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第九話 取り留めもない事

 部屋に戻ったぼくの携帯に彼女からの憂鬱なメールが届いた。

”子供の事や結婚の事は考え直してもいいよ。私達これまで結婚の話なんてした事なかったし、子供が出来たからって、まさくんを一生しばる事は出来ないよ。気を使われて結婚するのって私は嫌だな。私も悪かったと思う。今まで将来の事とか考えてこなかったし”

 まるで別れ話のような彼女のメールに驚いて僕は慌てて電話を掛けた。彼女は少し涙に濡れた声になっていた。

「もう少し待っていて欲しい。父さん達を説得できそうなんだ」

 僕は彼女にこの数日で起きた事を話して聞かせた。父が僕に産みの母親を探させようとしていること。どうやら父は僕の本当の父らしい事が判った事について。僕の本当の母の名前。住んでいたアパートの事。隣のおばさんがくれた写真。そして大家さんに言われた子供を捨てる母親なんていないって言葉。

 これまでも彼女には僕が養子縁組だったって事はそれとなく伝えてあったからか、彼女は僕の早口で不器用な説明を最後まで聞いてくれた。

「父さんとの間の色々な出来事を聞かせると困惑させるかも知れないけど、知っておいて欲しいんだ」

 会話の焦点が大きく外れた事にきっと彼女は気が付いていたと思う。でも優しい彼女はこう言った。「お父様はやっぱり、まさ君と本当のお母様を会わせようと思っているのよ。本当は優しい人なんじゃないかな」彼女はナーバスな点を除けば普段はおっとりしたお人善しだ。だから彼女の言葉に俄に賛成できない。「そうかも知れないけど、だったらなぜ僕を捨てたんだろう。最初から養子なんかに出さなきゃ良かったって。もういまさらだけど」これ僕の中の一番大きな疑問だった。それだけでなく父の行動を良いふうに取る事が出来ないだけなのかも知れなかった。

 「一つ聞いていい?いつ頃からまさ君は青野あずささんの事をエコーと呼んでいたの?アパートのお隣の部屋のおばさんはまさ君がママって呼んでたって言ってたんだよね?」確かにそうだった。僕の中でまたエコーとの記憶がぐるぐる渦巻きの逆噴射のように断片的にこぼれ出した。

「僕を捨てた人だからって今でも思っているけど。それでももう少しエコーの事を調べてみるよ」

「その方が良いと思うよ」

 彼女との電話はいつの間にか別れ話ではなくなりエコーの秘密に関する意見交換になっていった。

「ありがとう、悪いけどまだ京都には帰れない。明日はもう一度エコーの行動を調べてみるよ」

「大丈夫よ。ただ今のお家のお母様の事も気にしてあげてね」

「え?」

「だって、まさ君がこんな事してるって知ったら、やっぱり良い気はしないと思うから」

 彼女の言うことはもっともだった。当分、母にはこの事は内緒にする方が良いだろう。

そのまま別れ話しを中断したまま穏やかに切れた。ほっとして肩の力が抜けた。先延ばしにしたものはまた動き始めると判っている。

 それでも僕は明日またエコーの事を調べてみようと思った。急に色々な出来事があって僕は少し混乱気味だ。少しイライラしているかもしれない。自室のベットに腰を掛けて壁の古い染みを眺める事でそのイラつきから逸らそうとしている。いつからあった染みなのか、何で付いてしまったのか覚えていないのに、気づけば変わらずに有る染みが今度は気になり始めた。小さくてすみれの花弁の様に同じ場所に幾重にも重なって染み付いた様で、時間と共に薄れたにしても少し拭いたくらいじゃ綺麗にはなないだろう。  気にしなければ気にならないが、気になりだすと無性に確かめたくなる。僕は壁に歩み寄り指でその染みを撫でてみた。綺麗な部分と何も違いのない手触りだった。だけど確かに薄灰色の何かの染みだった。指でこすっても少しも薄くならなかった。目をそむければ二分で忘れてしまいそうな染みだったが僕の眼はしばらくそこに釘付けになった。

 子供の頃、この部屋で眠れないときずっとこの染みを見ていた。この染みを花壇で色を付ける花弁のように見ていた。きっとエコーのアパートに有った鉢に咲いたものを思い出していたのだろう。

 不意に僕の中で彼女とエコーがダブって見えた。安いアパートの一室で子供を抱く一人の女。もちろん僕達の赤ん坊はまだ産まれてはいないけど、心細い気持ちはきっと同じだろう。

 まだエコーと暮らしていた頃、夜の仕事から帰るエコーをアパートの部屋で一人で待っていた事を思い出した。だけど当時の僕は心細くなかった気がする。エコーが毎日帰ってくると信じていたからだ。必ず帰ってくる、そう思うだけで夜は寂しいものではなくなった。僕は不思議なほど平気だった。

 携帯に彼女へのメールの文章を入力した。

”一人で無理させてごめんね、体調が悪くなったらすぐに病院へ行くんだよ。僕は家族の了解を得たらすぐに帰るからね。僕はその部屋に必ず戻ってくるから、必ず帰るから。それまで待っていてほしい”


 幼い頃の記憶っていうのは不思議なほど薄れていくものだった。古い記憶から上書きされて忘れていくものなのか。それとも楽しくなかったから忘れてしまったのか。少しずつエコーの事を思い出してきたけど、エコーをどんなふうに好きだったのか、離れて暮らしてからは憎んでいたのか、そういう所がとても曖昧だから僕の記憶の中のエコーは歴史年表の記号のように存在しているだけで、まだ温かさを持って動き出していない。ブロックが掛かっているみたいに入れない領域がある。誰が掛けたブロックなのか、僕自身で掛けてしまったのか、僕にはまだ知らない事があるのかも知れなかった。


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