非日常は後ろからやってくる
「おい、あとどれくらいでできそうだ?」
「もう少しで……完成しそうです……だから、おねがいです、ね、ねか……せてください……」
深夜3時。ワンルームアパートの一室で、若い男が眠そうな目をこすりながら必死でノートPCで何かの文章を書いている。その表情は疲れがにじみ出ていて、今にも寝てしまいそうだ。しかし、斜め後ろに立っている背の高い男が眠ってしまわないように見張っている。
「誰が寝ていいと言った。もう少しで完成しそうなら完成してから寝ろ」
背の高い男は一瞬眠りに落ちた若い男の後頭部の髪を掴み、無理やり起こした。
「も、もう、ホンロにムヒ、です」
若い男は必死で謎の男に懇願する。
「どれどれ」
謎の男が後ろからノートPCの画面を覗き込む。
「なんだ、本当にもう少しで完成じゃないか。ここで寝たら今の勢いが死んでしまうぞ? ここまできたらもう最後までやるしかないだろ。最後まで終わらせてから寝たら、本当に気持ちいいぞ?」
謎の男は先程とは打って変わって優しい口調で若い男に語りかける。
「は、はい……」
謎の男が言っている事は無茶苦茶だが、睡眠不足で判断力が失われている若い男は大人しく従い、再びキーボードを叩き始めた。
若い男は少し前までは今にも寝てしまいそうな表情をしていたが、時間が経つにつれてある種のゾーンに入り始めていた。目は爛々と輝き、恍惚とした表情でひたすらキーボードを叩く。そして。
「で、できた……! み、見てください倉田さん! できましたよ!」
「どれどれ」
若い男は座っていた椅子から立ち上がると、倉田と呼ばれた背の高い男に椅子を譲った。そしておぼつかない足取りですぐ後ろにあるベッドに倒れ込んだ。
朝8時。若い男は窓から差し込む日差しで目を覚ました。連日ほとんど眠ること無く小説を書かされていたため、数時間の睡眠ではまるで足りない。再び眠りに落ちようとしたところで今日はバイトを入れていたことを思い出した。嫌々ベッドから起き上がる。頭とまぶたが重い。
若い男がふと前を見ると倉田が椅子に座っていた。若い男が寝た後もずっと起きていたのか、髪型や服装に一切変化はない。しかし、表情からは疲れはまるで感じられない。
「起きたか」
倉田は無表情で若い男を見つめた。
「小説、読ませてもらった。お前、やるじゃないか」
「あ、ありがとうございます!」
若い男は一瞬戸惑ったような表情をしたが、すぐに満面の笑みに変わった。
「これで、俺も続きに進むことができるな」
そう言って倉田は鼻で笑うと、消え去った。
「え、消えた……?」
その後倉田が若い男の前に姿を現すことは二度となかった。
若い男の前に倉田が急に現れたのは約二週間前のことだった。
「はあ~……疲れた。俺が一人暮らしフリーターでそう簡単にやめられないって分かってて、面倒な仕事ばっかり押し付けやがって!」
若い男は店長への愚痴を呟きながら自宅に向かって歩いていた。時刻はすでに午前0時を回っていた。人影は若い男以外見当たらない。それをいい事に若い男は遠慮なく愚痴を口に出していた。
その後もしばらく愚痴を呟きながら歩いていると、急に後ろから声をかけられた。
「おい」
「ひゃい!」
若い男は急に後ろから話しかけられ、声が裏返った。
嫌な予感がしつつも、若い男は恐る恐る後ろを振り向いた。そこには見るからに高そうなスーツを着た背の高い男が立っていた。そしてその男はこれ以上手のつけようが無いほど完璧にセットされた髪型で、整形手術をしてもここまでの顔を手に入れるのは不可能ではないかと思えるほどの整った顔つきをしており、そのまま映画やゲームの主人公になれそうな色気があった。しかし男の顔には一切の表情がないため、冷たい雰囲気を感じさせる。
「佐藤良太だな?」
「え!?」
良太は、目の前の男が自分の名前を知っていることに驚きを隠せなかった。
「なんで俺の名前を知ってるんですか?」
「なんでかって?」
背の高い男は良太を見下したような表情で笑った。
「俺の姿に見覚えがあるんじゃないか? いや、見覚えがあるというのは語弊があるか。俺はお前の書きかけの小説『俺は夕焼けの港に静かに佇む』の主人公、倉田信彦だ」
「え?」
確かに良太は『俺は夕焼けの港に静かに佇む』と名付けた小説を途中まで書いていた。そして目の前にいる倉田と名乗る男の風貌は良太が頭の中でイメージしていたものそのものだった。
良太は以前、倉田のような男を派手に活躍させるハードボイルド小説が書きたくなり、勢いで書き始めた。しかし倉田をカッコよく登場させたあとどう話を進行させたらいいか全く思いつかず長いこと放置されていた。
「確かにあなたは俺の書きかけの小説の『俺は夕焼けの港に静かに佇む』の主人公、倉田信彦にそっくりです。だけど小説の登場人物が現実世界に現れるなんて、そんなことありえないですよ。どうせ俺のPCをハッキングか何かして、書きかけの小説を見つけた。そしてコスプレして俺をからかおうと思った。どうせそんな感じでしょ?」
倉田は良太が心臓が止まりそうになる程の冷たい表情で睨みつけた。
「バカかお前。お前みたいなデビューすらしていない奴のPCをハッキングか何かして、しかも書きかけの作品のコスプレをするような暇人がこの世にいると思っているのか? そんな暇人がいるはずないだろう。仮にいたとしても、文字だけでお前のイメージ通りのコスプレをできると思っているのか?」
「た、確かに……」
ぐうの音も出なかった。
「じゃ、じゃあ、信じられないけど本当にあなたは倉田信彦……さん」
良太は自分の生み出した登場人物なのだから呼び捨てしても構わないと一瞬思ったが、倉田の顔を見て慌てて最後に「さん」を付け足した。
「だからそう言っただろ」
倉田は呆れたようにため息をついた。
「はい、すみません。で、あの、倉田さんは何のために俺の前に現れたんですか?」
「それはもちろん、お前に小説を完結させてもらいたいからだ」
「それは、できるのならばそうしたいですが……」
良太の表情が暗いものに変わり、倉田から目をそらした。
「もう、随分小説なんて書いてないですよ」
良太は元々小説家志望だった。小学生の頃から物語を作るのが好きで、小説を書いては同級生に見せていた。自分はずっと小説家になるんだと疑いもなく思っていた。中学、高校と同級生が恋や部活に勤しむ中、それらに目もくれず小説を書き続けていた。中学2年の頃からネットに小説を公開するようになり、固定の読者が何人か付くようになった。高校生に上がると新人賞に応募するようになったが最終選考まで行くことは一度もなかった。
高校2年の終わりに両親から「小説は趣味でも書ける。潰しが効くように大学に進学するように」と言われたが、両親の反対を押し切って小説の専門学校に進んだ。
だが、それが間違いだった。いざ専門学校に入学してみると、同級生のほとんどはやる気がなく、学校には友達と遊ぶために来ているような者ばかりで授業内容も良太にとっては退屈なものばかりなのであった。
良太は親の反対を押し切ってまで専門学校に進学したことを後悔した。しかし反対を押し切って、しかも学費まで出してもらった手前、やめるわけにはいかなかった。授業を聞くふりをして新人賞に応募するための小説を書き、空いた時間はバイトと小説を書くために費やした。
しかし、新人賞に応募した小説は一次審査落ち。まれに二次審査まで通過することがあっても、それ以上のところまで進むことはできなかった。
それでも良太は小説を書き続けた。いつの間にか以前よりいいアイディアが思いつかなくなっても、以前より書く速度が遅くなっても、書き続けた。専門学校では良太のように数少ないやる気を持っていた学生はいつの間にか全員来なくなっていた。授業中周りの学生達を見渡すと、まともに授業を受けている者は一人もいなかった。スマホでゲームをしたり、近くと友達と雑談をしていたり。もちろん、良太も授業を聞かずに小説を書いていた。今自分が置かれている状況を考えるとますますここにいる意義、なぜここで小説を書いているのかがわからなくなってきた。
そしてある日を境に良太は一文字も小説が書けなくなっていた。
「今の俺はただのフリーターです。すみません。現実世界に現れるほどなんですから、よっぽど完結させてほしいんだと思いますが、今の俺にはムリです」
良太は倉田に頭を下げると、その場を立ち去った。
翌朝。良太が目を覚ますとベッドの横に倉田が立っていた。
「起きたか」
「う、うわああああああ! ど、どうやってここに入ったんですか!?」
良太はベッドから飛び上がり、倉田から距離を取った。
「普通にドアを開けて入ってきた。俺にもよく分からん。だがお前は俺を『どんな鍵も開けられる元スパイ』という設定にしたんだから、こんな古いアパートの鍵くらい開けられたって何だ不思議じゃないだろ?」
倉田は良太との距離を詰めながらこともなげに言った。
「確かにそんな設定にしましたが、ここは現実ですよ!」
「そもそも小説の登場人物が現実に現れている時点ですでにおかしいだろ」
「確かにそうですけど」
良太は言葉に詰まり、押し黙った。
「とにかく、俺の願いはお前に小説を完結させてほしい。ただそれだけだ」
「そもそも、どうやってこの世界にやってきたんですか?」
「それはだな」
倉田はベッドの横にある古い椅子に座り、背中を預けた。耳障りな軋む音がした。良太もベッドに腰を下ろした。
「まず、いつまで経っても完結する気配のない作品の登場人物がどういう状況か教えてやろう。俺の登場シーンがどんな状況で、どこまで書いたか覚えているか?」
「えっと、どこかの港の倉庫で悪役が何かを輸出しようとしたところに倉田さんが鍵を壊して入ってくる。倉田さんは軽く悪役を倒して、港で佇んでるシーンまで書いた気がします」
「で、そこで物語がずっと止まってる状態だと俺はどうなると思う?」
「ど、どうなるんです?」
即答した良太に、倉田は露骨に呆れた表情をした。
「もう少し考えたらどうなんだ。まあ、教えてやろう。俺の場合だと港で佇むシーンでストーリーが止まっているが、そこから急に身動きが取れなくなる。そして世界の動きも止まる。海は凍ったかのように波は固まり、吹いていた風も止まる。そしていつまで経っても夜は明けない。最初は何が起きたのかさっぱり分からなかったよ。急に指一つ動かせなくなり、夜はいつまで経っても明けない。しかもその状態がいつ終わるのか分からないのに、頭だけは動いている。その恐怖がお前に分かるか?」
「……」
良太は何も言えなかった。もし、そんな状態に自分がなってしまったらと思うと想像するだけで怖くてたまらなくなってきた。
「あ、あの、すみませんでした。俺が途中で書くのをやめちゃったばっかりに」
良太は立ち上がって頭を下げた。
「謝る必要はない。俺に申し訳ないという気持ちがあるのなら、小説を完成させてくれ」
「……それは、俺もできるならそうしたいですが」
良太は居たたまれなくなり、ベッドから立ち上がった。そして冷蔵庫からお茶を取り出すと一気に飲み干した。冷たい飲み物を飲んだことで、頭の中のモヤっとしたものが少しだけ楽になった気がした。
良太は今でも小説を書きたい気持ちが無いわけではない。しかし過去のことを振り返るとまた無駄骨を折るだけになるのでは。と思ってしまい、踏ん切りがつかないでいた。
「すみません、少し考えさせてください。俺これからバイトなので。部屋にはそのままいてもらっても大丈夫です」
良太は手早く着替えを済ませると、倉田を残して家を後にした。