寿命合わせ
父、ラィズリが死んだ。
父のコトトキ仲間からの便りでヨシュアがそれを知ったのは偶然にもロウレンティア神殿の大神官ザフティゴが身罷った日だった。
御歳八十三のザフティゴは大往生だったろう。一方、ラィズリは五十を超えたばかりであった。タチのわるい風邪をこじらせ、そのまま逝ってしまったのはあまりにも早すぎた気がして、ヨシュアは暫く実感がわかなかった。
毎年、年に一度、夏の暑さが終わりを告げ、朝晩が涼しくなるこの時期のサオ・ルアに、ヨシュアはオレア島のラィズリのもとを訪ねてはいた。今年もそろそろ、小休暇を申し出ようとしていた矢先だった。
そういえば、今年の神官登用試験受験者の中に父ラィズリの名前は無かった。自分は今年から試験官に就任したので、一次試験ぐらい通してやるつもりだったのだが、とうとう父は諦めたのだと思っていた。あれは父が病に臥せっていたためだったのだ。
――父は、私の側に居たかったのかもしれない。
今更ながら、父がこの歳になっても登用試験を受け続けていた理由にヨシュアは気付いた。
お互いに、ふってわいた父親と息子、の関係だった。母、アガニは死の直前に父の真相をこの自分に話したのだから。
母が選んだ男がどんな男か知りたくて、オレア島に赴いたとき、粗末な小屋から出てきたいかにも善良そうな冴えない男の姿にヨシュアは内心、苦笑したのだ。それと同時に、ああ、だから母はこの男を選んだのだ、という納得感も抱いた。
いい人、だった。
オレア島に滞在中は気合の入った食材で自身の手料理をもてなしてくれた。自分の神殿での話をそれはそれは嬉しそうに聞き、自分のことを誇らしく思う、と耳に胼胝が出来るほど繰り返した。
――もっと会いに行けばよかった。
ザフティゴ大神官の葬儀の間、父と過ごしたオレア島の穏やかな日々をヨシュアは思い出していた。
母方の肉親はとうに死に絶え、自分にとって父ラィズリは唯一の家族であったのに。
寝付けずにその晩、ヨシュアは自室からザフティゴ神官の祭壇の間まで赴いた。ザフティゴ自身の身体は神殿から少し離れた墓地へ既に埋葬されたが、これから暫く三日間、祭壇は灯りを灯し続ける。その前で、父の死を悼もうと思ったのだ。神殿の祭壇を借りて、ラィズリを偲べば、父は喜んでくれるのではないだろうか。
ランプを持ち、足を滑らさぬよう慎重に地下への階段を下りる。夜の冷えた空気と足元から伝わってくる石の冷たさにヨシュアは少し身を震わせた。焚かれている香の匂いが上ってくる。
祭壇の間を前にして、ヨシュアは足を止めた。
先客がいる。
炎の揺れる薄明かりで浮かび上がったのは、よく見覚えのある少女の後ろ姿だった。自らの背よりも高い、階段状に積まれた石の祭壇前で立ち尽くしている菫色の髪にヨシュアは声をかける。
「ミラルディ様」
振り返った彼女の顔を見て、ヨシュアは目を見開き、そして、見たくなかった、と後悔した。
二目と見られぬ顔だった。
普段の美しさや妖艶さは欠片も無く、涙と鼻水で顔中がベトベト、瞼は真っ赤に腫れ上がり、唇はひん曲がっている。
この方はこんなに不細工な顔も出来るのだと、静かなる感動もあった。
「どうしたのですか」
「ヨシュア」
ひっく、としゃくりあげながら、ミラルディの目から涙が零れ落ちる。
「ずっと泣いてらしたのですか」
「そうよ……貴方……が来てくれて……よかったわ。止まら……なかったの」
何度もミラルディは目を擦ったが、後から後から涙は零れ落ちる。
「ザフティ……ザフは……私の……初めての男だったの」
その途端、うー、と声を漏らしてミラルディは唇を噛んだ。
「それに……私と、同じ歳の男だ……たんだもの。泣きたく……もなるわよ」
ヨシュアはわかりやすく突きつけられた彼女との年齢差に改めて驚いた。
あの萎びたザフティゴ大神官と彼女は、同じ歳だったのか。
「あんたみたいに……十九の時、あいつ、森で里の娘とイチャついていたの……ザフはあんたより……ちょっと劣るけど、背も高かったし……いい男だったのよ。私と同じ歳の男よ。興味……が湧くのはしょうがないでしょう?」
もうすぐ死ぬ老人だとの印象が強く、ヨシュア自身はザフティゴのことを意識を持って接したことはなかった。思い返してみれば、大御所の中では融通の効きそうなまだ付き合いやすい老人だったかもしれない。深く話してみれば、同じ穴のムジナということで自分とは気が合ったのかも。
「そうだったのですか」
「久しぶりに……泣いたわ。だからかも……しれない。全然……涙が止まらないの」
まだこんこんと湧き出る涙を手で拭うことを諦めたのかそのままにし、ミラルディは鼻水を光らせた面をヨシュアの真正面に向けた。
すごく不細工、だな。
素直にそう思い、自然とヨシュアは笑いがこみ上げてきた。
同時に少女に対する情もこみ上げ、小動物を愛でるような微笑みが彼の顔に浮かぶ。
「……私が死んだ時も、泣いてくれますか」
「はあ? 何言ってんのよ」
ミラルディは途端に素に戻って答えた。
「私の方が多分先に死ぬと思うわ。あんた、ワノトギなんだし。それに私、きっと眷属の中では早死にするわ。不規則な生活送ってきたもの。眷属が長生きするのって、規則正しい生活を送っているせいもあると思うのよね。私、他の奴らと比べたらアレでかなり身体酷使してるもの。今までの睡眠時間なんか、他の奴らの半分も無いわよ。きっと私、コロリと死ぬと思うわ。あと……なによ、その顔」
ミラルディは自分を見つめているヨシュアの表情にポカンと呆気にとられたような顔をした。
「いえ……貴女が……私より先に居なくなる生活が想像出来なくて」
「……貴方、ヨシュアよね?」
疑うようにミラルディは眉を顰めてヨシュアを見上げる。ヨシュアは小さく頷いた。
「ふうん。……まあ、いいわ」
言って、ミラルディは床に置いてあった花束を祭壇に飾り始めた。祭壇には贅を凝らしたアマランス産の金色に輝く聖杯や錫杖、銅鏡と共に、既に大ぶりの白い花弁の花が飾られていたが、ミラルディのは淡い紫の可憐な小花だった。よく生えているありふれた種類だ。
ほんのりと頬を染めながら、ミラルディは語り出した。
「……この花を紫の神殿の階段の上に置くのが私とザフの合図だったの。今晩ヤリましょう、てこと。……今、思うとロマンチックだわ。素敵よね。あの時はまだ情緒があったんだわ。今なんて、あたしムードとかどうでもよくなっちゃったもの」
「……」
「ああいう、キスしただけで頭がパーッて舞い上がっちゃったり、目が合うだけでドキドキしたり、服を脱ぐ前に躊躇ったりだとか、うん、そんなのはザフの時、一回きりだったわ。初めての特権よね。……すごく良かった」
「……」
「だからなんなのよ、その顔。あんた、ヨシュアでしょ」
「……」
父の「死」に、自分は思った以上に参ってるらしい、とヨシュアは思う。
もう死んでしまった男に抱きかけたくだらない感情をヨシュアは打ち消した。
「さようなら、ザフティ。若いコが次々入ってくるもんだから、目移りして、貴方からはいつの間にか足が遠のいちゃったけど。……貴方、やっぱり私にとって特別な人だったわ。おじいちゃんになってもいい男だったわよ」
ミラルディはそう告げ、まるでザフティゴを抱きしめているように祭壇に身体を預けると、目を閉じ、紫の石肌にそっと口づけた。
そのまま暫く想いを馳せて口づけたままでいるつもりだったのに。
あっさりと軽々、宙へと抱きあげられたミラルディはヨシュアの腕の中で抗議の声をあげた。
「ちょっと、なにすんのよ、まだ、お別れの最中よ」
「もう夜も遅いです。早く寝ましょう」
「はあ?」
「今日から早速、貴女には早寝早起きを心がけて長生きしてもらわないと」
見下ろすヨシュアの顔が大真面目だったので、ミラルディはすぐには言葉が出てこなかった。
「……なによ、それ」
「私はできるだけ身体を酷使して早死に出来るように努めますので」
「……」
目を見張ってから数秒後、ミラルディはにんまりと口の端をあげて、ヨシュアの首に腕を絡ませた。
「どうしたのよ、貴方。今日は酒でも飲んできたの? 」
「そうかもしれません」
「今夜くらいは私を慰めてくれたっていいんじゃない?」
「どうかな……反対に今夜は私が貴方に慰めて欲しいのかも」
ヨシュアは控えめに笑った。
「父が死んだんです」
ミラルディは笑みを消して、ヨシュアの顔を見つめた。
「それは……気の毒だったわね」
ヨシュアの首につかまるようにして、ミラルディは彼の肩に顎を乗せた。
「わかったわよ、アランに相手してもらったら、そのあと、あんたとは添い寝ぐらいしてあげるわよ」
「ありがとうございます」
「それに見合う対価を返しなさいよね」
「アランが返しますよ」
子供を抱き抱えた大人のシルエットは祭壇の間から移動した。
「明日から、しばらく留守にします。オレア島に行って父の遺品を整理してから、父の妹のところに会いに行きたいと思います。残された唯一の肉親なので」
「……早く帰ってきて」
「できるだけ」
少女と青年の影はゆっくりと階段を上っていく。
「そういえば、聞いたわよ。今年から貴方が新人登用試験の試験官なんですって?……なんなのよ、今回の新人は! びっくりしたわよ、酷すぎるでしょ?! もっと、人間の顔をしたコを入れなさいってのよ!」
「神官に容姿の美醜は関係ありませんよ。基準は能力ですから」
「貴方、これから先、可愛いコを入れないつもりね……!」
「当たり前じゃないですか。貴女が喰うのを分かっていて、アランがそれを許すわけがないでしょう」
「なんて奴……!」
「どうとでも」
紫神殿の夜は更け、外の森は満月のさらさらとした光に満ちていた。
時代は大きな転換期を迎えようとしていた。
世界は悲喜こもごもに満ち、これから幾度もの混沌の時代を繰り返すのは間違いなかった。
それでも月は、何時でもそこに在り、これからも世の恋人たちを照らし続けるだろう。




