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サンセベリアの幸薄き女(上)

「なんでもするわ。仕事をください」


 市場で座りながら野菜の皮を剝いている女二人にアナベラは声をかけた。

 女二人はアナベラを一瞥し、すぐに手元の野菜に視線を戻す。


「子供を抱えてあとがないの、お願い」


ともすれば喧騒に埋もれてしまいそうな声をアナベラは大きく張り上げた。

 アナベラの傍らに立ち、手をつないでいる息子のペレは母親の顔を見上げる。

 母であるアナベラのもう片方の手は頭を覆う布が外れないように首元をしっかりと握っていた。


「お願い」


 女たちはそんなアナベラと息子が存在しないかのように、今度はわざとらしいほどの大きな声で世間話を始めた。

 アナベラは唇を噛み、息子の手を引き、女たちの前から去る。


 屈辱に耐えて発した懇願だった。

 彼女たちが自分に何をしたか、アナベラは覚えている。

 忘れようもない。

 立場が逆転したあの日、左側に居た女はアナベラの髪をつかんでひきずりたおし、右側に居た女はアナベラを蹴りつけた。そして二人で公衆の面前で嘲笑しながら、アナベラの髪を切った。

 それでも、その二人に頭を下げるほどにアナベラは困窮していた。


「大丈夫よ」


 物言わぬ息子のペレは不安げにアナベラの顔を見つめている。


「なんとかなるわ。お母さんがなんとかする。今までもなんとかなったでしょ」


 ペレに微笑みかけ、アナベラはそれから集落中をくまなく歩きつぶし、日がな職を求めて人々に嘆願し続けた。




 ――マスカダイン島の南東に位置する、サンセベリア地方東部にある集落、サエッレ。

 温暖湿潤でマスカダインが育つには良好の土地だ。マスカダイン畑が広がる風景を見るかぎり、のどかで平和な場所である。


 ここを出ていくしかないのだろうか。


 アナベラの頭の片隅に浮かんだ考えは、終日繰り返された人々の冷たい断り文句と、自分たちへの無視を決め込む態度に徐々に大きくなり始めた。


 また?

 やっと見つけた場所だった。


 また、一から出直すの?

 ペレと……この、お腹の子供を抱えて。


 気が付いたのはここ数日前だった。

 お腹の子供の父親は、あの男だ。


 このサエッレで暴虐の限りをつくしていたワノトギ。

 彼は強かった。

 だから私はあの男に近づいたのに。

 私とペレを守る道具としか思わなかったからこそ、すべてが我慢できたのに。

 生傷の絶えない毎日も。ただ受け入れるだけの夜の苦痛の行為も。

 ようやく、あの男の暴力を流すコツ、なだめ方も覚え始めたこの頃だったのに。


 ダフォディルから新たにこの地へと来たワノトギに、あの男は尻尾を巻いて逃げ出した。

 私の腹に子供を残して――


 風は爽やかで心地よい。

 シャンケ・ルア(春のふた月)からイオ・ルア(夏のひと月)に変わろうかという季節だ。

 この時期なら野宿しても身体を壊すことはないかもしれない。

 頰に感じる微風にアナベラは思案する。

 次の集落に移る? 

 それとももっと遠いところへ。

 ヒヤシンス? ダフォディル?

 まさか。ここまで来るのも私には生まれて初めての遠出だった。

 そんなところに行けるの? 腹に子供を抱えて。

 彼方の地へと思いを馳せて、赤く染まりつつある西の方角の空へとアナベラが目をやった先に、古びた木造の屋舎が視界へと入った。

 集落の民がかつて神霊やナトギの信仰のために造った祈りの場所。

 無人だったそこには今、一人の人間が住んでいる。

 ロウレンティア神殿から、最近やってきた若い神官。痘痕面あばたづらの不愛想な男。


 きゅ、とアナベラは唇を硬く結んだ。

 あの他所者なら、私たちを憐れんで情けをかける好奇心くらい、あるかもしれない。

 アナベラは息子の手を引き、その方向へと足を進めた――



 * * * * *



 自分はそんなにおごってはいなかった、とアナベラは思っている。

 でも人々の目には自分はそう映っていたのだろう。

 あの男と共に店に入り無銭で飲食を楽しみ、商店ではあの男が選べというままに、自身の衣服や宝飾品を選んだ。派手な物を男が好むため、自然と身に着けるものは豪奢になった。

 男の言うことを聞き、適当に心地の良い受け答えをしていれさえすれば、男は自分とペレに危害を加えなかった。

 だから、男が人々を虐げたり弄んだりする様を、男の隣でアナベラは笑って見ないといけなかった。


 そんな私をこの集落中の者はそこまで憎んでいたのか。


 ダフォディルから来たワノトギにより、男の天下が終わりを告げた後。

 男に捨て置かれたアナベラに対する人々の仕打ちは凄まじかった。


『あばずれ女が、いい気味だ』

『今まで虎の威を借りやがった報いだ、思い知れ』


 家の中に押し寄せ、隠れていたアナベラを引きずり出し、罵倒し、痛めつけ、引き回して辱しめた。

 あの時にアナベラの長く美しい漆黒の髪はほとんど失われた。今は男のような惨めなざんばら髪を隠すため、アナベラは常に布で頭を覆っている。


 ダフォディルから来たワノトギは粗野だったが、あの男のように理不尽なことはしなかった。あの男と取って代わった彼を人々は歓迎した。

 その後すぐ、今度はロウレンティアから神官が来たのだ。

 彼はダフォディルから来たワノトギとよく行動を共にし、懇意であるようだった。

 アナベラは戸口に出てきたその神官に縋った。


「お願いです、尊き方。私たちを哀れだと思うならどうかここに置いてください。ここでは他に行くところがないのです」


 出来るだけ憐憫の情を誘うような声を出してみた。


「なんでもいたしますわ。炊事、掃除。雑用全て。貴方さまがおっしゃることは何でも」

「……どうぞ中へ」


 素っ気なく痘痕面の神官は言い捨てる。そのまま背中を向けて、アナベラと息子ペレを中へと導いた。

 薄暗い間の中央の机に二脚の椅子が置いてあったが、そこに座るようにと神官は言い置き、奥へと消えた。

 暫くして、彼はパンと干し肉、乾燥させたマスカダインと器に汲んだ水を携えて戻ってきた。

 礼を言い、アナベラとペレはそれらをかっこんだ。昨日から何も口にしていなかった。


「ありがとうございます。慈悲深い方」


 束の間の満ち足りた食欲にアナベラはとりあえず一息ついた。

 目の前に立つ神官に目を伏せてアナベラは切々と語り出した。


「これからは身を恥じて生きていきますわ。今まであのような男にへつらっていた過去の私を。浅はかでした。なんと私は愚かな女だったのでしょう。あの男の虚栄の影に浸るなど。そのような行為を恥とも思わず。許していただけるとは思いませんが、一生」

「貴女は賢い方だ」


 神官の男はぼそりと、しかし耳までは届く声で告げた。


「強くて賢い女性だ。他の者が怯えてあの男に低頭する中、貴女だけはあの男を利用した」


 アナベラが顔を上げて男を見ると、彼は相変わらず無表情でこちらを見返していた。


「恥じることは無い。子供を抱えた一人の女性が見知らぬ土地でやっていくならば、それが一番確かな道だったはずです」


 アナベラは息を飲み込んだ。

 喉の奥の方に何かが詰まったような感じがする。

 そんな言葉が返ってくるとは思わなかった。


 貴女の行いはこれから悔い改めればよい。それを見て、神も民もいつか貴女を許すときがくるでしょう。

 はい、はい、なんて、ありがたき言葉。これからそのように私は息子と共に……。


 などというやり取りしかアナベラは予想していなかったのだ。


「臆病者どもが形勢が逆転した途端、寄ってたかって無力な貴女に牙を向き、暴れた。そちらの方が余程情け無く、恥晒しです」


 私はこの言葉が欲しかったのかもしれない。


 そうよ。

 自分なりに必死で探した道だった。

 時折くるあの男の暴力にも甘んじて受けたわ。その覚悟で私はあの男と一緒にいたのよ。

 それなのにどうして私は人々から罵倒されなければならないのか。

 あなたたちが私だったらどうしたの。

 他に道があったとでもいうの。

 誰かが私たちを養ってくれたとでもいうの?

 誰一人として私とペレに手を差し伸べてはくれなかったくせに。


 こっちの気も知らず。

 私の選択を非難するのは許さない。


 怒りなのか。悲しみなのか。

 この男の言葉に、内に秘めていた自身の誇りが揺さぶられたのか。


 身体の奥から沸き起こってくる感情にアナベラは震えるのを感じた。同時に目頭が熱くなるのも。


 目の前に立つ男はそんな自分を見つめている。

 男の顔には侮蔑や哀れみといったもの、いや、何の感情も存在してなかった。


 それがアナベラには嬉しかった。

 この男は私を認めている。


「貴方は……」

「ザヤの邑でも貴女は気丈だった」


 アナベラは言葉を飲み込んだ。











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