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アナベラの復讐 1

 アナベラがあの男(・・・)への復讐心を蘇らせたのは、過去との再会を偶然にも果たしたからだった。


 それまでアナベラは三人の子供の世話に追われ、日々の忙しさに埋もれそうになっていたのだ。

 過去を忘れられるような錯覚さえしていた。

 このまま、家族との目まぐるしい生活に自身が連れ去られるかもしれないと予感することもあった。


 神官である夫のミゲロが赴任先サエッレでの三年間の任期を満了し、ロウレンティア神殿から帰還要請が来たのはこの春先のことだった。

 夫ミゲロとともに、アナベラは子供たちを連れて、それまで生活していたサンセベリアのサエッレを出たのだ。


 途中幾度か末の子供が熱を出し、その度にその地で逗留しながらの遅々とした大移動であった。

 ロウレンティアへの道中半ばにあるアマランスの集落ヴェイアに訪れたときのことである。


 アナベラ達一家——否、アナベラは。


 以前の夫を殺した男エッスィルと、その元凶となった女ワノトギ、チェミナと再会することになった。


 全くの偶然だった。

 二人は宿屋を経営しており、そこにアナベラたち一家が宿泊したという巡り合わせだった。

 起こるべくして起こった事だとアナベラ自身は思ったのだが。

 相手の男女には全く予期しないことであったらしい。


 アナベラの顔を見ても、その二人はなんの反応も示さなかった。

 数ある宿泊客の中の一人としてしか、アナベラを扱わなかったのだ。


 アナベラの顔など、覚えてもいなかったのだ。

 この夫婦は。


 アナベラ自身はザヤの邑以降、二人の顔を忘れることなど到底できなかったというのに。


 それはそうだったのだろう。

 アナベラの夫の死は神霊の意志であるとされた。

 手を下したのは夫を刺したエッスィルではなく、神霊の意志に従ったあの男(・・・)であった。

 無実だと証明されたエッスィルは気に病むことなく、その後、妻である女と家庭を築き上げ、幸せな生活を過ごしていたのだ。


 その事実に憎いという感情などアナベラには無かった。

 アナベラは自覚した。

 夫を実際に殺したのが誰であるのか、何者であったのか、そんなことはアナベラにとってはとうに大事では無いことに。

 真の憎しみは、夫の死を当然だと周囲に至らしめたあの男に向けられたものだけであるということに。

 目の前の夫婦から自身の罪の意識を奪わせた張本人のあの男こそが全ての元凶だということに。

 夫の死をすべての者に軽々しく扱わせたあの男こそ。その事実を再確認させられたのだ。


 宿屋夫婦の間には、あのときザヤの邑で女が孕んでいた子供が生まれて健やかに成長しており、さらに女の腹には現在二人目の子供がいるようだった。


 夕食後の席で、アナベラはその夫婦に声をかけてみた。


 男——エッスィルは客として訪れたアナベラのその言葉で初めてアナベラの正体に気づき。

 女——ワノトギである妻チェミナと共に顔を青ざめた。


『本当に。あなた・・・ではなく、あの男・・・が私の夫を殺したの?』



 * * *



 あのとき。ザヤの邑で。

 アナベラの末の息子たちである幼い双子が、マスカダインの奇病に倒れた。

 兄のザザが死んで死霊となり、隣に伏していた弟のジジに憑いたのだ。

 衰弱しきったジジが命を落とすのは目前で、死霊のザザが悪霊化するのは時間の問題だった。


 アナベラの夫は双子の子供の運命を既に受け入れていた。


『神霊様の御力で息子を救っていただこう』


 我が子を喪う未来が受け入れられず泣くばかりのアナベラを抱きしめて諭し、アナベラの夫は他の邑人たちとともにザヤの邑にいたワノトギのもとへ行ったのだ。


 あのとき邑にいた二人のワノトギはあの男とチェミナだった。

 あの男は先の悪霊退治を終えて弱っており、使い物になるとは思えなかった。

 残る身重だった女ワノトギのチェミナに、悪霊と堕ちる息子の救済を頼んだとき、夫はもちろん躊躇っただろう。

 あの男の様子を見て、悪霊を身体に取り込む際にワノトギの身体にかかる苦痛、負担といったものは邑中の者が分かっていた。

 チェミナの宿している子供の命を奪うことになるのかもしれないということは、もちろん邑人全てが知っていた。


 だがどうすればよかったというのか。

 他に手があるとは思えなかった。

 いったん悪霊が現れれば、ザヤの邑は次々と邑人が憑き殺されることになる。

 その度に悪霊は力を増し、ますます手に負えなくなるのだ。


 邑人たちの中でも、夫はその想いが人よりも強くあっただけだ。

 息子を解放してあげたいという気持ちと。

 邑人に害をなす忌まわしき存在へと息子を堕としたくないという気持ちが。

 それがあのときあの場にいた邑人の中で、夫が選ばれた僅差だったというだけなのだ。

 その僅差が。

 妻のチェミナに悪霊祓いをさせまいと抵抗する夫のエッスィルの身体を押さえ込ませたのだ。


 夫はエッスィルの刃をその腹に深く受けた。

 腹を押さえて、自分の身体からあふれ出した血だまりの海を夫は転がった。


『吾は神霊ネママイアの欠片を持つワノトギ。ネママイア様はお前たちの蛮行にお怒りである。女ワノトギに手を出すものは、その男の様にしてくれようぞ!』


 あの男の言葉に。

 傷ついた夫に手を差し伸べる者はいなかったのだ。

 邑人の誰一人として。


 半狂乱になって夫の身体から流れ出す血を押さえこもうとするのは妻であるアナベラだけだった。

 長男のペレは傍らでその様子を見守っていた。

 救いもなく、どんどんと父親の命が失われていく様を目のあたりにしたのだ。

 あれからペレは言葉を失った。


 そして双子の息子たちよりも先に。

 夫はアナベラの目の前で苦しみぬいて死んだ。



『本当に。あなた・・・ではなく、あの男・・・が私の夫を殺したの?』



 他の客は食事を終えて二階に上がり、アナベラたち家族が最後に残ったテーブルで。

 アナベラは自分の杯に食後の茶を給仕しようとしていたエッスィルを見据えて問うた。


 エッスィルの目がみるみるうちに見開かれ、口が少し開いたかと思うと。

 アナベラの目に過去を見出したのか、次にはその目に恐怖の色が浮かんだ。

 茶器を傾けたままだったその注ぎ口からは、茶がこぼれ、杯に落ちることなくテーブルを濡らした。


 夫のミゲロは何も言わずに子供たちを連れて、部屋のある二階へと引き上げた。

 残されたのはアナベラと宿屋の夫婦だけになった。


『本当に。あなた・・・ではなく、あの男・・・が私の夫を殺したの?』


 繰り返した問いに、次の瞬間エッスィルは膝を床につき、頭を下げた。

 夫にならい、妻のチェミナも同様にその隣で土下座した。


 エッスィルと言う男の答えがどうであれ、アナベラはもう構わなかったのだが。


 なのにエッスィルは頭を床にすりつけてひたすら謝罪するだけで、真実を吐こうとはしなかった。


 今更。

 アナベラの心に過去の憎悪が蘇った。


 あのとき。ザヤの邑で。

 この男も女も私を無視したくせに。

 目を合わそうとさえしなかった。自分は無関係だとでもいうように。


 何故あのとき、夫の死に関係がないようにふるまったのか。

 どうしてこのように謝罪しなかったのか。

 邑人たちもあなたも誰もかれも、あのとき、夫と私の存在をいないように扱った。

 私はたった一人で。夫を埋葬したのだ。


 そんな言葉をアナベラはエッスィルという男に感情のまま浴びせた。

 それでもエッスィルは顔をあげようとせずに、謝罪の言葉を繰り返すだけだった。


 意味がないことだと分かっていた。それでも金切り声で罵倒せずにはいられなかった。

 夫のために。自分自身のために。


 二階の他の客から苦情が出て、夫のミゲロが部屋へと連れ戻しに来、アナベラは部屋へと戻った。

 最後まで、エッスィル夫妻は顔を上げようとはしなかった。

 部屋ではペレたち上の子供二人がおびえたようにアナベラを迎え、末の子供は泣いていた。

 夫のミゲロが末の子供を抱きあやして歩き回り、アナベラは一晩中、部屋の机に突っ伏し泣き続けた。



 そして一晩たった次の日の朝。

 エッスィルという男は宿屋の庭の木で、首を吊って死んでいた。


 ぶらさがった男の身体を降ろし、それに泣きながら抱きつく男の妻の様を、まるで虫けらを見るようにアナベラは見守った。


 ここまで弱い男だったのか。

 そのくせに、何故あの時ザヤの邑であんな真似が出来たのだろう。

 私の夫を刺す度胸があるくせに、罪の意識に耐えきれず妻と二人の子供を置いて死ぬとは。


 情けない男。


 こんな男に殺された夫を哀れに感じた。


 神官である夫のミゲロが周囲の隣人たちに望まれて宿屋にとどまり、エッスィルの葬儀を行った。

 アナベラも無感情にその葬儀に参加した。


 式の間中、妻のチェミナは夫のエッスィルのそばから片時も離れず、目を外そうとしなかった。

 かつての自分と同じく未亡人となったチェミナのその姿にアナベラは過去の自分もあのときそうだったのだろうかと冷めた頭で考えた。


 そんなチェミナが最後の最後にようやくアナベラを見たのだ。

 宿を去る前、泣きはらした真っ赤な目でそばかす顔のチェミナは震え声でアナベラに話しかけた。


「アナベラさん。あの時、私たちが謝れば。貴女は私たちを許してくれた……?」


 アナベラはあのザヤの邑のことを思い出した。


「……ええ。多分ね」


 そうであれば納得がいっただろう。

 夫を失った事実に傷つきながらも。加害者被害者ともに理由があり、夫の死は不幸の巡り合わせだったと自身を説得させることができただろう。

 今でもあの故郷のザヤの邑で、息子のペレとともにアナベラは暮らしていただろう。


 夫の死が、神霊の怒りを被った愚かな人間というふざけた理由でないならば……!


 放心したようなチェミナは目に涙を浮かべながらアナベラに話し続けた。


「ねえ、アナベラさん。私、これからどうすればいいのかしら」


 すがるようにその問いを自身にするチェミナに、アナベラは笑いたくなった。


「あなたは夫を失ったあと、どうしたの……どうやって生きたの……」

「どうだってできるわよ。あなたなら」


 アナベラは冷たく言い返した。


「あなたはこの私と違うもの」


 そう。女一人でも生きていくあては確実にある。この私と違って。


 アナベラは侮蔑をこめてその言葉を吐いた。


「だってあんた、ワノトギだもの」


 言い捨てたアナベラの答えにチェミナは息をのみ、アナベラを見返した後、ゆっくりと目を閉じた。

 その目の端から、涙がすいと一筋流れるのをアナベラは静かに確かめてから背を向けた。


 夫ミゲロと子供たちとともに、その後アナベラは宿を去ったのだった。








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