退職願
「え」
「もう少ししたら、お暇させていただきます。私の仕事はマッギャウに引き継がせますわ」
ミラルディは自らの主人、金属の神霊ユシャワティンの髪を梳りながらそう伝えた。
「……もう少し」
「もっと暖かくなってからにしようと思いますの。せっかくですから良い時期のマスカダイン島を回りたいですもの」
振り返った美貌の赤髪の青年にミラルディはうきうきとした声を隠さなかった。
「まず最初はダフォディルです。その神官の故郷へ。次はオレア島です」
「ダフォディル」
「そちらをご存知? この前私が字を教えたワノトギもダフォディル出身でしたわ。すごい方言のところです。でも、憎めませんわね、あの言葉」
ミラルディはアルバトロスを思い出して微笑んだ。
最後にもう一度会いたい。ヒヤシンス神殿にも行ってみていいかもしれない。
「私よりも五十も下のまだ若いコですけど、私のことを慕ってくれてますし。二人で決めたんです……私の生家は薬店ですの。眠るように死ねる薬があるのです。私が弱ってきたらそれを同時に二人で飲むつもりです。……今までお世話になりましたわ、ユシャワティン様。至らないところがあったと思います。どうぞ私をお許しください。ご存知かもしれませんが、私の後釜のマッギャウは私の同期の眷属ですから。みっちり仕込んでおきますわ。ご心配なく」
ミラルディは目の前の赤髪を梳り終えたあと、次には素早く編み出した。
この間、ヨシュアに自らの髪を編んでもらった型を思い出しながら、そのように編みこんでいく。
同じように美しく型が決まると、ミラルディは満足してヨシュアが自らに笑いかけたようにユシャワティンに笑いかけた。
「はい。美しく出来ましたわ」
ユシャワティンは驚いたようにミラルディを緑の目で見返した。
あら。少し馴れ馴れしかったかしら。
しまったわね。
ミラルディは反省しながら腰を低くかがめると、日課である朝の仕事を終えたユシャワティンの部屋から退出した。
朽ちた木の橋を飛び跳ねるように渡り、真の神殿から抜けたあとは森の中を進む。
思わず柔らかな大地をスキップしていた自分に気がつき、ミラルディはあわててやめる。
子供じゃないっての。
私、はしゃぎすぎだわね。
それでも、心の底から込み上げてくる嬉しさが抑えきれない。
楽しい。
仕事を辞めるって楽しいわね。
にんまりとミラルディは唇の両端をあげた。真の神殿へと戻ろうとする自分と同じ眷属たちとすれ違い、ミラルディは更には優越感が湧いてくる。
ふふ。
もうじき、あなたたちとは、この生活とは、神殿とは、おさらばね。
自分だけが神殿の鎖から逃れることが出来ると思うと、他の眷属たちが少し哀れに思えたがそれよりも喜びの方がはるかにミラルディは勝った。
ミラルディはまた気づかずに小走りしていた。
森の中をぬけて、紫神殿が眼前に立つ。
神官たちの一団が紫神殿の長い階段上にいるのが見える。
最近、神官登用試験を行ったところだが、今年の合格者たちかもしれない。
紫神殿の階段を一段飛ばしでかけ上ったミラルディは神官たちの顔があらわになるにつれ、その中に見覚えのない顔を見つけてそう思った。
新人に案内でもしてるのかしら。
相変わらず、イケてないコばかり登用したのね。
その面々に心の中でため息をつき、一団の一番後ろにいたヨシュアを発見したミラルディは彼を責めるように睨んだ。
目が合ったヨシュアは周囲に隠そうともせず、堂々とミラルディに顔をほころばせた。
なによ、それ。嬉しそうにしちゃって。
あわてて目をそらしたミラルディは口元が緩みそうになるのを必死でこらえる。かあ、と頰があつくなり胸の鼓動が早まるのを感じる。
やだ、最初の男ザフティゴのときのことを思い出しちゃったわ。
一体、私、幾つだってのよ。
もうババアのくせに処女みたいな反応はよしなさいっての。
パタパタ、と手で顔をあおぎながらミラルディは紫神殿の中へと入る。
紫神殿に奉納された供物の中にある大量のマスカダインを選り分けて真の神殿に運ぶ予定だった。
マスカダインというブドウは神霊が唯一、口にできる神聖な果実である。
眷属もマスカダインはよく食べるが、ミラルディ自身はマスカダインを受けつけなかった。
これは眷属になる前からそうだった。
子供の時から、ミラルディはマスカダインを食べると目眩や頭痛、吐き気や下痢を引き起こすのだ。
自分が神霊になれずに失敗して眷属になったのはそのせいじゃないのかしら、とミラルディは考えたことがある。
そういえばダフォディルでは取れにくい果実らしいわね。
ヨシュアから聞いた話をミラルディはちらりと思い出した。
ダフォディルの神霊雷帝チム=レサ様はお可哀想ね。
こちらのロウレンティアではマスカダインは取り放題、食べ放題なのに。
普段は何も食べていらっしゃらないのかしら。
だからチム=レサ様は弱まって一度、その器をなくしたのかもね。
砂と岩の不毛の大地という過酷な環境でありながら、神霊チム=レサ不在という一時期の困難も切り抜けたダフォディル。そのダフォディルで生まれた人間、生きる人間がミラルディは好きだった。
ゴウテツヤマクマゴロウ組のワノトギも、アルバトロスも、アガ二も、ヨシュアも。女としてギョヒョンには多少反感はあるが、もちろん彼女のことも。
誰もがふてぶてしくしたたかに生きる様が。
眷属ミラルディには生き生きとして強烈に魅力的だった。
あの大地に行って、たくましいダフォディル人を直でもっと感じてみたいわ。
供物部屋に入り、傷の少なく粒の大きいマスカダインを籠へと選り分けながらミラルディはそのダフォディル人の筆頭であるヨシュアとの昨夜を思い出していた。
昨日も。なかった。
ただ自分を抱きしめて寝入ってしまったヨシュアを思い出し、ミラルディは少し沈んだ。
ヨシュアと人生を共に終える約束をしてから、毎晩ミラルディはヨシュアの部屋で夜を過ごした。
ザヤの年以前のように寝台に寝ころんで会話を楽しみ、どちらかが欠伸をすると、灯りを消し寝床に二人でもぐりこむ。そんな毎日が続いていた。
ヨシュアがミラルディに手を出したことはあれから一度もなかった。
ヨシュアはアナベラのようには自分を求めない。
分かりきっていたことだが、それでもその事実はミラルディを刺した。
今までヨシュアが自分の相手をしたのはアランに扮していたからに過ぎなかったのだと。
当然だと分かっていてもミラルディはやはり傷ついた。
あれ以来、ヨシュアはまるで自分の娘のようにミラルディを扱う。
ミラルディの額に口づけ、ミラルディの髪を撫で、微笑みかける。
『なによ、その娘にするみたいなキスは』
本心を隠しながら、冗談ぶって大げさに怒り気味に責めたことがあるが。
ヨシュアは本当に幸せそうに微笑み返すだけだったので、ミラルディはそれ以上、彼を責めることができなかった。
それが本来の彼が自分に対して持つ感情の正体なのだろう。
自分は彼から見て女としての魅力は皆無なのだ。
彼が自分に抱いているのは長く共に過ごしたうえに生まれた情、というものなのだろう。
妹や、娘や、愛玩動物に抱くのとおなじような感情。
それをはっきりと見せつけられたミラルディはどうにもならないことだと知りながらも、何度か感じた切なさに唇を噛んだ。
目の前の山で未成熟のマスカダインの房を見つけたミラルディはそれを取り上げると、壁に向かって思いっきり投げつけた。




