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空の実らない言

作者: 鱒子 哉

 ガタン、という音が、そのボリュームを半減させたようにして耳に入り込んだ。発生元は、左隣の部屋だ。

 教師という職業は大変だ。なんたって僕が朝ごはんを寝ぼけ眼で口に運んでいるあいだに、もう家を出なくちゃいけないんだから。

 あれ、醤油が。

「お母さん、醤油きれてるよ」

「あら、じゃあもうないわ」

 朝のお母さんは家の誰よりも忙しそうだ。いろんなことを並行してやっていて、まるで家の一部みたいだ。

「ねえ、塩胡椒とって」

 これが自分に向けられているのだと自覚した途端、妹は僕を睨んだ。自分でとりなよ、と呟きつつも僕との間にとん、と運んでくれた。

「どうも」

 僕はその呟きが聞こえなかったフリをして、その赤い円筒を逆さまにすこし傾けて、腕から下を軽く震わせる。

 あれ、意外といけるじゃん。いつも醤油だったから余計に、なのかな。でもこの頃、好みが変わることってよくある気がする。

 端がほんのり黒ずんで硬い食パンと塩胡椒が控えめにかけられた目玉焼きを交互に口に入れる。口内が乾いたら、コップ一杯の牛乳をちょっとずつ含む。

 すっかり胃にしまいこんでから、残り半分弱の牛乳を一気に飲みほす。その間に、右ポケットの中身がぶぶぶ、と鳴った。

 食パンと目玉焼きのそれぞれ乗っていた皿と牛乳のコップを流しに置いて(コップには水道水をなみなみいれて)から、そいつを取り出す。

「課題やり忘れた」

「朝みせて!」

 ビックリマークのあとには、手を合わせて頭を下げている絵文字がついていた。昨日も由貴にこう言われたよな。また貸しが増えたな、と返す。結局は貸しとか忘れるんだけど。

 由貴とは、このままいけば付き合うのかなって気がしてる。いや、ナルシストとかじゃなくって。

 テレビの真上の時計を見ると、いつもより十分もおしているのに気がついた。寒くなってきたせいで、ベッドから抜け出すための時間が長くなったんだ。早く準備しないと由貴に答えを見せる時間がなくなってしまう。

 慌てた調子で重い玄関のドアを閉じる。左隣の「佐伯」の字を横目にしながら、早足で階下へと急ぐ。

 こんなに寒いのに、空を見上げるとこんなに眩しいのって矛盾してるんじゃないの。目を細めると、一度追いやった眠気がまた手を伸ばしてくるから、視界はいつも正面より下をキープする。

 思い返せば、外を歩くときはいつも少し下を向いていた気がしてきた。だって上の方を見ていたって、眩しいだけでいいこともないし。

 昨夜は雨が降ったのかな。水たまりはないけど、道路の黒が際だっている。この、知らないあいだの雨のあとの匂いは結構好きだな。ああ、分かりますよ、と先生なら言ってくれそうだなと思った。


 二時間目は先生の国語だった。先生の大変さは、なんとなくすこしは知っているつもりだったから、ちょっと真面目に受けたくなる。今やってる範囲は評論だから、ちょっと嫌なんだけど。

 誤解されることもあるけど、僕は決して真面目じゃない。予習はしないけど課題はやる程度だ。英語の前の時間には内職だってやる。それは、みんながやっているから。

 キャラ、っていつからできているんだろう。高校入学から? それとももっとずっと昔から? 自然にそうなった気でいるけど、実は自分がつくったものだったりするのかな。

 どちらにせよ僕は勉強をするキャラではなかった。そのキャラに忠実に、裏切ることのないように。そうしていけば無難なんだろうな。

「ではここまでとします」

 チャイムが鳴る少し手前に、先生はこう言って授業を終える。「絶対に延びない佐伯先生」は、そのせいか意外と好かれている。

「戸川くん」

 また僕か。

「課題のワークを集めてもってきてください」

「はい」

 渋々と僕が返事をするが早いか、先生はさっさと教室をあとにしていた。

 チャイムが鳴って、ぞろぞろ僕の机にワークを置きにくる。その波が一度収まってから、それらを教室の後ろにある棚に置きにいく。

「いつもっていくの?」

 困った顔で由貴を含む女子のグループが僕を見た。

「昼休みだけど。まだなの?」

 ちょっと小ばかにして言うと、それまでにやるから! とそっぽを向かれてしまった。

「わたしは終わってるもん」

「おれが見せたからだろ」

 得意そうに由貴が言うのを、すぐに否定してやる。そう、こうやって冗談を言い合う感じ。

 ほかの人たちも昼休みまでに何とか(ちょっとのズルはあるんだろうけど)僕に出してきた。ちゃんと四十一冊あるのを確認して、それらを両手で抱えた。

 失礼します、と言って先生のもとへ行く。課題の配達は毎度のことだから、すっかり慣れてしまっている。

「持ってきましたよ」

 そういってどさり、と机の左端に置く。職員室はほかほかと暖房がきいていた。

「ありがとうございます」

 先生は丁寧にお礼を言った。

「今日は活動日でしたね」

「はい」

 活動にはあまり顔を出さない先生だったから、その話の切り口に驚いた。まあ先生が来る必要性がそもそもないんだけど。

「そろそろ部誌の作成を促しましょう」

「あー、そういえばそうですね」

 今年は僕が部長だから、色々大変だろうな。文芸部の唯一活動らしい活動なだけに、ちゃんとやらないといけない。

「頼みますよ」

 先生はちょっと心配そうに、もう話が終わりだということを示した。

 夕焼けの起こる早さに、もう冬も近いのかも、と感じた。殆どが部活動に行ってしまって、膨張したようにみえる教室は、全身でオレンジを受けている。

 隅で雑談を飽きることなく続けている人たちを脇目に、ぼちぼち部室に向かうことにした。

 オレンジはとても強く、廊下の明暗をくっきりとさせている。放課前と後で、学校はどうしてこんなにも匂いが変わるんだろう。

 渡り廊下にさしかかると、校庭で順番を待っている由貴を認めた。遠目にするとそれら全部オレンジに侵食されている。あ、由貴の番だ。部では結構期待されてるんだよ、と言っていたのはどうやら本当らしい。一緒に走った五人のうちではとびぬけて一番だった。

 年季の感じる部室では、もう電気をつけていた。

 ぶちょー、おそいですよー、と唯一の男の後輩が声をかけてくれた。入部してすぐから慕ってくれるいい後輩だ。見渡してみると、もう僕以外はみんな来ていて、おのおの本を読んだり雑談したりしていた。

「一つ連絡があります」

 そう言うと、さっと僕に視線が集まる。基本はダラダラだけど、こういうときにちゃんとしてくれるのはありがたい。

 部誌の説明をし終える頃には、もうすっかり暗くなっていた。ぞろぞろと部員たちが帰っていく。いつも通り、僕は忘れ物がないかを点検する。

「そろそろ帰りますよ」

 なんとなくぼうっとしていたら、先生はもう部室のなかに入っていた。先生はまた心配そうに僕を見ている。

「何か考えごとですか」

 これまで何も考えずに生きてきたツケが回ってきたのか、最近やたらと考えなくちゃいけないことが増えたな。親は進路についてうるさくなってきたし。

「まあ、そりゃあありますよね」

 口に出す前の、いや、と心の内で否定するのとかぶった。先生には色々見透かされていそうでこわい。

 先に行っていますね、と言って先生は行ってしまった。僕と先生が隣人の関係にあることは学校で関わる人の殆どが知っている。だからこうして公然と一緒に帰ることも自然なのだった。

 校門までくると、先生は上を見上げていた。相変わらずマフラーを巻くのが下手だ。僕が声を掛ける距離を図っていると、先に先生に気づかれてしまった。

 先生は僕より少しだけ背が高い。

 この少しだけの差で、何か違うものがみえるのかな。年だってそう変わらないのに、どうしてかずっと離れてみえる。

 とくに話すこともなかったら、こうやって二人でとぼとぼ無言のままだ。ちらと先生を見やると、どうやらまた空を見上げている。すると、小難しそうだった顔がすっきりと晴れやかになる様を目撃した。

「空になにかありますか」

 僕も一緒になって見上げてみた。眩しいものは何一つないはずだったから、すっかり無防備だった。

「空、ですか?」

 先生は一度僕の方を見てから、また空に目を移した。なんだか今度はぎこちない所作だった。

「星もあまりみえませんね」

 今はじめて夜空を眺めたようなことを言った。たまに先生は変なところがあるんだよな。

 僕はもう一度先生の方を見た。先生は、近年まれに見るような精彩を持っているように感じた。

 家に帰ってからは、ずっと部誌について考えていた。部長だし、それなりのものを書かないと。何かヒントがないかな、と先生に借りていた小説を開いた。

 読んだことはないけど知ってる作者名だった。主人公の男が「先生」という人と話したりしていた。正直何を書きたいのかよく分からなかった。

 それでも先生が貸してくれたからと、辛抱強くページを繰っていった。けれど半分もいかないうちにもう眠気がちらつかせてきた。


 正直なところ、僕は今の心の内を先生の前に陳列したいのだ。生徒と教師という間柄では、それはおかしいことではないのかもしれない。でも僕は、僕と先生の関係はそれだけじゃないと思っている。うまく言えないけど、その行為は先生に対して失礼なんじゃないか、自分のことくらい自分でやるべきというか、つまり、僕と先生は対等、いや、大人としてありたい。でも膨れあがった悩みたちは僕だけじゃとても手に負えなくて……。

 目が覚めると、僕はぐっしょりと汗をかいていた。ただでさえ寒いのに汗のせいで余計に冷える。はっきりしているのは、このままだと風邪を引くということだ。

 下着まで着替えて、今日はブレザーの下にセーターも着込んだ。抜け殻をあつめて自室を出ようとしたとき、家がやけに静かなのを思い出した。

 振り返って時計をみると、まだ五時半だった。なるほど、何か嫌な夢でもみて汗をかいて、それで早く起きたんだ。

 かといってもう一度ベッドで毛布にのまれる気も起きない。することもなくて(この時間に起きて勉強や読書はキャラじゃないと感じて)、寒いのは分かっていたけれどベランダに出てみることにした。

 まだ当分日の目を浴びる予定のなかった紺のピーコートを引っ張りだして、カラカラと網戸と一緒にガラス戸を引く。こちら側のぬるい空気がすこし持っていかれる。

 やっと朝焼けの見え始めたベランダは、予期していたほど寒くはなかった。ただ、冷気が上着を貫通してくる。

「ひろし君ですか」

 部屋に引き返すか決めあぐねていたら、右側から、声――これは先生のだ――が投げかけられた(先生は学校外ではそれまでずっとそうだったように僕を下の名で呼ぶ。じゃないと判別つかないから)。もちろん、仕切りがあるから姿は見えない。

「先生ですか」

 分かりきっていることなのに、どうしてか聞き返してしまう。そして、ええ、と返ってくるんだろう。

「ええ、おはようございます。随分早いんですね」

「先生こそ、どうかしたんですか」

 先生はしばらく黙っていた。自分はなにか聞いてはいけないことを、先生の聞かれたくないことを聞いてしまったような気が起きた。右側からは細い煙が上っている。

本当はこんな場でお伝えするのはよくないのでしょうが。先生はほんとうに申し訳なさそうに前置いた。

「私、あの学校を辞めることになりました」

 え、という驚きの声すら出なかった。僕は今先生がどんな表情をしているのかが一番知りたかった。

「校長先生から、推薦頂いたんです。君は教える側ではなく、研究する側でいなさい、と。当然のように私は断ろうと思いました。私はいつからかいやに厭世的な思想を持っていました。勿論それが私の未熟さ故であることは明白でした。ですが、一度、その紹介された先を見に行ってしまったことが失敗でした。そこは本当に魅力的で、止めどなく沸々と溢れ続ける学問的問いかけもここでなら無為にすることなく、寧ろ有益なものになるのではないかと思ったのです。未だにして私には他人ほどの愛国心のようなものはありません。けれどそういうものを抜きにして、より自分を何か、何者かの為に役立てたいと心から思ってしまったのです。これで少しは私も成長したのかもしれません。」

 先生は、嬉々として喋り続けていた。僕はリスニングの試験ばりに聞き取るのに精いっぱいだった。もしかすると、昨日帰るときもまだ悩んでいたのかもしれない。それはさぞすっきりしただろう。けど、そうだったとしても、僕は先生の口から「成長した」なんて言葉は聞きたくなかった。

「ひろし君」

「はい」

 僕はもうその続きは聞きたくなかったから、もううんざり、みたいなトーンで返事をした。

「そんな飽きたような声を出さないで下さい。分けずに一気に話しきったことは謝ります。」

 この薄汚れた白い仕切りの向こうで、先生がこぼれそうな灰をつけた煙草を右手ににやりとしているのが透けて見えるようだ。

「まだしばらくはいますし、そして死んで会えなくなる、という訳でもないのですが」

 一つ伝授しておきたいことがあります。先生はさっきまでとは違う、大真面目な声でそう言った。

「何か、君にとって大きな障壁が現れたとします。いくら悩んでも解は見つからず、他の人には相談できないときがきっとあります。そんなときは、空を見上げるのです。」

 声の調子につられて真面目に耳を傾けていると、何やら先生らしくないことを言い出した。

「すると、それが私でなくとも、きっと君を助ける人物が忽ち現れて、直接的にしろ間接的にしろ、君の力になってくれるでしょう」

 ここまで言いきると、またしばらく先生は黙ってしまった。

「先生は、それに助けられてきたんですか」

 ばからしいと思った。正直幻滅しそうだと思った。

「これは、私の大好きだった祖母が死に際に教えてくれたものです。言うまでもありませんが、私は祖母に助けられてきました。」

 僕は何かを言い返す気力は全く起きなかった。この、今身を包むこの感情の正体は、何なのだろう。

 そろそろ準備をしなくてはいけないので、と先生は言い残して、カラカラと戸を閉めた。微かな煙草の残り香を感じながら、僕の身体は十分に冷えきっていた。


 それから登校して、授業を受けて、放課後まできたけど、それらを全く無意識のうちに過ごして、僕はというと朝と変化がなかった。

 特に伝達事項もなかったから、部活に顔を出すのはやめにした。そのまま帰ることにした。

 眩しい。行きは朝日に向かって、帰りは夕日に向かってなんて、眩しくて仕方がない。いつものことながら、下を向きつつ帰る。

 一人で帰ることが久しぶりだった。先生にとって、僕は何だったんだろう。近くにいると思っていた先生は、どこに行ってしまうんだろう。

 僕は、あたかもそれが自然な動作のように、顔を上げた。眩しくて目を瞑りそうになる。それでもどうにか、開いてみる。

 先生に打ち明けたかった、僕に関する悩み。そして、僕と先生のことが、胸に押し寄せる。その瞬間、僕は確かに夕日のなかに先生を見た。けれど、その夕日のなかの先生は、ごくたまに僕にだけ見せる得意げな顔でこちらを見つめているだけだった。


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