アナベラの復讐2
ロウレンティア神殿で再会した大神官のあの男は相変わらず美しかった。
黒髪は白髪交じりだったが、大神官の白い衣装が映え、目を見張るような整った相貌をしていた。
紫神殿の中で、夫のミゲロに椅子に座ったあの男の前へと子供たちとともに引き合わされたとき。
アナベラは対峙した男が記憶のままの姿で変わらないことに感嘆していた。
他の者が見れば、あの男の姿をやつれた様だと言ったかもしれないが。
アナベラが知る男の姿とは、悪霊を憑かせた苦痛の姿しか知らなかったからだ。
この男は私のことを知らない。
自分と目を合わせた男の最初の様子にアナベラはやはりそうであったと心の中でつぶやいた。
あのとき、この男は悪霊との苦痛に戦うのに精一杯で、私や夫の顔さえ見ていないのかもしれない。
そう思っていたが、そのとおりだった。
しかしその後、自分への途切れることのない男の目線にアナベラは疑い始めた。
やはり私のことを知っているのだろうか。
私を怪しんでいるのだろうか。
立ち去る自身の背中にまで向けられるその視線にアナベラはじわりと汗をかくような気味の悪さを感じた。
その視線の意味に気づいたのは、その後何回かロウレンティア山ふもとの里から、里の女たちと共に供物を捧げるため、紫神殿を訪れたときだった。
通りすがりに。神殿の窓から。その男が自分を見る目が今までに他の男から幾度となく向けられた目とまったく同じだということにアナベラはようやく気づいたのだった。
この男は私に惹かれているのだ。
それに気づいた瞬間、アナベラは大声を出して笑いそうになった。
たしかに自身が美しい女であるという自覚はある。
昔に比べると子供を五人産んだ体は多少崩れた感があるが、それでも同年の女たちと比べるとアナベラの女としての魅力は一際に目立っていた。
あの男と同じ色の黒髪、黒目もあの男の興味を引く要素になったかもしれない。
なんという男だろうか。
それでも、アナベラの中にはあの男に対して何かしようなどという思いはまだなかった。
人を操る力を持ったネママイアのワノトギであるあの男には、ザヤの邑での経験で自身の無力さを思い知らされていた。それにも増して、新天地での生活に慣れるのにアナベラは精一杯であったのだ。
あの男の存在を近くに感じるのは不快極まりなかったが、普段はふもとの里での生活が基盤である。
紫神殿とは供物を捧げるために訪れる以外には接触もなく、かたや大神官であるあの男に近づく機会などほぼ無きに等しかった。
そのつもりだったのだが。
あるとき、ペレを連れてロウレンティア山を登り、紫神殿に来た時だった。
供物を置く部屋の掃除を他の女たちとしていた間に。
ペレがふいとどこかに消えてしまったのだ。
ペレは言葉を発することはないが、こちらの言うことは全て理解している。
ヘマをやらかすような馬鹿な子でもない。
その点は安心していながらも、アナベラはペレの姿を探した。
大きくなったといっても、まだペレは八歳の子供だ。珍しいものに惹かれて、紫神殿内を歩き回っているのかもしれない。
神殿内をくまなく探したが、ペレの姿は見当たらなかった。
つまらなくなって、先にふもとの里へと一人で下山したのかもしれない。
そう思い始めた矢先だった。
紫神殿の外で。
ペレとあの男が居るのを発見した。
目に入った光景はアナベラが認めたくないものだった。
あの男とペレは。
緑の木々の下、蹴鞠で戯れていたのだ。
きらきらと眩しい陽光のもと、拙いペレにあの男が指導して、ペレは楽しそうにその顔に笑みを浮かべていた。
声を出して笑ってさえいたのだ。
「ペレ!」
全身が悲鳴で満ちてゆくかと思うほどの大声で、アナベラは我が子の名を呼んだ。
ペレはアナベラの声に気づき、すぐに男と別れてこちらに駆けてきた。
うっすらと汗をかき、笑顔を浮かべたままの息子が自身に近づくなり、アナベラはペレの頬を張り飛ばした。
突然の暴力にペレは何が起こったのかわからないようにアナベラをあやふやに見上げた。
そのペレの様子にアナベラの心が更に乱れ狂い、再び手を振り上げた。
許さない。
あの男に懐くなんて。
感情のままにペレをぶち続けた。
許さない。
私の子を手懐けようとするなんて。
悲鳴を上げて手をかざし、身を縮こませるペレをアナベラは泣いて咆哮しながら手を止めなかった。
許さない。許さない。
夫を貶めた男に、息子が笑いかけるなんて。
「やめて、おかあさん」
そのときペレが声を発したのだ。
アナベラは息をのんで耳を疑った。
ペレの声などもう何年もアナベラは聞いていなかった。
何年かぶりの我が子の声に驚いて、アナベラは息子に振り上げた手を自身の脇へと下ろした。
「あの人、ザザとジジがいるんだもの。あの中に。だから懐かしくて」
泣きながら、ペレは母であるアナベラにそう訴えた。
赤くなった頬で必死に、ごめんなさい、とペレは謝罪を繰りかえした。
「あの人の中に。いるんだよ」