失踪者6〜老いらくの恋〜
「イサーク様? とは」
スーゴたちに追いついたひょろりとした神官が、息を切らして尋ねた。
「馬鹿者! お前は紫神殿で何をしていたのだ。イサーク様は紫神殿書庫の本のほとんどを編纂した方だぞ!」
マスカダイン島での唯一の書庫である紫神殿の書庫室。
その書庫にある歴代神官たちが記した年代記、マスカダイン島各地方の風土や慣習をまとめた風土記、いにしえより伝わる神話を記した古事記……等々、数多ある書物それぞれを全てまとめ上げた一人の神官が、イサークという人物だった。
百年以上も前に、かつて紫神殿に存在したその人にスーゴは心酔していた。
彼の流麗な筆致もさることながら、私的考察を混じえた臨場感のある年代記は素晴らしかった。繊細でありつつも刃のように鋭利な彼の表現に何度も震えたものである。
かの文章の虜となったスーゴは、著者そのものにも好奇心がわき、調べてみた。
不思議なことに、彼、イサークという神官は百二十年前を境に忽然とその存在を消していた。
病で急死でもしたのかと更に気になったスーゴは、数ある記録を漁るうち、とうとうある神官の日誌で「イサーク上級神官は大神官の地位を辞退し、コトトキとなるべく神殿を去った」との一文を見つけた。
彼に一体、何が起こったのか。
大神官の地位を断り、あえてコトトキに身を堕とすなぞ、普通なら考えられないことである。
想像が膨らみ、スーゴの頭の中では「イサーク上級神官」という過去の男は、欲に塗れた神官たちの争いに疲れ果て、薄汚い紫神殿よりも、民に説法をして地方を巡る清貧な道を選んだ高尚な聖職者、という像が出来上がってしまった。
「イサーク様はコトトキになられた後、器になられたのか」
なんと数奇な人生か。
スーゴは急いで、木簡の文面に目を走らせた。
~まづ始めに、アルバトロス氏のやうな學も品もある若者に昨今の時代、出合えました幸運を感謝致します。
而して、彼を教育したロウレンテイア神殿の眷屬ミラルデイ樣及び貴殿スウゴ樣に關しましてはまことに畏敬の念を深く抱かずにはおられません。
私は嘗てロウレンテイア神殿にて神官を務めておりましたイサァクといふものであります。思ふことあり、神官を退いてコトトキの道を選んでから後は紆餘曲折ありまして、今はヒヤシンス神殿にて器としての生を歩んでおります。
貴殿といふ嘗ての同僚に出合えましたことは、懷古と共に不思議な縁を感じております。
兎にも角にも、アルバトロス氏及び彼の兄弟であられるリユウ氏への私どもの非礼、ここにお詫び申し上げます。まことに申し訳ありませぬ。
器である私、眷屬のサネルヴア共々、老いた身にて此姿になつてしまゐましたもので、身體が滿足ではなく、ことに耳に關しましては数年前から役目を果たしておりません。
神殿に來る者といえば、死靈に憑かれた人間か、參拜の者、と決まつております。
多少、言葉が分からずとも、唇を讀めば問題なく事をこなせる、と思つておりましたが、それは傲慢だつたやうです。特に、サネルヴアは疑い深い性質でありますゆゑに、先にいらしたリユウ氏には大變に失礼な態度をとりましたこと、深くお詫び申し上げます。
耄碌した爺と婆の戯言だとリユウ氏にお伝えくだされば有り難く存じます。
お尋ねいたゞきました事項につきましては、アルバトロス氏から預かりました木簡の貴殿の箇條書き欄にてお答えさせていたゞきました。また、私が器になりましてから、ワノトギとなつた者につきましては全て記録しておりますので、そちらもだうぞご査收くださひ。
アルバトロス氏やリユウ氏は荒れた神殿内の樣相にさぞかし驚かれたことと思ゐます。
お恥づかしながら、萎びた體の手前ども、神殿の手入れが滿足に行き屆いておりませぬ。
実を申しますと、サネルヴアは極めて裕福な生まれでありまして、生まれて此かた自身で掃除や家の手入れをしたことがありませぬ。その爲今までは私がそれをこなしておりましたが、少し前に私は轉倒して膝を痛め、それからは放つたらかしの状態です。
私とサネルヴアは先代の器樣、眷屬樣のご厚意によつて神殿にあがつた共に老体の特例であるからにしてだうやら他の器、眷屬のやうにはいかぬやうです。
その理由を述べさせていたゞきます。
私とサネルヴアは嘗て、テロロツで幼馴染みとして育ち、惹かれあつた仲でありました。
併し、サネルヴアは廻船問屋の一人娘であり、私といえばしがない荷役の息子。
お互いに決して結ばれぬことは重々承知しておりました。
サネルヴアの婚礼が決まつた時に、私はテロロツを出てロウレンテイア神殿に向かゐました。想いを斷ち切る爲に神官になつたやうなものです。
かの地で幾年を過ごした後、神靈と人の起源に興味を抱いた私はそれを調べるべく神殿を去り、コトトキとしてマスカダイン島各地を囘りました。その時に仕入れました新たな知識に關しましては、器になつてから木簡の何夲かにて纏めております。アルバトロス氏にお渡ししたその木簡の幾つかを貴殿にて紫神殿の書庫に置いていたゞけるならば、まことに幸甚です。
各地を放浪した後、私はテロロツに久方ぶりに帰郷いたしました。
既に未亡人となつておりましたサネルヴアに再會を果たしましたが、そのときに燒け木杭に火がついた、とでも申しませうか。お互いに若き日の想いが心に蘇りました。
お恥づかしながら老いらくの戀などといふものに夢中になつておりました折、ヒヤシンス神殿から私を器候補にと眷屬の方が來られたのです。
まう棺桶に身體ほとんどを突つ込んでおります我が身なれば、蓋し贄となるには相應しい、と承知した私に、サネルヴアがごねました。
此歳になつてやうやく想ひ人と共になれたといふのに再び引き離されるのは我慢ができぬと。私と致しましても、今更サネルヴアと離れることは断腸の思ひではありました。
その時に、聞いておられた眷屬樣が私どもに案を出されたのです。
シエンユエ樣といふ美しい方でしたが、此方、いたく眷屬らしくない方でありました。シエンユエ樣は眷屬になる前には、だうやら各地を囘る踊り子をされていたやうでした。
『好きあつた男女を引きはがさうなんて、野暮なことはわつちは云ひんせん。それならば、ぬしら、二人で器と眷屬になるがよろし。神殿は苦界にも似て、きつい世界でありんす。そこで悠久の時を過ごす相方が惚れ合つたおとことおんなならば、こんなにも相應しい相方は他にありんせん。なあに、わつちに任せておきなんし』
シエンユエ樣はにかりと笑つてさう云はれ、私どもを神殿に連れて行かれました。
そこでどこをだうシエンユエ樣が器樣に伝えられたのかは存じませんが、なんと私よりも先にサネルヴアにご神體を降ろすことを器樣がご承知なされたのです。
私の目から見るに、生眞面目で融通がきかなさうな器樣でしたが、眷屬のシエンユエ樣だけには頭が上がらないご樣子でした。シエンユエ樣の方が上手で、器樣を操つていらつしやつたのかもしれませぬ。先代のフラサオ樣の器樣とシエンユエ樣も稀有なお二人だつたといえるでせう。夲來ならば、器よりも五拾年ほど早く眷屬は壽命が來るものです。併し、先代の器樣はそれを嫌い、代替わりの時期をシエンユエ樣の壽命に合わされたのです。ご自身の壽命を待たずにシエンユエ樣と共に逝くことを選擇されたのでした。
さういふわけで、共に晴れてサネルヴアは眷屬、私は器となつたのであります。