夕なぎ
ーー目を閉じた先に見えるもの。
それは……記憶の向こうにある永劫の世界。
何処かで生まれては寄せてはかえす波間の中に
大小様々な海月がたゆたう浜辺で、一対の足跡だけが刻まれていた。
己の鼓動が聞こえてきそうな程、雑多な音が止み静まり返る凪の時間。
潮の香りを大いに含んだ湿った空気で包まれる。
空気を吸い込めば鼻腔をくすぐる塩辛い涙の味。
情景と一緒に刻まれた香りの記憶。
そっと入り込んで、記憶の蓋を緩めて行く。
トロトロと解け流れ呼び起こされて来る、いつかの映像。
瞼裏に映し出される、今を築き上げてくれた遠い日の私。
他の人には見せる事が出来ない、私だけが持つフィルム。
上映はいつも、この浜辺に来た時だけ。
意思とは関係無しに流れ始め、費える事の無い記憶の洪水が押し寄せる。
溢れすぎてしまわない様に、頬に何かが伝う前に、
頃合いを計っていつもこの場所と別れを告げる。
そっと目を開ければ、目元に溜まっていた水滴が零れ落ちて、
サラサラと乾ききった砂地に滲み、潤いを持たせて広がって行く。
水滴が落ちた所から芽吹く花の芽。
ぽつりぽつりと新緑の芽が顔を出して挨拶をする。
湿った空気を払い流してくれる陸風。
記憶の鍵を持って、海面を波立たせ吹荒れ流れて、
辺りに漂っていた重たい空気を隅々まで清らかにしてく。
気付けば、いつかに芽生えた花が咲誇り、
沈んで行く太陽に向かって微笑んでいた。
たおやかで勇ましい容姿に緩んでしまう頬。
甘くて優しい香りを運び、心を満たさせてくれる。
次来る時は、慈愛に満ちた面持ちで足を運ぶんだろう。
黄昏の空に煌めく一輪の花と、これから咲誇る花々を見守り続ける為に。