失踪者1~千里眼ベリシュカの頼み~
『あの男とはもう離れな。そっちのほうが子供にも良い』
水色の珠のような目を持った盲目の老女は、母アガニにそう言った。
『あんたにとってもね。あんたは平気なつもりなんだろうけど、好きでもない男と寝るのは確実にすり減っていくよ。その子の為を思ってあんたはあの男と居るつもりなんだろうけどさ。本末転倒さ。母親が傷ついていくのが子供には見てわかる。その子の為にも良くない』
だろう? と千里眼ベリシュカは腰を曲げて自分を見下ろした。彼女の片耳の後ろでまとめた太い一本の三つ編みの束が自分の頬に触れるほど近くで揺れる。
『もうこの子もこんな年だ。これ以上あの男といたら、この子、あの男を傷つけるよ。間違いない……だとしたらあの男の為にもなるってことさ』
あはは、とベリシュカは笑い声をあげた。
ヒヤシンス神殿の沈むデュモンド湖のほとり。
彼女の住む小屋を母アガニと共に訪れたのは、自分が十を過ぎたころだったと思う。母はベリシュカとは知己らしく、彼女と親しく話していた。
ベリシュカの助言どおり、母はあの男、ヤドゥンとそれからほどなくして別れた。自分はせいせいし、ベリシュカに感謝した。
父親でもないのに自分たち母子を威圧的に支配するあの男を憎み始めていたからだ。成長するにつれ、口が回るようになった自分をヤドゥンは面白くないのか、たびたび殴った。
『いい顔をしてるじゃないか。あんた似だ。色男になるよ……こんにちは、兄弟』
目の前のベリシュカは自分の顔を覗き込み、自分と兄に微笑んだ。
彼女の見慣れない目にたじろいだものの、自分と同じものを持つ彼女に親近感を抱いた。
神霊ネママイアの欠片を持つ、この世界でもう一人のワノトギ。
『まだあんたの未来は見えない。どういうことだろうね。同じネママイア様の欠片を持つワノトギだからだろうか。わからない男はあんたが初めてだよ、ヨシュア。あんた、罪な男だねえ』
自分の頭に手を置きながら、ベリシュカは皺のある顔をほころばせた――。
* * * * *
今朝見たのは、予知夢、というものだったのだろう。
その日、来客を迎えてのち、ヨシュアは確信した。
二十年ほど前の出来事が、いきなり記憶とともに蘇り、夢となって現れたのはそれしかあるまい。
「お初にお目にかかりますだ。わしゃあ、島の南西、ヒヤシンスの端っこの邑に住んどります、父ゲルダ、母ミミの息子、マルコという者だす。こちらはわしの家内、ボエミだす」
遠い片田舎からはるばるとロウレンティア神殿にまで来たという初老夫婦は、大神官であるヨシュアを前にして滑稽なほど頭を下げ、身を平たくした。
「貴方様にお願いすりゃあ力を貸してくださるんじゃなかろうかと、ベリシュカ様がおっしゃったのだす。私の名前を出して貴方様にお目通りを請え、と言われたのだす」
かなりの田舎者ですな、どうします。場合によっては追い返しますが。
自分の隣に立つスーゴが小声で言ってきたが、ヨシュアは夫婦に先を促した。
用意した椅子に座れと勧めるも二人は拒否し、床に膝をついたままだった。
「どうか、わしらの娘のキルゼを探してくんしゃい」
悲痛なほどの必死の懇願の声は、二人のそれまでの苦労をしのばせた――。
マルコとボエミの娘であるキルゼは三年前、十六の時に自らの祖父の死霊に憑かれた。
邑にいたコトトキの男とともに彼女は試練を受けるためヒヤシンス神殿を目指し、デュモンド湖へと旅立ったのだという。
その後、彼女とそのコトトキの男は消息を絶った。
「二人とも、邑になかなか帰ってこんのじゃて、わしらえろう心配したのだす。迎えに行こうかどうか迷っているうちにザヤの疫病が始まってしまったんだがや」
疫病が終息を迎えるまで、彼らは邑を出なかったのだという。
もしかして試練は失敗して娘は死んでしまったのだろうか。いや、帰る途中でザヤの奇病に侵されてしまったのかもしれない。
様々な憶測に不安を抱きながら、マルコは初めて生まれ育った邑を出て、デュモンド湖へと向かった。
慣れない旅は要領がつかめず、遠回りを繰り返し、ようやく彼はデュモンド湖へとたどり着いたが、そこには湖があるだけだった。
マルコは知らなかったのだ。ヒヤシンス神殿とはデュモンド湖に沈んだものであるということを。
「お恥ずかしながら、わしらは全く神霊様のことを知らなかったのだす。湖の近くに神殿が建ってるのじゃと思い込んどったのだす。行けば、誰でもその姿が見られて、中におるだれかと話ができると思っとったんだがや。近くにおったベリシュカ様の存在も知らのうて。そのときにお伺いしたらよかったかもしれんのじゃが」
マルコはそれから帰路の集落でことごとくキルゼとコトトキの二人連れのことを聞きまわったが、収穫はなかった。
「もう、死んだのかと思ったがや。行く最中か帰りの道で山賊にでも襲われて、山中に二人、捨てられてしもうたんじゃないかと」
泣く泣く娘の捜索をあきらめて、邑に帰ったマルコだったが、それから二年後、新しく邑に来たコトトキにベリシュカの存在を聞いたのだ。
すぐさまに邑を出て、デュモンド湖に向かった。
だがそこに、ベリシュカはもう居なかった。
「テロロツに移られておったんだす。ベリシュカ様ぁ、お年のせいか、昔より力が振るわなくなったんじゃそうて」
それはない。
ヨシュアは抱いていた不安が的中したことを知り、かすかに眉をひそめた。
ネママイアの力が弱まり、器を失くしたことにより、ネママイアの欠片を持つ彼女も能力が弱まったのだろう。
「彼女の暮らしぶりはどうだったかな」
「占いは続けていらっしゃっただす。ワノトギになる前のように絵札で。よく当たると評判でしたが」
「そうか」
「絵札で占ってくださった結果は、キルゼは今でも生きているとのことだっただす。コトトキのロランゾ様も同様だと。キルゼは今でも何処かにいるのだす」
お願えしますだ、とマルコは切々と訴えた。
『私の能力が無くなって、彼らの娘を捜せないのはあんたの責任だよ、ヨシュア』
ベリシュカの声が聞こえるようだった。
ヨシュアはマルコの願いを二つ返事で承諾した。――
* * * * *
「どうなさるのですか、ヨシュア様。誰にその娘を捜させるのです?」
「君ならやってくれると思ったんだが」
「私ですか?」
ヨシュアの答えにスーゴは予想が当たったことを落胆した。
「ミゲロがいたら、彼に頼んだのだろうが。彼はサエッレであと何年かは逗留しそうだからな。子持ちの年上女性と所帯を持ったとか。来年の春には三人の子供の父親になると、書簡をもらった」
ミゲロの報告を祝うように微笑みながら伝えるヨシュアに対して。
自分だけさっさと幸せを手にしやがって。
同期の男の幸運がスーゴには内心、面白くない。
サエッレは本来、スーゴの故郷である。ヨシュアはスーゴにこそサエッレ行きを最初に勧めたのであるが、それを断りヨシュアの側に居ることを選んだのはスーゴ自身だ。
しかし、自分ほどには醜いとは言えないものの、不愛想な痘痕面のミゲロから浮いた話が出るなんて思ってもみなかったスーゴは少し悔しい。
「やってくれるか」
「貴方様がおっしゃるならそうするしかありません」
答えて、スーゴは額を手の平でゆっくりと撫でた。考える時の彼の癖である。
「ヒヤシンス神殿には眷属もいるでしょう。神霊や眷属の何人かが阿呆でなければ、一人くらいキルゼという娘とロランゾというコトトキの二人連れのことを覚えているのではないですか。まずは、かの二人が神殿を訪れたのかどうか確かめるのが最初でしょうな。二人連れが来たような痕跡がないのなら、まあ、道中で父親の言うように山賊に出くわしたか災難にでもあったのでしょう。……神殿で試練を受けたとすれば。……占いを信じるならば、試練は失敗しなかったということですから成功したか、もしくは」
「彼女はワノトギになった」
ヨシュアの言葉にスーゴは頷く。
「まあ、私の予想として。若いコトトキと若い女性だ。恋仲だったのではないですか。ワノトギになったことを隠そうとして、二人で名を変え、新しい人生を始めたのかもしれませんな」
一年前から、マスカダイン島全土のワノトギを把握しようとヨシュアたちは努めた。各神殿の近くに下級神官とダフォディルのワノトギを送り、それ以降ワノトギとなったものは名、居住地、そしてダフォディルのワノトギの判断による簡単な格付けとともに登録した。
それ以前のワノトギに関しては、未知数であったのだが。ダフォディルのワノトギたちの協力を得て、マスカダイン島各地を探し回ったところ、隠れているワノトギたちのなんと多いこと多いこと。
ヨシュアのような蝸牛ワノトギは死活問題であるにしても、ほとんどは兎や亀ワノトギであり、彼らは平凡な生活を求めた人間として当たり前の人間たちだった。大体、悪霊退治に進んで立ち向かうユミュールのような殊勝なワノトギの方が自然に考えれば珍しいのである。
「今まで見つけたワノトギも確認してみましょう。まだ見つかっていないならば、彼女を見つけ出すのは本来、私たちの願うところでありますからな」
「……もし彼女が亀であって、幸せな生活を送っているならば申し訳ないところだがな」
「……私は例外は認めないとしております」
ヨシュアの言葉の端の感情を読み取って、スーゴは事務的に答えた。
「君の裁量に任せる」
ヨシュアは微笑して締めた。
蝸牛や懐妊したワノトギ、病持ちのワノトギの保護は既に始めていた。
自主的に保護を求めた彼らは、ロウレンティア神殿に近い山麓の里に集まっている。
そうなると、次に哀れなのは亀たちである。
「ヒヤシンス神殿は純然たる祈りでしか湖上に浮かんでこないそうだ。そして、神霊に近しい者にしか見えない」
「私の問題はそこですな。純然たる祈りなど出来そうもありませんし、浮かんだとしても私には見えない」
「だから、アルバトロスを君につけよう」
「彼奴ですか?」
悲鳴に近い声をスーゴはあげた。