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女奴隷エイレネの選択

 ……私は綺麗になったの?


 私は綺麗だわ、綺麗になった。


 ……いえ、ちがう。


 わからない、わからない。

 わからないわ、頭が混乱する。


 痛い、頭が痛い。


 それもこれも記憶たちがはみ出してくるせい。漏れ出してくるのよ、ひっきりなしに。

 がやがやと頭の中で、沢山の小物を入れた箱をひっくり返したみたい。

 おとこもいれば、おんなもいて、それぞれがしっちゃかめっちゃか話しかけてくるんだもの。

 うるさいのよ。みんな。

 だまって、静かにして。

 私はだれなの? 私はなに?


 ……器よ。

 選ばれた、器。ネママイア様に選ばれた器。

 そう、私は選ばれた器。


 器になる試練にも耐えた。

 耐えたのよ。


 今までに感じたことがないような苦痛だった。

 お腹の中をかき回されるような。炎が身体の中を焼き尽くしているような。

 顔に焼き鏝を押し付けられたような。

 耳や鼻、孔という孔に棒を入れて押し広げられているような。

 身体の中身を破壊して、神霊様を宿す容れ物となるために。


 私は耐えたの。

 綺麗になるために。

 全てを浄めて、もとのように綺麗に戻してくれる気がして。


 吾はもともと綺麗であった。

 お父さんとお母さんとお兄ちゃんとサンセベリアで暮らしていた。

 霊力も高くて、賢くて、気立ても良い特別な娘だと皆に言われた。

 それが。

 ザヤの年で私を置いて、みんな、神霊さまの怒りに触れて。

 吾以外、死んでしまった。


 お父さんがお金を借りていた人が来て。

 わたしをアマランスの鉱山に連れて行って。


 吾は鉱山奴隷になった。


 同じような何人もの女の子と。

 狭い部屋に布一枚で仕切られて。

 暑苦しいなか、詰め込まれて。

 鉱夫が入れ代わり立ち代わり。

 何日も何日も。

 ひたすら、やってはきえて、来ては帰って。

 次が来るまでに内腿の体液を拭く。脚を開く。そして、また拭く。


 そんなことすら億劫になってきたとき。


 息苦しい。

 私はここで、この暗くて汚いところで死ぬのかしら。

 もう、マスカダイン畑で青空を見上げたり、すがすがしい空気を吸うことはできないの?


 空を見たのはいつだったかしら、と思っていたとき。


 彼らが来たの。

 小屋の主人のあわてた声がして。

 何人かがこっちにやってくる気配がして。

 ああ、どうしたのかしら。

 此処にいる者たちとは違う、清浄な空気を感じて。

 毛色の違う男たちが来たものだと、感じて。

 でも、その存在がとても綺麗で。

 それを感じただけで、久しぶりに心が洗われたように思って。


 布をたくしあげて、その男が入ってきたとき。

 吾は面倒くさげにおなかを拭きとっているところだった。

 終わった男はまだ私のそばにいて。

 だらしなくぶらさげたまま、ぽかんと入ってきた男を見つめた。

 だって、とても美しい男だったもの。


 真っ黒な髪と目の。美しい男。

 吾の愛しき子供、ヨシュア。

 いえ、違うわ。まだそのときは吾の子供ではなかった。

 彼は私の身体を見下ろして。

 私のそばへ跪いた。


『お迎えにあがりました。ネママイア様の器となられるお方』


 憐れみを帯びた顔で私の身体を見つめて。

 吾の子……いえ、まだ吾の子供ではなかったわね。

 美しい男は私を軽々と抱き上げて。


『遅くなって申し訳ありませんでした。あなた様をこれから神殿へとお連れします』


 まるで私を羽のように抱いて。その腕の中で吾は男を見上げていた。


『ここから出してくれるの』

『今すぐに』

『出してくれるのなら、どこへでも。貴方についていくわ』


 おしまい。もうおしまい。

 こんな生活はおしまい。


 彼に抱かれて外に出たとき。

 見上げた空が本当に青くて綺麗で。空気が美味しくて。

 吾は生き返ったと思った。――――――





 ロウレンティア神殿で吾は代替わりを受けた。

 ひとつ前の器はオーキッド色の髪の美しい女だった。清らかで、汚れを知らない女。

 私も尊い彼女のようになるのだと思っていたのに。


 神霊が身体に降りた瞬間、違和感を感じた。

 失敗したわけじゃない。

 神霊は私を器として認めた。

 それでも違和感を感じた。


 とどめきれない。

 神霊様を収めきれない。

 これは吾のせいじゃない。

 神霊様がおかしい。

 どうして、なぜ。

 前の器のときからおかしかったはず。


 神霊様が形をとどめられないのよ。

 ばらばらと。分散するのをかろうじてとめているだけ。形にならないのよ。

 なぜ、どうしたの。



 力が弱まっているのよ。


 民の信仰が。

 民の思いが。

 ザヤの年から崩れて。


 私に突き刺さる。

 ザヤの厄災を呪う声が、怒りの恨み言が。

 私を苛み、砕き、解こうとする。


『なぜ、神霊様は私の子を殺したのか』

『どうしてこんなひどいことを我らに』


 これは私の声なの? 民の声なの?

 ザヤの厄災を恨んでるのはみんな。吾もそう。

 厄災さえなければ、吾は清いままだった。

 何も知らず。鉱山に行くことなく。

 奴隷として男たちに掃きだめのように扱われることなく。

 サンセベリアで。

 父母兄とマスカダイン畑で幸せに暮らしていたものを――――――!







『おかわいそうに、エイレネ様』


 私を見て涙を浮かべ、憐れみを込めてつぶやくのは、私の世話をする紫の髪、金目の老婆。


『さぞ、お苦しいでしょう。ネママイア様が弱ってらっしゃる。貴女様と同化しきれない』


 ミラルディというその老婆は、たまに少女に見えることがある。

 吾の目がおかしいの?

 たしかに老婆なのに、周りの者はミラルディを少女のように見ている。

 顔に刻まれた皺、醜いシミも、身体中を覆う細かに縮れた肌も、枯れた髪も。

 どう見ても老婆じゃない。

 でも、ある瞬間にその皺がすべて消え、乾いた髪も潤い、みずみずしく滑らかな肌の少女の姿をすることがある。

 おかしいわ。

 どっちが正しいの? 

 いえ、両方とも彼女なの?―――――





『エイレネ様』


 黒き髪、黒い瞳のヨシュアが、望めばすぐに私のもとへと来てくれる。

 吾の欠片を内包する、愛しき双子。美しい子供たち。

 彼に身体を抱きしめて貰えば、吾は落ち着く。

 彼ら二人の魂を感じて。

 私の子供たちとの確かな繋がりに。


『貴女様は確かに美しい姿をしていらっしゃいます』


 その言葉が欲しくて。


『髪は淡い紫、瞳は深い青、白い肌に御変わりになられた』


 本当にそうなのかしら。

 だったら、吾の目がおかしいのね。

 だって、見下ろす肌は埃と灰で汚れて男たちの唾液がまとわりついている。

 腹と内腿の体液が異臭を放つ。

 ミラルディに洗って洗って洗ってもらっても。

 ちっともとれない。

 肩に下りる髪だって、茶色のままでこんがらがっているのに。


『私の言葉が信用できませんか』


 黒い瞳。心地良い声。

 その深さに吾は落ち着く。


 もう何度目かしら。

 昼夜問わず、ヨシュアに来てもらうのは。

 同じ言葉を何度も聞き、そのたびに彼の腕に抱かれ、確かめるのはもう何度。

 何日目? 何十回目? いえ、何百回なの?


 ヨシュアが言う吾、吾が見る吾。

 どっちが本当の吾なのか。


 吾はまだアマランスの鉱山小屋にいるのではないか。

 これは夢の続きなのではないか。

 今でも、延々と獣のような男たちに私は体液を吐かれ続けているのではないか――――――!



『エイレネ様!』


 ヨシュアに強くゆすぶられ、吾は正気に戻る。

 正気?

 いえ、そんなものはない。

 とうに吾は崩れてしまったのであろうから。

 アマランスの鉱山小屋で。


 頭の中で皆が次々にがなり立てる。

 過去の器たちが。

 黙って。もう、煩くて耐えきれない。

 男も、女も、子供も。

 彼らの記憶の引き出しが次々に開いて、こぼれて。

 何度となく繰り返す疫病、天災、水害……噴火。


 フラガリエ山の噴火。

 知ってるくせに言わなかった。

 噴火が何をもたらすか、はるか過去から吾の記憶にはしまわれていた。

 それでも前の器はその記憶を取り出せず、何もしなかった。

 予知能力がありながら、過去も未来も神霊は何もせず、吾らを見ているだけ―――――!



 私はどこ? 私はなに? 私は誰?

 神霊様はどこに御座すの?

 私はネママイア様の器よ。私こそが。





『貴方はわかっていたのね』


 腕の中で吾が言うと、愛しき黒き瞳の子供は許しを乞うように吾を見た。


『ザヤの厄災は貴方の言葉。ネママイアである吾はそれでもお主を見守るだけ』


 それこそが理。

 神霊は世界にただ存在し、この世界を見守るだけ。

 あまねく災害を予知しながらも、それを傍観するのみ。

 今まで気まぐれに伝えた予知は気の向いた遊びのようなもの。

 なんて残酷な仕打ち。

 大災害も、取るに足らないことも、ネママイアという神霊にとっては同じなのだ。

 民が何人死のうが生きようが関係ないこと。

 前もって民を救おうなどと、つまらぬ人のような考えなど持たぬ。

 気が向いたときに、起こるべきことを口にする。それだけ。

 九つの神霊の中で、異質な吾、太古の暗黒神、ネママイア。

 主に自然の恵みを司る他の神霊たちとは根本的に異なる。


 気まぐれにてこの島に他の神霊と共に降り立ち、器を依り代に、密やかに楽しんできた。

 吾の子供たちを増やし、減らしながら。


 子供を産みっぱなしで育てぬ母と同じく。

 ふいと気が向いたときにだけ乳をやり、そして次の瞬間には泣き喚こうが子供が餓死しようが無視をする。


 節操のなき、身持ちの悪い女のように。

 産み捨てを繰り返す傍迷惑な女のように。


 そう。

 この世界でネママイアは大いに遊んでいるのだ。

 この世界を、島を、存在する生き物を愛しみ、慈しみながらも。

 大いなる遊びと無関心と傍観とで世界を回しているのだ。



 元から、話など通じぬ。

 神霊の行動も考えも理解しようとするのがおこがましい。

 神霊がこの身体に御座したとき、すべてを見た。

 そこには何もなかった。

 見ただけだ。存在を。

 世界も、彼らも、民も。

 ただそこに存在しているというだけ。

 そこに理由などあらぬ。




『要らないわね、私は』


 吾の美しい子供は同意の目で吾を見た。

 吾の子供たち。

 欠片を通じて分かる。

 吾らは同じなのだから。

 吾らは一心同体。


 これからの世には、吾が民に求められることが幾度かあろう。

 それが見えていた。

 燃えさかる火。血なまぐさい匂い。切り倒される母親と子供。次々と上陸する異国の民。血に塗れ、逃げ惑う、愛しきこの島の民。


 吾が求められるのは、この島に禍が訪れるとき。

 民と民の禍が初めて、この島に生まれいづるとき。

 その時こそ、吾が器に降り立つとき。


『吾が必要なのは、この島に禍があるときこそ』


 再び、同意を求めて吾が愛しき子供たちを見ると、子供たちは頷いた。


『吾と、吾の子供のそなたたちも、本来、要らぬ』


 ヨシュアは吾を腕にて痛いほど強く抱きしめた。

 吾は目を閉じて愛しき子供の熱に浸る。



『……ザヤの年以来、吾がこうなることが分かっていたのであろう。それでも吾を器に選んだ。それを悔いておるのか?』


 声を出すようにして、ヨシュアは激しく息を吐いた。


『泣くな。吾は何も思わぬ。神霊とはそういうもの。お主がザヤの厄災を吾の名で騙ろうとも吾はなんとも思わぬのだから』


 それこそが神霊ネママイアというものなのだから。

 ただ、愛しき民と子供たちを見守るだけなのだから。

 子供に特別な情も憎しみも持たぬ。

 その存在を端から認めるのみ。


 吾が愛しき子供のヨシュアの頬を包み、吾は告げる。


『泣くな』


 涙で歪む吾の子供の顔を覗き込む。二人の子供の顔が見えた。

 一人は絶望的なほどの後悔を。

 もう一人は後悔と相反する感情の狭間でゆらめき、困惑している。


『エイレネ様……私は……エイレネ様自身に……』


 神霊が降りた以上、吾は本来ネママイアであるのに。

 それでもヨシュアとミラルディは吾のことを「エイレネ」と呼んでくれる。


『神霊を除いた器としての吾自身を憐れんでくれるのか。……ならば、吾もエイレネ自身として答えよう』


 吾はあのときの記憶を手繰り寄せる。

 アマランスの鉱山、女奴隷小屋で。

 美しき吾の子供が、吾の目の前に現れたことを。


『あの日、吾は逃亡を考えていた』


 もとより成功できるとは思っておらぬ。捕まるのを承知で逃亡を決意したのだ。

 逃亡奴隷は見せしめとしてはりつけにされる。

 小屋に連れてこられる道中で、立てた板の上の女の姿を見た。

 乳房をえぐり取られ、陰部に棒を差し込まれ、干しあがり、目が鳥に喰われていた。

 あの姿になってもいいと思うほどだったのだ。それでいいと思ったのだ。

 終わりのないあの生活を続けるより。


 それでも、そなたが目の前に現れたから。


『そなたが来てくれなければ、吾は今でもあのままか、干しあがっていたのかのどちらかだ。そなたが来てくれてよかった』


 あのとき、ヨシュアに抱かれて見上げた青空。

 あんなに美しい空を、吾は見たことがなかった。


『選んだのは私自身だ。器になるのを。ここに来てから拒否することもできた。だが、選んだのは私だ』


 エイレネである私自身。

 ならば、これからの選択も私自身が選んだことである。


『……貴女は誇り高く、美しい』


 ヨシュアが泣き濡れた瞳で吾を見た。

 もう一人のアランは激しく泣き続けている。


『これは、私の選択である』


 奴隷になったのは私の意志ではない。

 小屋に連れていかれたのも私の意志ではなかった。


 奴隷での苦痛を終わらせようとしたのが私の意志であるなら、今にも崩れそうな神霊ネママイアを引き付けていく苦痛に終止符を打つのも私自身の意志。

 何ものにも侵されない、神霊にさえも侵されない、エイレネである私自身の意志。誇り。


『吾を抱きしめたまえ』


 吾の言葉にヨシュアはきつく吾を抱いた。

 ああ、愛しき子供たちよ。


『そなたとは痛み分けだ。気に病むな』


 ザヤの年からの愛しき子供の身体の異変は吾には見えていた。

 これは、ヨシュア自身の選択でもあったのだ。

 吾らは一蓮托生。

 それが我々の意志。


『さらば、愛しき子よ』


 ヨシュアに告げ、吾は愛しき子供たちから体を離れた。

 部屋を去りゆくヨシュアを確認し、吾は部屋の隅に行った。


 ミラルディが吾の身体を手入れした後、置き忘れていった香油瓶を取り出し、頭から全身へと中身を全て被る。

 ヨシュアが部屋へと置いていったランプを吾は掲げた。

 小さき炎が吾の衣に乗り移る。

 たちまち広がり、炎が吾の身体を包む。

 器となった身体は人であったときと異なり、痛みは少ない。

 炎の熱さが心地良い温度と感じるほどに。


 逃亡奴隷は日干しの他に、火山に放り込まれることもあった。

 結局、私はあの小屋から逃げられなかったのだろうか。

 吾は苦笑まじりに微笑む。

 いや、これは聖なる火だ。

 器を焼く火なのだから。


 聖なる火だと思おう。

 アマランスの火の神霊イオヴェズの炎のように。


 炎に包まれる身体をぶら下がる木のビーズとともにエイレネは抱きしめた。

 木の玉に次々と燃え移り、炎が上へと上っていく様を見て、夜空を仰いだエイレネはそれを星が昇るようだと思った。




挿絵(By みてみん)














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