引かれているのは、自分の名前や自分は小説の登場人物であるというような、この世界にやってくる前のことばかりだった。

 良太はノートを最後のページまで読み終えるとページを閉じてノートをテーブルに置くと、沙希をじっと見つめた。そして違和感を覚えた。

 沙希の雰囲気が全く違う。まるで良太の目の前に初めて現れたときに戻ってしまったかのようだ。

 良太がそんなことを考えていると、沙希が良太の目の前に置かれたノートを拾い上げて無造作にページを開いた。そして何ページか飛ばし読みをして再びノートを閉じると、テーブルに置いた。

「もう殆ど覚えてないんだけど、私って『あなた』と恋人だったんだね。なんていうか、私がこんなキャラになってたなんて信じられないかな」

 沙希は良太の顔を見て、どうでも良さそうに言った。

 記憶というものはノートに書いておけば忘れてしまっても読み返せばどうにかなるようなものではない。仮に事細かに書くことができて、書いてあること全てに目を通したとしても、それが自分自身が経験したことであっても、もはやそれは他人の記録でしかない。沙希は死んだのだ。

 それを認識した瞬間、良太は声を上げて泣き始めた。表情は悲しみで歪み、顔はみるみるうちにびしょ濡れになっていく。延々と嗚咽がこみ上げてくる。

 それを見た沙希は少し呆れたような声で、

「ええ、何で泣いてるの? いい大」

 その言葉の続きが発せられる事は二度となかった。

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