パニックに陥らないよう気をつけましょう
わだちも姿を消して数時間たった頃、ようやく車は停止した。
「……地味だ」
羽生は思わずそうつぶやく。
ゆるゆると拡がる大地に見えるものは、どこまでも続く木々と背丈より高い雑草の生い茂る土地ばかり。
北海道最北端と緯度はたいして変わらないはずなのだが、夏の日ざしはじりじりと暑い。
「ケータイはまだ使えるみたいっスね、すげえっス」
羽生の背後で、小村はしきりに感心しながらスマホを使っている。
文明の利器は使えるからありがたい、ばかりではない。小村は興奮したまま、
「すげえっス……残りの挑戦者、すでに三名のみ、って……うち一人が、先輩っスよ……SHINJI HANYUU、ぷふ、また間違えられてますね」
ロシア人兵士の一人が何か言ってざっと腕で前方を示した。通訳が
「現場より二キロの地点に着きました。すでに接触可能期間に入っています」
と流ちょうな日本語でそう伝える。
兵士六名と通訳、現地ガイドが羽生と小村の方をじっと見つめている。
見つめている、というより、実験動物を観察する科学者のような、輝きのないべったりとした視線だった。
羽生は彼らを一通り見渡し、脇にテンション高めから振り切れてやや虚脱状態に陥りかけていた小村に目をくれた。
「行こう」
軽くあごで小村を招き、羽生は薮の中へと分け入って行った。
こんもりとした木立の影に入ると、空気が急に涼しくなった。
蚊が物凄い数なのが気になると言えば気になるが、まくりあげていた長袖を手首までぴったりと戻し、縁からぐるりと網のついた帽子をかぶると、あたりはやや耐えやすくなった。
名前も知らない、尾の長い小鳥がすぐ目の前を横切って飛び去った。軽い風が抜ける。木の葉がざわめき、急にか細いヒグラシにも似た甲高い蝉の声が湧き上がり、静寂を破る。羽生はふと立ち止まり、大きく息を吸った。
久しぶりに感じる、森の空気だ。自分が何をしに来たのか一瞬忘れてしまうほどだった。
しかし、「あがぁっ!」小村の絶叫が心臓を突き刺した。羽生はあわててふり返る。
背後、少し離れて歩いていたはずの小村の姿がない。
「小村、小村!」
前方にも注意を払いながら、数メートル引きかえす。
先ほど通り抜けたけもの道の片隅、くぼみになった中、枯れ枝の上に小村の背負っていたリュックが投げ出されていた。
おびえた目であたりを見回す、何度も目が滑り、息が荒くなる。動悸は、くぼみの向こうに立ち並ぶ木々に目がいって、よけいに激しくなった。
ぞんざいなクリスマス・ツリーのごとく、小村の履いていたトレッキングシューズ、シャツ、ジーパン、靴下から下着に至るまで全てが木の枝に引っかかっていた。
縁起ものなんスよ、と言って履いていた赤いトランクスがかつてのこの国のシンボルであるかのように木のてっぺんに翻っている。それが目に入ったとたん、羽生は強烈な吐き気に襲われた。
赤いのは血ではない、パンツの色だ、全然血は出ていない、小村は大丈夫だ……だいじょうぶ……ただ脱げただけだ、全部。
そう自らに言い聞かせ、膝に手を添えて地面を見つめ、吐き気と闘う。
なぜ奇麗に脱げてしまったのか、考えないように、考えないようにしてもつい、小村に見せられたいくつもの動画を思い出してしまう。あまり真剣に見ないようにしていたにも関わらず、つまらない部分だけはしっかりと記憶に残っている。
考えるな、考えるな。血とか肉とか骨とか焦げとか悲鳴とか……
突然、羽生のスマートホンから着信音が軽やかに鳴り響いた。
羽生はひっ、と息をのんでスマホを放りだした。
目の前の地面に落ちた画面には、なぜかよく見知った顔が、ふわふわと何かのシューティングゲームの的のように浮かんでいた。
羽生はこわごわ、スマホを拾い上げる。
「あ、せんぱーい、もしもーし、きこえますかー」
小村の呑気そうな声にようやくことばが出た。
「何なんだ……これ」
「すんません、オレ、宇宙人にやられちまったっス」