サンセベリアの幸薄き女(下)
「涙ひとつ見せず、事態を静観していた貴女に私はなんと強く賢い女性なのだろうと感嘆したものです」
アナベラの表情が一瞬にして硬化した。
たちまち、アナベラの周囲の空気が変わり始める。
満ちた潮が急激に引くように。
霧が払拭され、隠れていたものが徐々にその姿をあらわすように。
「……あぁ」
アナベラはゆっくりと息を吐いた。
ザヤの邑の未亡人は目の前の男を蘇った記憶と照合するように見、目を細めて頷いた。
「そういえば貴方、あそこにいたわね」
――ザヤの邑で。
あの男を迎えに来たのは、確かにこの男だった。
変貌したアナベラを意に介することなく、男は言葉を続けた。
「あの後、私はすぐにザヤの邑に戻ったのです。彼の命で。しかし貴女は邑を既に去った後だった」
「去るに決まってるわ。一秒だって居たくなかった。あんな……気味の悪い邑」
何かに魅入られたようにあの男を崇めだしたザヤの邑人たち。
そのうちの誰もが喪われた夫の命を気に留めなかった。
疑問も、怒りも、悲しみさえ。
誰一人として抱かなかったのだ。
まるで夫の死は既に約束されたものであったかのように。
「夫は不信心ではなかった」
アナベラは言い放った。
むしろ信心深い男だった。
硬すぎるくらい真面目な男だった。
毎朝、家の社に祈り、労働に勤しみ、つつましやかな日々の生活に感謝を捧げていた。
「なのにどうしてあの人が神霊の怒りを受けなければならなかったというの」
報いを受けて当然の死、など。
あの人にかぎってあり得ないのに。
「あの人だけが」
「貴女のご主人がただその場に居合わせただけに過ぎないでしょう」
「そうよ。あの場の誰がそうなったっておかしくなかった。なのに夫だけが一人、その罪を背負わされたわ」
マスカダイン島全土で。
神霊の怒りを被った高慢で愚かな人間の象徴となり。
あの人は貶められた。
誰一人として夫の死を悲しまない。見向きもしない。
昨日まで肩を並べて生活していた親しい隣人だったというのに。まるで虫が死んだような扱い。
これは何?
何が起こってるの?
こんなことがあっていいはずがない。
頭の中は混乱し否定し続けていても、それでもアナベラは冷静に夫の体を埋葬した。
一人で墓穴を掘り、汗だくになって夫の身体を引きずり、一人で埋めた。
「ご主人とご子息らの墓標の前で、一人佇んでいた貴方を見ました」
男が低く平坦な声で述べた。
「あなたは静かに受け入れていました。あの異常な事態を」
「あの男が私の子供たちを取り込んだからよ!」
悲鳴のような声でアナベラは怒鳴り返した。
夫を殺したあの男は次には自分の愛しい双子たちを取り込んだ。
まだ幼くあどけなかったペレの弟たち。
マスカダインの呪いで苦しみ抜いて死に、悪霊と化した私の可愛い子供たちを。
「取り込んだのが私の子供でなければ、私はあの男を殺していたわ」
私の子供たちのために、あの男は死の淵まで苦痛に喘いだのだ。
あの男があのまま命を落とせば私は自分を納得させることができただろう。
夫を殺した男でありながらも尊いワノトギとしてあの男を受容できただろう。
だが、あの男は生き延びた。
「貴女を探していました」
「……それで? どうするの? 私たちを神殿で養ってくれるの? それとも私たちを殺す?」
アナベラは鼻で笑いながら、自分たち二人を強張った様子で見守っている息子のペレを見やり、男に再び視線を戻す。
「私が貴方なら私たちを殺すわ」
「それならば、先ほど出した食事に毒など入れているでしょう」
痘痕面の男はにべもなく否定した。
「あの方は、貴女様に然るべき処置を…あなた方を保護するようにとの仰せでした」
「嫌よ。あの男の世話になるだなんて。死んでも嫌」
アナベラは嫌悪感とともに男を睨みつけた。
「私は自分で居場所を見つけたわ。これからもそうする」
「……この集落にダフォディルのワノトギを引き入れたのはあの方です。私をこの地に送ったのも」
目を見開いたアナベラから男は視線を外した。
「まさか貴女にここで会えるとは思いませんでした」
あの男が。
「そう……また、あの男が私の居場所を奪ったのね」
自分の声が恐ろしいほど静かなことにアナベラは驚いていた。
全身に満ちていく激情で、この身がどうにかなるのではないかと思うほどなのに。
憎い。
あの男が憎い。
どこまであの男は私から奪えば気が済むのか。
この私とどんな縁があるというのか――!
「ザヤの邑で私はあの方が死ぬべきだと思っておりました」
男がそのとき発した言葉に、アナベラは耳を疑った。
「今もそれは変わっておりません」
驚いたように見返すアナベラに、男は先程となんら変わらない調子で話している。
「あの方をザヤの邑からロウレンティアに連れて帰る途中、何度、切り立つ崖から突き落とそうと思ったか分かりません。出来なかったのは、あの方に考えを読まれているのではないかと恐れたからです。ネママイア様の偉大なお力とワノトギという存在に対しての畏怖が勝りました……ですが、躊躇する必要などなかった……今でも後悔しております。あの時、彼を馬ごと落とすべきであったと」
アナベラが見る限り、男は嘘偽りのない本心を語っているように見えた。
「彼が死したとしてもこの流れは変わらなかったはずです。誰かが後を引き継ぎ、世の中は動いたことでしょう。むしろ彼が命を落とした方が全てが丸く収まっただろうというのが、私の見解です。民にも神霊にも神殿にとっても……彼自身に対しても。歴史に残る美談で終わったはずだ。命を捧げた蝸牛ワノトギとして、人々の同情を誘ったでしょう……ワノトギなどというものは本来、崇拝するような対象ではない。彼らは私たちと変わらない。私たちと同じ卑しい存在です。……それが。神霊の言葉を語るなど。同じ舞台に立つなどと。烏滸がましい。身の程知らずもいいところです。あの者たちは大人しく神から遣わされた使命をただ果たしておればよいものを」
――この男が欲しい。
アナベラは強く感じた。
目の前にいる、この痘痕面の若い神官を。――
一度目の結婚は夫から強く懇願されて承知した。
二度目の男は必要に迫られて仕方なく選択した男だった。
今、目の前にいる男のように、こんなにも狂おしいほどに自分が求めた男がこれまで居ただろうか。――
「これから……私たちはどうすればいいのかしら」
アナベラの問いに男は仏頂面で答えた。
「ここに居れば良いでしょう」
「良いのですか。息子のペレはザヤの邑から口がきけなくなってしまった厄介な子です。そして私は今、お腹に子供を宿しております。……あの男の子供です。それでもここに……?」
アナベラは手を伸ばし、男の腕に触れた。
「……三人目は私の子供を産んでくれれば問題はないでしょう」
なんの情緒もなく男は無粋に言い捨てる。
だがアナベラが腕に触れた瞬間、男が微かに身を強張らせた様に、アナベラは見抜いた。
この男は女をまだ知らない。
そして素っ気ないふりをしながらも、この男はザヤの邑から私に気があるのだ。
自分がそれなりに美しい女であることをアナベラは自覚していた。
二人目の男の際には、男の気を惹くためのしなの作り方をアナベラは覚え、身につけていた。
既に子供を三人も産んだ、とうのたった自身の身体であるが、若い肉を知っている男ならまだしも、このような男ならば溺れさせて籠絡するのはたやすいと思えた。
「……貴方様のお名前を教えていただきとうございます」
婀娜っぽい声をつくって男の手を握ると、それだけで男が動揺するのが分かった。
「ミゲロです」
「ミゲロさま」
アナベラは跪いてミゲロを見上げ、その手をとり、口づけた。
「貴方様の妻として、お側に仕えさせていただきます」
手に頬を押し当てたアナベラはこちらを見つめていたペレと目が合う。
「……どうか、私と子供たちを可愛がってくださいまし」
だから上手くやるといったでしょ。
安心なさい、ペレ。
甘やかな声で慎ましく服従の意思をミゲロに述べながら、アナベラは息子に向かって悠然と微笑んだ――。