アナベラの復讐3
それから幾日か経ち、アナベラは一人でロウレンティア山を登り、供物を捧げた。
『持病の頭痛が始まりました、おさまるまでどうか、この神殿で休ませていただきとうございます』
そう乞うアナベラに神官たちはすんなりとこころよく紫神殿の客部屋を明け渡した。
夜が更けるのを待って、アナベラは部屋を抜け出した。
あの男の部屋は分かっていた。
夫のミゲロと紫神殿を初めて訪れた際、夫の同期だという醜い中級神官の男がアナベラと子供たちに神殿内を案内してくれたのだ。
大神官たちの棟でも奥まった角部屋にあの男の部屋はあるのだということをアナベラは記憶していた。
裸足でひたひたと音もなく紫煉瓦の廊下をアナベラは灯りもなしに歩いた。
それぞれの神官の部屋からわずかにこぼれる照明の端だけがたよりだった。
目標とする部屋の前までたどり着いたとき。
先に部屋から出てきたのはあの男だった。
ランプを持っていたあの男は、目の前に現れたアナベラの姿に目を見張って立ち尽くした。
アナベラは分かっていた。
この男は今から自分の部屋に来ようとしていたのだと。
言葉なくアナベラと男はお互いの息遣いを探るように見つめ合った。
男がなにを望んでいるのかアナベラには既に気づいていた。
男の顔から視線を落とし、アナベラは男が手に持つランプに目をやった。
ちらりと男を再び見上げたあと、アナベラはランプに顔を寄せて揺れる小さな炎を吹き消した。
それで充分だった。
暗闇が包もうと二人を襲ってくると同時に、男はアナベラを抱き上げた。
寝台へとアナベラを運び、そのままアナベラの上へと荒々しく倒れこんだ。
* * *
そしてそんな邂逅の夜が七日続いている。
同じ時刻に来るアナベラをあの男が迎え、獣のように交合したのち、アナベラが去る。
交わされる言葉は一切ない。
男に抱かれる厭わしさというものがその程度だったことにアナベラは我ながら驚いていた。
最初の夜が真の闇だったからかもしれないが。
衣を剥がれ、あの男が肌を寄せてきたその瞬間は鳥肌がたったものの、そののちにはもう肌が粟立つことはなかった。
男と重なっているときにだけ感じる不思議な懐かしさにアナベラは惹かれていた。
寝台の傍に置かれたランプの灯りに浮かぶ、男の瞳。
その中の存在と息遣いを確かめたくて、アナベラは男の瞳を何度も深く覗き込むのだった。
男がこの自分を求めるのもそのせいかもしれないと思う。
快楽は確かに感じていた。
荒々しいながらも男は巧みで今までアナベラが相手をした男たちとは違った。
感情とは別にアナベラの女としての身体の細胞はこの美しい男を求めていたかもしれない。
しかしアナベラは懐かしさにただ浸りたいがためにこの男に身体を許したのだ。
それを確かめたかっただけだ。感じたかっただけなのだ。
上に乗っていた男が動きを止め、自身の身体に身を預けたとき。
アナベラは身体を反転させ、男の上に乗り上げた。
もう、終わらせなければ。
里の子供と夫のところに戻らなければならない。
ここに来て七日経つ。
神官たちは言わないだけで、誰もが自分たちの関係に勘づいている。
今日、里から女たちが供物を捧げに紫神殿に来て、帰っていった。
アナベラが紫神殿に滞在していることを知りながら、女たちの誰もがアナベラのもとに来ようとしなかった。
里に戻ってすぐ、女たちはアナベラの恥さらしな有様を里中の者に言いふらしているだろう。
神官に妻を寝取られたとして、夫のミゲロは里中の者から同情を受けているかまたは笑い者にされているかもしれない。
アナベラは中にまだ男がいることを感じながら、ゆっくりと身を前に傾け男の顔に顔を寄せた。
男の瞳はいろんな感情が混ざっているようにも見え、何もないようにも見えた。
まるで人形のよう。
アナベラは見たこともない『器』の存在を思い浮かべた。
抜け殻となって神霊を体に宿しているという哀れな生贄たちを。真の神殿にこもって出てこようとしない囚われた彼らを。
こんなものなのかもしれない。
この男には自身が無いのだ。
きっと、目の前の人間が望むとおりの姿を演じ続けて、流れるように生きてきたのだろう。
自分がどれかも分からない、哀れな男だったのかもしれない。
ワノトギとなった時点で、その者は人ではなくなる。ワノトギはワノトギとしての役割を果たす哀れな存在と成り果てる。
神霊を宿す器も、それに失敗した眷属も、欠片を宿すワノトギも。
どれもが似たような哀しい存在なのかもしれない。
濡れたような艶で黒光りする男の瞳をアナベラは覗き込んだ。
「……私の正体が分かってるんでしょう?」
七日目にして初めて男に語りかけた言葉だった。
男は応えることなく、アナベラを見つめた。
アナベラは男の首筋に手を伸ばした。
微かに上下する温かな喉仏を両手で包み込み、力をこめてそっと絞めた。
男は抵抗しなかった。
息をするのを止め、目を少し細めてアナベラに己の命を預けた。
徐々にアナベラは手に力を込めた。男の命がこの手にあることに陶酔しそうだった。
『おかあさん』
懐かしい子供たちの声に。
アナベラは愛しさのあまり手の力を緩めた。
男が目を細めるのを止め、アナベラを先程のように見上げた。
「そう……やっぱり」
アナベラは男の首から手を離し、男の頬を両手で包んだ。
同時に跨っている太腿に力を込めて男を挟み込んだ。
身体の奥にある生温かな体温に愛しい息子たちを感じる。
かつて、胎内にいた息子たちとその場所で一体だったことを思い出す。
可愛い私の双子たち。
「そこにいるのね。ザザ、ジジ」
涙声で囁くと。
目を閉じてアナベラは喜びのあまり男の額に額を寄せた。
アナベラの目の端から涙が一筋、頬を伝わって落ちていき、男の頬を濡らした。
愛しい、私の子供たち。
アナベラは微笑んだ。
目を開けて、男の瞳の奥の存在に向かって語りかけた。
「わかったわ。この男を」
吸い込まれそうな男の瞳に声を伸ばす。
昔、子供たちを抱きしめて言い聞かせたように。
「……ゆっくりと苦しめて。殺しなさい」
愛しむように男の頬に頬ずりして、アナベラは子供たちとの邂逅にうっとりと浸ると。
「いい子ね……」
唇を柔らかく押し当ててアナベラは男の身体から名残惜しく離れた。
寝台を下りてからは横たわった男の身体を顧みることなく。
アナベラは衣を肌に滑らせると、男の部屋を出て二度と戻らなかった。




