弐 人生そんなに甘くはありませんでしたーー①
記憶を取り戻して早三年――私は十三才になっていた。思い出した鈴音の記憶は混乱することもなく上手く融合し、毎日楽しく過ごしている。
それもこの世界が鈴音の知っている世界観に近かった、という幸運があってこそだ。
もしここが、食事に新鮮な獣の内臓を啜るような世界だったり、自分たちの外見が鈴音が大嫌いだった昆虫なんて世界だったら、記憶を取り戻したことは障害にしかならなかっただろう。そう考えると、本当にここで良かったと感謝した。
世界観の大きな違いはただ一つ。こちらでは、当然のように皆が『龍を信仰している』というだけだ。
といっても上空を見れば、飛行機のように龍が飛んでいるわけではない。本当にこの目で龍の姿を見たと言う人は、私の周りには一人もいない。
だが別にそれは珍しいことではないだろう。鈴音の世界でも神様を見た人はほとんどいなくても、神社や教会はたくさんあった。そんな神社や教会や地蔵に代わり、ここでは龍神の祠があるというだけだ。
しかし鈴音の世界と同様、過去には存在したという言い伝えは残っている。
この国を建国した初代皇帝は、龍と契約し〈守護龍〉となってもらった……らしい。
〈守護龍〉とは、その名の通り国を守ってくれる龍だ。竜巻、洪水、地震、飢饉に疫病といったあらゆる厄災から龍の持つ呪力で護ってくれる。
確かにこの国はそういった天災がここ数百年起こっておらず、諸外国よりもずっと栄えている。それに遠い遠い昔――まだ他国との戦があった建国当初には、その〈守護龍〉も初代皇帝と共に出向いて大暴れしたという、眉唾な文献も残っている。なんでも尾の一振りで、敵の軍を数千単位でふっ飛ばしたとか……本当ならまさに歩く兵器である。
そんな数々の言い伝えの残るこの国、名を天藍という。
龍と契約したという皇帝の末裔が統治している階級社会。とはいえ重税や強制労働などといった庶民が虐げられるような法はない。最近は少し治安が悪いものの、それでも諸外国に比べたらマシな方だろう。
服装は洋装よりも和装に近く、袖や裾を更にピラピラさせた感じのものを着ている。国民の外見は、平和なため他国からの移民者が多かったのだろう、様々な色を持つ者たちで溢れている。
文化は発展しているとはいえ、鈴音の暮らしていた世界には遠く及ばす、電気はまだない。もちろん自動車や電車などもなく、移動はもっぱら馬や牛だし、何かを動かすときは人力だ。
それに龍を信仰しているが、魔王などのファンタジー要素はありがたいことにない。おかげでこうやって呑気に過ごせるわけだ。ありがたい、ありがたい。
そんな安穏と暮らしている私の一日はこうだ。
朝五時ころに起床。母と一緒に炊事場に立つ。その後、家族そろって食事。父が仕事に行く八時頃、私も家を出る。行先は私塾だ。いわゆる学校みたいなところで、その生徒の多くが商いを営んでいる家の子供たち。その中には例の幼馴染――暁明もいる。
暁明の家は、服飾店〈玉葉楼〉を経営している。その名の通り三階建て店は、この町で一番の大店だ。
ちなみに私の父も茶屋〈月季庵〉を営んでいる。高祖父が裸一貫、屋台から始めた店で、屋号の由来は最愛の妻――高祖母を『君はまるで月季のようだ』とプロポーズしたため……らしい。ちなみに月季というのは、四季咲きする薔薇の一種だ。つまり先祖さまは、『君は、いつ見ても美しいね』って口説いたんだね。なかなかやるな、ウチの先祖さま。
その店は曾祖父が継ぎ、屋台を店に発展させた。そして祖父が中規模の店に成長させ、父が継いだのだ。たまに店を覗きに行くとそれなりに繁盛しているようで、潰れる心配はないだろう。
一人娘である私は、将来は父のあとを継いで〈月季庵〉の女将になるのかな? なんて思っている。そしてそれを意識してからは、店の経営にも興味を持つようになった。
だが店を手伝いたいと言う私に、父はまだ早いと店に立つのを許してくれなかった。確かに私の肉体年齢は子供だが、精神年齢はアラサーといってもいいだろう。十分手伝えるはずだ!
そこで私は鈴音の記憶を利用して、なんとか店にかかわれないだろうかと考えた。
まず天藍では、甘いものが未発達で、種類が少ない。そのことに対し、私は常々不満を感じていた。
「ケーキ食べたい……クッキー食べたい……日本のお菓子が食べたい……」
ときたま強く襲う欲求。あの柔らかさ、甘さ、滑らかさ……もちろん今の私は口にしたことはないが、なまじ記憶があるだけに厄介だ。
思いつく限りのスイーツたちをノートに描き、眺め涎を垂らして気が付いた。
きっとこの世界にはないものや、この時代にはまだもたらされていないもの。そんなお菓子を少しだけズルして、店に置いたらどうなるだろう、と。バカ売れするんじゃないだろうか。そうなれば、私も店への発言権も増し、両親も働くことを了承するのでは?
とはいえここからが大変だった。
お菓子を作ろうにも、現物やレシピを知っているのは、前世の記憶がある私だけ。当然作るのも私……
製菓の手順は何となく覚えていても、材料のグラム数まで記憶していないため、幾度もの失敗を繰り返す。お菓子作りは分量が大事とは良く言ったもので、膨らまなかったり、固かったり、べちゃべちゃだったり……
とはいえ売り物にする以上、不味いものを出すわけにはいかない。
その一心で、何度も微調整を繰り返しながら思いつく限りのお菓子を作ること一年半。まだまだ職人には遠く及ばないが、両親と暁明には好評だったから大丈夫だろう。
そんな苦労もあって、ついに昨年から〈月季庵〉に色々なお菓子を卸している。
「お父さん、〈甜琳〉売れてる?」
和菓子やら洋菓子やらジャンクフードまで全てひっくるめて、私が作った物は〈甜琳〉と呼んでいる。深い意味はなく、『一琳が作った甘い物』を省略しただけだ。いちいちそれらしい名前を付けることを面倒がったわけでは決してない。
「ああ。とても好評だよ。この前だした期間限定品なんて、毎日午前中に売れ切れだ。最近はそれ目当てで通うお客さんもずいぶん増えたよ」
その返事を聞くと、ニヤケ笑いが止まらない。〈甜琳〉の価格設定は、通常の菓子よりも少し高めにしてある。専売品だからそういったことも許されるのだ。
だがどうしても不思議だった。
――なんか、その割には家……貧乏なんだよね?
そんな疑問を抱いていたある日、食卓にお芋ばかりが並び、私はついに母に遠回しに聞いてみた。
「お母さん、私お芋以外も食べたいなあなんて……」
「あら、お芋好きよね?」
「好きだけど、なんかこれはちょっと……やりすぎ?」
卓に並んだ料理は、芋の煮っ転がしに、揚げ芋、芋ごはん、芋のスープ……
お店は父に任せ、専業主婦の母。と言っても家電のないここでは、毎日の家事も一苦労で、一日中忙しそうに働いている。その料理の腕は絶品で、もちろんここに並ぶ芋料理の数々も店に出せるほど美味しいのだが……他の物も食べたい。
「それがね、今月ちょっと苦しくて。お父さんのお人好しには困ったものねえ」
母が笑いながら告げた言葉に、私は首を傾げた。
「え? でも今日もお店覗いたら、店大賑わいだったよ?」
「お客さんはね……いつもたくさん来てくださるのよ」
その意味深な言葉に、私の血が騒ぐ。なにしろ私の前世――鈴音は、経理担当のOLだったのだから!
「お母さん! 店の帳簿を見せてちょうだい!」
「帳簿ねえ……あまり意味ないと思うんだけど」
私はすぐに、その困ったように微笑む母の言葉の意味がわかった。
手渡された帳簿は高祖父から使っているもので、代々の店主の性格が現れているようだった。高祖父は豪快なドンブリ勘定。曾祖父は几帳面。祖父は神経質。そして父は……いや、父の性格上あまり期待していなかったが……見事なまでの白紙だった。ガックリと私は膝をついた。
その日から、私が店の売り上げを記帳するようになったのだが、そこでまた一つ問題が。何度計算しなおしても、合わないのだ。
仕事を終えて家へと戻ってきた父を捕まえて、私は尋ねた。
「ねえ、お父さん。何か私に隠してることない?」
明らかにお父さんの目が泳ぎだした。
「いや、何もないよ」
「嘘でしょ! だって毎日毎日こんなに合わないなんておかしいもの」
「あー……たまに、可哀想なお客さんに、ただでご馳走してあげてるからかな」
「可哀想なお客さん?」
浮浪者や物乞いにでも与えているのだろうか? 慈善活動は悪い事ではない。むしろ褒められることだ。
だがものには限度がある。その結果、私たちの暮らしが芋ばかりって……せめてお米を買うお金くらいは残してください!
「ほら、この町にくる途中の山で追剥にあった人とか、財布をすられた人とかだよ」
「でもそんな人なら、たまにでしょ? 毎回帳簿があわないっておかしい――」
「いいや、そんなことはない! 毎日追剥にあったって可哀想なお客さんがたくさん来るんだ。最近はこの町に来る旅の人も増えたんだねえ」
父は至って真面目に話しているが、私はその言葉に開いた口が塞がらなかった。
「え……毎日? 嘘でしょ?」
「いいや、本当だよ」
母の言っていた、父の人が良すぎるとはこういった点なのだ。どう考えても嘘っぽい話でも、父はすぐに同情して信じてしまう。
純真な父にこれ以上何も言えず、私はこの日は、これで話を打ち切った。……とはいえ、おそらく嘘を吐いているであろう、ごろつきに鉄槌を下すのを諦めたわけではない!!
そしてこの日を境に、これまで自宅でお菓子を作っては父に渡していた私だが、直に店へ納品することにした。納品と称して店に行き、ついでに忙しい父の手伝いをするのだ。
売り上げに貢献するだけで満足していた過去の自分を殴りたい。やはり店に出なければだめだったのだ!
固く正義の鉄槌を下すことを胸に誓う。
だがその日は、私の想像よりもずっと早く訪れた。驚くことに、店の手伝いを初めた翌日のことだった。
◇◇◇
「親父……すまねえ、実は……ここに来る途中、山賊にやられちまったんだ……」
そう言った男性客は、袖口で顔を隠して豪快に男泣きをしてみせた。が、父のように男の真正面でなく、男の斜め後ろに立っていた私には見えた。その無精ひげの生えた口元が、ニヤリと笑うのをな!! この大嘘つきめ!
「そうかい、気の毒にねえ……ならお代は結構――」
案の定お人好しの父は完全にこのお客……いや、詐欺男の言葉を信じ、同情してみせた。私は慌てて父が話終えないうちに、詐欺男の前に出る。
「お客さーん、財布、ないの?」
可愛らしく、コテンと首を傾げるのを忘れない。まずは相手の口をゆるくしないと。それにはこの年齢と容姿は非常に有効だ。
期待通りに詐欺男は、鼻の舌を伸ばしながら聞いてもいないことを話しだてくれる。
「え……あ、ああ。全財産が入っていたっていうのに……酷い話だろ? でもこの通り身体はぴんぴんしてるからな。さすがの山賊どもも、俺には傷一つつけられなかったのさ」
……傷一つ負わないほど強いのなら、財布守れるだろ? それとも逃げ足の速さを自慢しているのか? それなら激しく格好悪い自慢話だ。なんて本音を笑顔で隠して話を続ける。
「大変でしたね! こわーい!! そこには近づかないようにしなくちゃ! 場所はどこだったんですか?」
「え……その、ほれ、あそこだよ、あそこ。懐山峠だ! 嬢ちゃんみたいな可愛い子は、さらわれちまうから絶対に近づかないこったな!」
――懐山峠。その名の通り、非常に道の悪い場所である。確かに山賊が根城にしていると聞くし、これまでに襲われた者も多い。
そこを越えてきたと言う割には、汚れていない靴に服。着古した感はあるが、峠越えをしたならついているだろう泥汚れがないなんてありえない。この店に来る前に、宿でその汚れを落としてきたと言うのなら納得できるが、財布を盗まれたと言っている以上、その言い訳は使えない。
間違いなくこの話は嘘。呆れた私は侮蔑を滲ませ詐欺男を睨みつけた。
「ところでお客さん、お金ないのわかってて飲み食いしたんだ。払える物、持ってないのに?」
「へ、あ、ああ……そう、なるな……」
先程とはうって変わった私の態度に、詐欺男は困惑した様子を見せる。
「じゃあ、無銭飲食だね。警吏呼んでくるからちょっとここで待っててくれる?」
私の言葉に唖然とした様子の詐欺男を残し、店を出ようとした。が、念の為に出入口付近の卓に腰掛けていた二人組のお客さんに声を掛けることにした。青い髪と赤い髪の二人連れで、なんとも派手な色彩だ。
「すみません。申し訳ないんですが、あのお客さんが逃げないか見張っててくれませんか? もちろんただとは言いません! お代はサービスしますんで!」
詐欺男に食わせてやるタダ飯はないが、捕まえるためなら話は別だ。いくらでも振る舞ってやる。
警吏を呼びに行った隙に、正気を取り戻した詐欺男に逃げられてはたまらない。未だ同情的な眼差しを詐欺男に向けている父には、警吏に突き出すために追いかけ捕まえるなんて無理な話だ。
そう思ってたまたま出入口近くの卓に座っていたお客さんに声を掛けたものの、幸い運動神経の良さそうな若い男性たちだ。身なりもきちんとしているし、あの詐欺男の知り合いとも思えない。これなら逃げられないだろう。
だがこちらを向いている座っている青い髪のお兄さんは、頷くどころか私の方を見向きもしない。
店の多くのお客さんたちが、好奇心丸出しで私と詐欺男のやり取りを見ている中で、全くわれ関せずといった態度である。
もしかして、聞こえていなかったのだろうか? そう思ったが、もう一人の赤い髪のお兄さんは、わざわざこちらを振り返って笑顔で頷いてくれた。
「あ、ああ。ごめんね、この人のことは気にしないで。僕が引き受けたから」
「ありがとうございます。では――」
「ちょっ、ちょっと待って! お嬢ちゃん! あった! あったよ! ほら、ここにへそくり隠してたの、忘れてたよ!」
そのまま店の外に出ようとした私を、焦った様子で引きとめたのは詐欺男だった。強張った笑顔で硬貨が入っていると思しき袋を、懐から取り出しじゃらじゃらと振って見せた。
その重さなら、持っているのに気が付かないなんてことはなさそうだが……まあ今回の目的は『無銭飲食者には、しかるべき措置をとる』という姿勢を詐欺男を含め、他にもいるだろう奴らに見せること。そのためこの詐欺男がお金を払うと言うのなら、警吏に突き出そうとは思わない。
同情や相手の改心を期待しているわけではなく、警吏に突き出したことで相手からのいらぬ恨みを買いたくないからだ。逆恨みされて、店に火でもつけられたらたまったもんじゃない。
そんな本音は隠し、にっこりと笑って見せる。
「あ、良かったですねー。全財産盗られたって言ってたから、つい私勘違いしちゃいましたよ。無銭飲食だ、警吏に引き渡すなんて言っちゃってごめんなさーい」
「いやいや、……これお代、置いとくよ。ごちそうさん」
詐欺男は適当な相槌を残して、そのまま逃げるように急いで店から出て行った。
私は周りのお客さんたちにお騒がせしましたと謝りながら、詐欺男が座っていた卓に目を向ける。置かれた代金を見ると少し多い。が、迷惑料だと思えばいい。私は何食わぬ顔でそれを懐へしまい、飲み食いされた皿を片付け始めた。
すると店のあちらこちらから、小さな声が聞こえてきた。
「……そろそろ、やばいんじゃねえか?」
「ああ、今まで散々食わして貰ったが、しおどきだな」
「それにしても……可愛い顔して、おっかねえ嬢ちゃんだな。躊躇なく突き出そうとしやがったぜ」
これらを聞く限り、私の想像は間違ってなかったということだろう。この店は『カモ』にされていた。
父親を尊敬しているが、人が良すぎるのも問題だ。
そんなことを考えていると、ポンと肩を叩かれた。振り返えると、さっき私の頼みを引き受けてくれた、赤い髪のお兄さんの姿があった。
「ああ! 先程はありがとうございました。私は店主の娘で李 一琳ともうします」
改めてお礼を言うと、赤い髪のお兄さんはにこやかにほほ笑みながら胸の前で拱手して見せた。
「朱 字皓だ。いや……手伝うと言ったものの、結局は何も手伝わぬまま終わってしまってすまない」
結果だけをみたら確かにそうだが、この人が協力してくれなかったら詐欺男は逃げていたかもしれない。女で子供の私を振り切って逃げるのは簡単だろう。
だが店を出るには必ずこの字皓さんの卓の横を通らなければならない。こうして見ると、字皓さんは詐欺男よりも若く逞しい成人男性だ。一目見ただけで、簡単に逃げ出せそうにないことがわかる。そんな抑止力になってくれただけでとてもありがたかった。
それに……先程は卓の影になっていて見えなかったが、字皓さんは帯剣していた。
「とんでもない。巻き込むような形になってしまい、申し訳ありませんでした。もちろん今日のお代はお連れさまの分も一緒にサービスさせてもらいますね。それとお礼といってはなんですが、これもよろしければどうぞ」
そういって私は店に持ってきたばかりの〈甜琳〉を手渡した。
「わあ、嬉しいな。ありがとう」
手のひらに乗せられた〈甜琳〉を見て、喜んでくれる字皓さんの姿にほっこりする。するとそれまで字皓さんの横に並んでいながらも、全く興味なさそうにそっぽを向いていた青い髪のお兄さんが、じっと字皓さんの手の上の〈甜琳〉を眺め、初めて口を開いた。
「これは初めて見るな。新作か?」
「は、はあ」
その通り、新作だ。
私は青い髪のお兄さんに頷いて見せつつも、よく気付いたなと感心する気持ちと、喋れるならさっき無視するなよ! という恨みがましい気持ちが同時に湧く。
「これもなかなか美味そうだ」
そう言って青い髪のお兄さんは、〈甜琳〉を当然のようにひょいと盗ってしまう。
これはあくまで助けてくれた字皓さんへのお礼なのだが……まあ友人なんだろうし、仕方ないか。
私は諦めてもう一つ〈甜琳〉を取り出すと、朱字皓さんの手のひらに乗せる。
「今度は盗られないように――」
言っている傍から、また青い髪のお兄さんがひょいと盗って行くではないか!
「こんにゃろう……」
相手はお客さんだということも忘れそうになり、思わず呟く。
せめてもの救いは、盗られた字皓さんが特に気にしている様子がないことだ。この二人の間ではこれが普通なのかもしれない……そうだ、きっと字皓さんは甘いのが苦手なのだ。なんとかそう思い込むことで平常心を保とうと試みる。
とはいえ、きっと私の顔は今般若のようになっているだろう。
そんな私を見て、字皓さんが困ったように笑ってみせた。
「ありがとう、僕は大丈夫だから……ここの〈甜琳〉は、僕も彼も大好きでね、新作嬉しいよ」
って字皓さん、甘いの苦手じゃないし!
ならば今度こそ――とさらにもう一つ渡そうとする私を字皓さんは手で押しとどめる。
「もういいよ。何もしてないんだからね。二つでも十分すぎるよ、ありがとう。僕たちの他にも〈甜琳〉の新作を心待ちにしていて、買って帰りたいお客さんも多いだろうしね。タダでたくさん貰っては申し訳ないよ。それにきっと何度くれても、同じ結果になると思うよ」
そっと小さな声で付け加えられた言葉に、私は苦笑いを浮かべる。
「あの人はね……好き嫌いが多い、というよりも嫌いなものが多くて、気に入るものなんてほとんどないんだ。でもこの〈甜琳〉だけはことのほか気に入っていてね」
「そうなんですか?」
「僕が一度、彼に手土産に〈甜琳〉を持っていたことがあるんだ。彼はどんなに高級でも、手に入り難いものでも気に入らないと口も付けないどころか、紐を解くことさえせずに放置してしまう。その彼が全部食べた上に、根掘り葉掘りこの店のことを聞いてきてね……それからは、こうして通いづめだ」
普段店に出ていなかった私は知らないが、この物言いからして、きっと常連さんなのだろう。かえって父に聞いてみよう。目立つ髪色だし、きっと覚えているだろう。
「ありがとうございます。そんなに褒めていただけると少し照れますが……でもこれからもがんばって作ろうと気力が湧いてきます!」
「ああ、楽しみにしてるよ」
字皓さんとにこやかに会話を交わしていると、〈甜琳〉を盗ったあとはまた興味なさそうにしていた青い髪のお兄さんが初めてこちらを見た気がした。が、無視して字皓さんと話を続ける。……決して先程無視された仕返しではない。断じてない。
「これまでの〈甜琳〉で気に入ったものとか、逆にイマイチだったものありましたか?」
「うーん、そうだな――」
しかしその刺さるような視線に耐えられず、思わず私が視線を向けると、青い髪のお兄さんはそれを待っていたかのように口を開いた。
「もしかして、これはお前が作っているのか?」
そう言って見せるのは、もちろん字皓さんの手から強奪した〈甜琳〉である。
「はい。そうですけど……」
文句でも言いだしそうな渋い表情だが、先程字皓さんからは、彼は〈甜琳〉が大好物だと聞いているし……
困惑した私を見かねたのだろう、字皓さんが話に入って来てくれた。
「菓子の名前が〈甜琳〉ですよ。で、この子は店主の娘で名前が李一琳。そうくれば、言われなくとも気が付きませんか? そのままじゃないですか」
ホッ胸を撫で下ろす。この人の視線は鋭くて、心臓に悪い。
だが安心したのもつかの間、青い髪のお兄さんは私から視線を逸らさないまま字皓さんに向かって言い返す。
「……お前は、俺がいちいちそんなことに気を留めると思うか?」
そして字皓さんもそれを当然のように、気にする様子もない。
私の時といい、今といい、何とも残念だがこれがこの人のデフォルトのようだ。
「まあ僕の名前すら憶えてるか怪しいあなたのことだ。思っていませんよ」
態度だけでなくなんともひどい会話内容に、思わず視線の強さも忘れ唖然とする。
二人とは初対面だが、これだけはわかる。字皓さん……苦労してるんだろうな。口調や、手土産を持って行くと言っていたことから、青い髪のお兄さんは字皓さんの上官か何かだろう。こんな横暴な上司、私だったら願い下げだ。
考えていたことがそのまま顔に出てたのか、目が合った字皓さんは苦笑を浮かべたものの、ありがたいことに話を投げ出すことなく続けてくれる。
「で、それがどうしたんですか?」
「いや、こんな小娘が作っていると聞いて驚いただけだ。ずっと店の親父が作ってると思っていたからな……でも確かに、言われてみれば匂いがする」
「は?」
その言葉に、思わず言葉が漏れる。
私、臭いの? 自分で服の臭いを嗅ぐが、とくに匂いはしない。これまでもそんなこと言われたことない。
「ああ、気にしないで。嘘だから。彼流の冗談だから」
落ち込む私を、字皓さんがそう言って慰めてくれる。
「本当ですか? 私臭いですか?」
「大丈夫、本当に大丈夫だから、あの人は犬並みに鼻が良いだけだから」
犬扱いされて不満なのだろう青い髪のお兄さんは眉を顰めたものの、特に言い返すことはなかった。
会話は終わったものの、未だ青い髪のお兄さんからの刺すような視線は続いている。
耐えきれなくなった私ついに、その視線を真っ向から受け止めてやるという謎の負けん気を発揮し、愛想笑いを浮かべ営業に徹することにした。
「期間限定の品も含めて、ちょくちょく新しいもの出す予定なので今後もどうぞご贔屓にお願いします」
するとその話題に食いついたのは、予想通り青い髪のお兄さんだ。
「次はいつ新作を出すんだ?」
「そ、それは、まだ決めてないんですけど……」
「なら、雨月に出していた菓子の再販はないのか?」
青い髪のお兄さんの目付きは鋭く、その表情は真剣だ。声が聞こえていない人たちには、私たちが菓子のことを話しているなんて想像できないだろう。
……適当なことをいえば、後々面倒そうだ。
雨月のお菓子? 雨月と言えば、もう数ヶ月前のことだ。確か錦玉をあしらった紫陽花もどきの生菓子だったはず……和菓子には提供したい時期というものもあるから、今の時期の再販は考えていない。
「いえ、今のところ再販の予定はありません」
「何故だ?」
そう言って詰め寄るようにグイッと私に近づいてくる。その顔の近さに居心地の悪さを感じつつも、素人とはいえ職人の意地とばかりにキッと見据えてはっきりと言い返す。
「その時の季節にあったものを提供しようと思ってますので」
私なりのこだわりがあるものばかりだ。ここは譲れない。説明で納得してくれたのか、やっと離れてくれた。
ホッ胸を撫で下ろして気が付いた。やたらと心臓が早い。……まさか傍若無人なこの人に、トキメイタノカ?
いやいや、やたらと接近してきたから意識しただけだ。うん……そうに違いない。
未だバクバクと波打つ心臓を落ち着かせつつ、もう一度確かめるように青い髪のお兄さんを見上げて後悔した。
……今更なのだが、この人、超美形なのだ。
年の頃は二十代後半か三十代くらいだろうか?
身丈は平均値を遥かに超えて、百九十センチ程はあるだろう。仕立てのいい長衣に身を包んでいる。
青い髪は私よりも長く、うなじで一つに束ねているが絡まったことなど一度もなさそうなほど綺麗なストレート。瞳も髪と同じ青色だが、若干瞳の方が色が濃く、長い睫に縁どられた切れ長の目は鋭い印象を与える。高く真っ直ぐに通った鼻梁は、こんな性格を知ってさえどこか気品を感じさせ、形の良い薄い唇は……気障な言葉の一つでも囁こうものなら、女性がくらりとするだろう。
だが残念ながら、そこからは菓子関連の話題しかでてこない。
改めてその作り物じみた美しさを確認して困惑する。本当にあのお菓子のことしか頭にない無愛想なお兄さんと同じ人なのだろうか?
この格好良さに気が付いていなかったとは、自分自身に驚きだ。とはいえ、声を掛けたときはごろつきのことで頭がいっぱいで、髪色の派手な二人組としか認識していなかったし、その後もずっと不遜な態度ばかりに目がいって気付かなかった。
でもあんな近距離に詰め寄られると、嫌でも意識をしてしまったではないか!
顔を直視したことでドギマギが止まらず、顔を赤くしている私を助けてくれたのは、やはり気遣いの男――字皓さんだった。
「いやあ、先程の客とのやり取りでも思っていたんだが……君は見た目からは想像できないほどに、しっかり者だね」
その場の雰囲気を一度取り払うかのように、字皓さんは少し大きめの声で話をしたあと、私に向かってにっこりとほほ笑んでくれる。
ちなみに字皓さんも男前だがドキドキするというよりは、ほっこりとさせてくれる雰囲気の持ち主だ。情熱的な真っ赤な髪も、炎というよりは夕陽といった印象を受ける。それに身丈も青髪のお兄さんと同じくらいあるだろうに、不思議と圧迫感を感じなかった。
「あと二年もすれば、君の前には求婚者で溢れそうだ。しっかり者で美しい女性をみなが妻にと望むだろうね」
「ありがとうございます。そうなればいいんですけど……おっかないって、逃げられないようにがんばります」
彼のおかげで、なんとか軽口が叩ける程度には平常心を取り戻すことができた。
そうだ! 私だって、負けていない……いや、青髪のお兄さんには負けてるかもしれないけど、美人の部類だ!
鈴音の記憶に引きずられると、ついつい自分は平凡だと認識しがちだが、記憶が戻った日に初めて一琳の容姿を確認したときの衝撃を忘れてはならない。
私はこの容姿をフル活用して、生きて行くと決めているのだ! 目指せ玉の輿!! ちなみに今の私の中での旦那さま候補は、幼馴染の楊 暁明である。彼は五才差と年齢も丁度いいし、ハンサムだし、この町で一番の商家の一人息子なのだ。
幸運にも家が近所のため、家族ぐるみで親しい付き合いをしている。正式な手続きこそしていないが、互いの両親の心中では、すでに許嫁になっている気もするほどに仲がいい。
さらに私にとっては都合が良いことに、暁明の気持ちは三年前と何ひとつ変わっていないようだ。……つまり、私にメロメロである!
ただ残念なのは、まだ私は暁明をそう言った目で見れないということ。
可愛げがないとわかっている……だが外見とは異なり、中身は前世のアラサープラス今の年齢だから、結構な年齢なのだ。
暁明も十八才になったとはいえ、まだ無理だ。まだそういう目でみれない……未成年者淫行という単語が出てくる記憶が恨めしい。
暁明と幼馴染でなく、出会ったのが今くらいの年齢なら恋愛対象となりえたかもしれない。それかいっそのこと、私と十才以上年が離れていたら。
どうしても鈴音の感覚が戻ってからというもの、暁明に対して弟感覚が抜けないのだ……いや、むしろ小さいときから見ているだけに、息子――いや、これ以上言うのはやめておこう。いざ結婚となったときに、激しく後悔する気がする。
私の一人百面相を見ていただろう字皓さんは、声を上げて笑いだした。
「君は見ていて飽きないね。無銭飲食客を相手していたような厳しい顔や花が綻ぶような笑顔。それに何を考えているのか、黙り込んだまま表情がころころ変わるし……」
「お客さまの前ですみません」
相手はお客さんで、しかも初めて会ったばかりだというのに、恥ずかしい所を沢山見られてしまった。
「折角名乗ったのだから、字皓と呼んで欲しいな」
「いいんですか?」
相手は年上だし、お客さんだ。それに名前を呼ぶというのは、かなり親しい間柄になる。
「そのかわりと言っちゃなんだけど、僕も一琳と呼んでもいいかな? 君みたいな賢い女性に向かって、お嬢ちゃんとは呼べないからね」
「喜んで」
字皓さんと和やかに話していると、再び視線が突き刺さる。またかと思いながら視線を向けると、やはり青い髪のお兄さんがこちらをじっと見ている。
目が合ったものの、何を言いたいのか全くわからない。表情から読み取れと言われても無表情かしかめっ面だ。付き合いの長い字皓さんならわかるのかもしれないが、私がわかるはずもないだろう。そう首を傾げた私に、彼は静かに告げた。
「周 藍だ」
初めて彼の口から出た菓子以外の話題は、意外にも彼の名だった。
周藍さんか……字皓さんもそうだけど、彼も髪の色が名に入ってる。赤い髪の朱 字皓と青い髪の周藍。覚えやすいわー。
そう考え、つい笑ってしまった私を怪訝な顔で見ている。私は慌てて自分も名乗る。
「李 一琳です」
「知っている、さっき聞いた」
このヤロウ……口を開けばお菓子か嫌味しか言えないのか! 私が周藍さんを半眼で睨みつけていると、字皓さんが小さく呟く声が聞こえた。
「驚いたな」
その声に視線をずらすと、目を見開いて周藍さんを見つめる字皓さんの姿があった。
「字皓さん?」
「え、ああ。ごめんごめん。彼が名乗ったことに驚いてね。あの人は滅多に名乗らないから。きっと一琳のこと気に入ったんだと思うよ」
今日会ったばかりだというのに、周藍さんが滅多に名乗らないということがすごく理解できた。他人に全く興味がなさそうだからだ。
「私が〈甜琳〉の制作者だからですかね?」
実際その話題が出るまでは、私のことなんて眼中になかったようだし、間違いないだろう。
「当たり前だろう。それ以外に理由があると思うか?」
なんだか馬鹿にされた様で悔しい。
これが鈴音なら、仰る通りでございます……なのだが、一琳に至っては、普通の男性ならその外見に釣られて好意を持ってくれる人も多いのだ。
だが周藍さんのような超のつく美形には、私の見てくれは何の役にも立たないのだろう。そりゃ鏡で毎日見ていたら、美の基準が厳しくなるに違いない。
理解できる、できるのだが……甘味ばっか食べてる偏食のくせに、その肌荒れひとつない肌や絹糸みたいな髪を持つ周藍さんが憎い。
……ぐぬぬと私が悔しさに耐えているうちに、さっさと周藍さんは背を向けて歩き出す。
「周藍! まったく、あの人は……それじゃあ一琳と知り合えて良かったよ、またね」
字皓さんはそう告げると、陽だまりのような微笑を残して店から出て行ってしまう。
私はほんの少しの間、その笑顔に見惚れ動けずにいたが、他のお客さんたちのからかいの声になんとか気を取り直し、卓の片づけを再開した。
今となっては忘れそうになっていた詐欺男の卓を片付け終え、字皓さんたちが座っていた卓上に移ると、お金が置いてある。
「お代はいいって、言ったのに……」
私はそれを掴むと、急いで店の外に出た。走ること数分、運よく大通りで二人の後姿を見つけた。
だが彼らの歩みは早く、追いつくのは一苦労だ。
「まったく、足の長さが違うのよっ! もう! 待って!!」
だが距離もある上に、大通りという雑多な空間のため聞こえないのだろう。字皓さんは振り返らない。
しかし先程は無視した周藍さんが、今度は反応を見せた。なんと驚いたことに、立ち止まって振り返ったのだ。するとそれに気が付いた字皓さんもこちらを振り返ってくれた。
「あの、お代!!」
すると二人で何か話したように見えたあと、字皓さんが首を振りながら片手をあげる。その手には先程渡した〈甜琳〉が握られていた……といっても、すぐに周藍さんに取り返されていたけど。
「お礼は、あれだけで十分ってことか……」
なんとも心も男前だ。私はペコリと頭を下げて店に戻ったのだった。
長いので、分割。まだ続きます。次回--人生そんなに甘くはありませんでした②