ツングースの教えを心に刻みましょう
叫んで最後のタップを完了した時、地面がゆるゆると浮き上がっているのに気づいた……見渡す限りの範囲に円形に、自らを乗せたまま。
地平線が、雲に触れる、草がざわめく、縁に生えていたらしい木々がめきめきと倒れては折れる音が風にのって耳に届く。
羽生は、大の字になって地面に仰向けに寝転んだ。
空を見つめる。空気の流れが激し過ぎて息がつけない。
雲は霧状になって冷たく彼を覆い、青かった空は次第に青みを深めていく。
星がまたたくのが、ちらりと目に入った。
それから、覚えがなかった。
気がつけば、羽生はもとの場所に戻っていた。
もとの日本、もとの家、そして、通うのはもとの会社。
地球は、いや、人類は羽生のおかげで九死に一生を得た、らしい。
らしい、というのは、日本国政府も他の国のどの政府も、異星人の侵略未遂については、後あとから何だかんだと理由をつけて、羽生にも正式に感謝の意を伝えていなかったせいだ。
異星人らはそれぞれ地球上の生命体を取り込んだ量に比例した大きさに成長し、地面の一部が円くはがれて舞い上がっていったという感じで次々と地球を旅立って行った。
羽生の対峙した『シホテアリニ』は中程度の大きさ――半径15キロkm程の円盤状だった。
大きなものは半径60キロにも及んだらしい。もちろん、それらの地表と周辺にたまたま居合わせたヒトも、他の生物たちと同じく、旅立ちと共に起こった地盤変化に巻き込まれ、命を失った。
しかし結局全地球上で「わずか八千万人が関連死をしたに留まった」。
異星人が去った後、重い足どりで、わずかずつではあったが、人類は自らの立ち位置を取り戻し……
異星人撤退の二ヶ月後、最初の大規模テロにより、バグダッドで五百人が死亡した。
その後、地上の人類はようやく、いつもの『自分らしさ』を取り戻した。
羽生の暮らしも、ある意味平穏さを取り戻してはいた。
しかし、家にはもう、妻も娘もいない。なまんだぶを言う間もなく、ふたりの存在は消え失せていた。
ただ、彼の元に残されたのは。
「せんぱーい! 先輩、起きてくださいよー」
今朝もスマホのタイマーが能天気に呼びかける。
「朝っスよー、今日は朝から会議ですよー、クンダラネー会議ですってば、起きてください! でも給料日ですよー、オレのために『超熟♪女子大生パラダイス♡』ポチってくれるって約束ですよー! 早く起きてくださいハニュウ先輩!」
「オレは……」寝ぼけ半分で、羽生はゆっくりと起き上がる。
「俺はハブだぁ!」
凡庸の殻をかぶった男は、スマホにそう告げてから起き上がって大きくのびをする。
「小村、冷蔵庫の中に何が残ってる? 朝はパンがいいんだがな」
「だったら卵とベーコン、レタスも少し残ってるっスよ」
「わかった、ありがとう」
「……んな……」スマホの声はなぜか照れている。
「いいっスよ、先輩のお役に立てれば……ホントだったら国民栄誉賞なんスよ、先輩。いや、全世界規模だからアメリカ航空宇宙局じゃなくて先輩がノーベル平和賞もらうべきだったと思うっス。あっ、それよか今日、約束してたアプリ買ってくださいね!」
「わかったわかった」
軽い返事をしながらも、羽生の目に浮かぶのは明らかな意思。
命はひとりひとつ。命は粗末にしない。だから……
妻と娘を、取り戻すために戦う。
そう決めてから羽生伸二は、深く静かに日々を送り続けている。
何の変哲もないこの凡庸な世界で。
了