不可解なメールは無視しましょう
「ハニュウさん。ハニュウさーん」
また、間違えられている。羽生はため息とともに立ちあがり、病院の窓口に向った。
そんな日常だった。
最初の頃はムキになって「ハブです」と言い直していたが、たいていの人は軽く謝ってから、ハニュウユヅルが有名過ぎて……という。それならばハブヨシハルだってじゅうぶん有名ではないか、と突っ込みたくなるのをぐっとこらえ、羽生はあいまいな笑みを浮かべてやり過ごす。そんなくり返しを経て、よほどのことがなければ無反応を貫くようになった。
たいてい、相手は彼のことを覚えていないだろうから。
それだけ、彼は凡庸な男だった。
特に男前というわけではなく、かと言って不細工でもない。
まず、顔つきからして特徴がなく、ごく平穏そうに見えた。
生い立ちから妻と三歳になる娘との暮らしぶりまで、どこからどこまで取っても、羽生は平凡な人生を送っていた。
しかし羽生の凡庸なる人生はある日一変した。
後輩とふたりきりで残業をしていた時、羽生のデスクにあるノートPCに突如メールが入ってきたのだった。
それにはこうあった。
「地球上のあらゆる人種に向けて無作為抽出の三百万の宛先にこのメールを配信しています。こちらは地球外生命体アウ。私は今地球上にいて、あなたとの闘いを希望する。あなたが勝てば、私は母星に帰り地球は守られる。私が勝てば、私はあなたを食べて、あなたがた挑戦者がすべて食べられ終えた時、それから地球は滅ぼされるであろう。ご希望の方はこのメールに返信お願いします。折り返しもよりの接触場所座標と接触可能期間とを連絡します」
なんだこれ?
声を出したのは後輩の小村だった。
コピー機の紙詰まりがうまく取れないんですよーと泣きついてきたので羽生が代わりに見てやっていた。その間、小村はけだるそうに羽生のデスクに座っていたのだった。
俺のデスクのものを勝手にいじるなよ、と言ってやったにも関わらず、小村はちょこまかとペンを出してみたりノートPCを開けたりしている。
常識で考えれば、後輩が先輩に代わりに雑用をやってもらう間、他の業務を続けるか次回は自分でできるよう傍で見ているだろうに、小村にはそういった気働きは皆無だった。しかもサビ残という。
仕事の遅い小村を見かねての手助けだが、してやるだけ無駄な気がひしひしと押し寄せてきた、矢先だった。
デスクにメールを読みに戻っただけ、羽生は体力を消耗した。肩を落とし、またコピー機に戻る。
時はすでに翌日になだれ込もうとしていた。この紙詰まりを取ってしまわねば、明日の会議資料は仕上がらない、もっと悪いことに、明日からの業務全般にさし障ることになる。
「先輩、これ、どーすんスか」
「ほっとけ」
「海外からですかねー。消しときます?」
「何度も言ってるけど、オレのノート、勝手に触るなよ」
あ、と間の抜けた声に羽生はかがみこんだまま顔だけ上げた。
小村のぽかんとした表情が、一列だけ残した天井の照明に浮かび上がっている。
「すんません……そのまま返信押しちゃいました」